第68話:森、息を止めて(出没注意)
川のせせらぎと小鳥のさえずりが、まるで森そのものが呼吸しているかのようで穏やかに響いていた。
木々の梢を抜ける風は涼しく、朝露を含んだ土の匂いが鼻をくすぐる。
そんな心地よい自然の中を、三人は必死に歩いていた。
「ひぃ……ひぃ……」
カナレの肩からは、汗がぽたぽたと落ちている。背中に背負ったリュックは、如月の数倍はある重量だ。
金具や水筒、折りたたみのマットまで詰め込まれ、まるで遠征部隊のような装備だった。
息が上がるたびに、肺の奥が焼けつくように痛む。
「ひぃひぃ言うな……こっちまで疲れる……」
如月は前を歩きながら、振り返りもせずにぼやいた。
その足取りは驚くほど軽い。足裏で小石を踏むたび、リズムの取れた音が山道に溶けていく。
後方では、カナレと十見子が並んで歩いていた。二人とも、真新しいトレッキングシューズがまだ馴染んでいないのか、歩くたびに「イタッ」「あ、また……」とつぶやいては足首を気にしている。
踵のあたりにはすでに赤く擦れた跡が見え、時折立ち止まっては絆創膏を貼り直していた。
「まだ付きませんの……そのナントカ洞窟……」
十見子が半泣きでつぶやく。その声は、森の中で吸い込まれるように消えていった。
空はすでに白み始めている。夜中の三時に出発してから、麓を歩き始めてすでに六時間が経過していた。湿った空気が肌にまとわりつき、背中の汗が冷えてぞくりとする。
如月以外の二人は、もはや限界を迎えていた。カナレの肩は前に落ち、十見子は手にしたストックを杖のように使って一歩ずつ足を運んでいる。息づかいが荒くなるたび、鳥の声が遠くへ逃げていった。
そんな二人に、如月が発破をかけた。
「何だお前ら、普段はもっと厳しい練習してるだろ」
声の調子は軽いが、その中に呆れと微かな笑みが混じっている。
だがカナレや十見子も、返す言葉を失っていた。息は荒く、額から滴る汗が顎を伝って土に落ちる。
森の中は、思いのほか湿気が多い。木々が密集し、風が通らないため、体力の消耗度が激しかった。
カナレの髪は首筋に貼りつき、十見子の頬には汗の筋が一本、まっすぐ流れていた。
如月はその様子を見て、少しだけ眉をひそめた。
――やれやれ、こりゃ限界か。
不憫に思ったのか、「休憩を取るか」と声をかけると、二人の目が一気に輝いた。
その瞬間、まるで先ほどの疲労が嘘のように、大木の木陰めがけて駆け出していった。
「おい、元気じゃねぇか……」
如月が苦笑まじりに呟く。
木陰は大きな楢の木で、地面には厚く苔が生えていた。枝葉が陽を遮り、そこだけひんやりとした空気が流れている。
カナレと十見子は我先にと腰を下ろし、ついには力尽きたようにそのまま地面に倒れこんだ。
「疲れた……」
「もぅ……歩きたくありませんわ……」
カナレは両腕を広げて仰向けに倒れ、まるで地面に吸い込まれるように動かない。十見子は膝を抱えたまま、ゆるく揺れる木漏れ日をぼんやりと見上げていた。風が二人の髪を撫で、木々の葉がさわさわと音を立てる。
「まったく……」
如月はため息をつきながら、ゆっくりと二人のもとへ歩み寄った。
足取りは相変わらず安定している。登山靴の底が小石を踏みしめ、落ち着いた音を立てた。
如月の背中に揺れるリュックからは、金属の留め具がかすかに触れ合う音がした。その音だけが、静まり返った森に響いていた。
「もうヤダ!歩きたくな〜い!」
カナレの叫びが、谷あいに甲高く響いた。
だが、返ってくるはずのコダマはなかった。
音は森の奥で吸い込まれ、ただ木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声がかすかに返すだけだった。
十見子は、もう声を出す気力すらなかった。 そのまま地面に倒れ込み、胸の上下だけで息をしている。頬に付いた土の粒が、汗で小さく固まり、額の髪に張り付いていた。
如月は、そんな二人を追ってゆっくりと近づく。足音は落ち葉を踏むたびに柔らかく沈み、背中のリュックがわずかに揺れた。
そして二人の元にたどり着くと、荷物を背にしたまま腰を下ろした。風が止み、森が一瞬、呼吸を止めたように静まり返る。
如月は深く息を吐き、淡々とした声で言った。
「普段の練習の方がもっと過酷だろ?」
その声は、厳しい叱責というより、呆れと微かな心配の入り混じったものだった。
カナレは顔だけをゆっくりと如月の方に向ける。頬を伝う汗が、光を反射して細く線を描いていた。
「……如月っちが異常なんだよ。よく耐えられるな……」
その声は低く、掠れていた。喉の奥が渇き、言葉の端がひび割れている。
しばしの沈黙。
森の奥から、どこかで木の実が落ちる乾いた音。
やがてカナレは、力なく言葉を続けた。
「ここ……三女神の力が届かないんだよ。ギフターにとっては最悪の場所。ギフトの恩恵も、いつもの身体能力も全部……弱化してる」
その説明に、十見子がうっすらと目を開ける。 視界の端で揺れる木漏れ日が、まるで薄い靄のように滲んで見えた。
如月は、彼女たちの言葉を黙って聞いていた。確かに――少しばかりの違和感を覚えていた。
(ギフトのせい、か……)
自分の掌を見つめる如月。
力が抜けているわけではない。だが、体の奥で微かに“重い”。筋肉の反応が、いつもより半拍遅れているような感覚。
普段より疲れる。それでも、歩ける。
――この程度なら、まだ問題ない。
そう結論づけて、如月は短く息を吐いた。
(こんな山道くらい、あの時の比じゃない)
頭の奥に、かすかに霧の立ちこめた過去の山がよぎった。 師・アルフォンスと共に、霞の中で何度も意識を飛ばしたあの日々。その記憶が、静かに背筋を引き締めていた。
そしてカナレは、地面に座り込んだまま、如月に問いかけた。
「なんで如月っちは何ともないんだ?……」
息を切らしながらも、目だけは真っ直ぐに向けてくる。その問いに、如月は一瞬だけ考えた。
確かに、体は重い。呼吸も深くなる。だが足は止まらない。心のどこかで、その理由を自分でも分かっていた。
「昔よく師匠と山籠もりしてたから、それで慣れてるのかもな」
そう言って、少しだけ笑う。けれど、その笑みに混じるのは懐かしさではなく、どこか乾いた響きだった。
それは、英二だった頃の記憶――。
霧が立ちこめる山深く、夜明け前の冷気が肌を刺す。岩の上に座した師・アルフォンスの声だけが、静寂を裂くように響いていた。
――「心を空にせよ。恐れや飢えも、全ては一瞬の幻だ」――。
その言葉に導かれ、英二は目を閉じた。
数日間、食べ物もなく、ただ雨水と草の根で命をつなぐ。空腹の極みに達すると、幻のように山の匂いが鮮やかに感じられた。
やがて体が自然と一体となった時、イノシシを罠で仕留める。野鳥の羽をむしり、蛇の皮を剥ぎ、カエルを串に刺して焼いた。煙が目に染み、油の焦げる匂いが鼻を突く。
それでも、不思議と心は静まっていった。
――それが、生きるということだった。
如月はふっと息を吐く。言葉にするほどのものでもないと思いつつ、簡単に説明した。
「その時は食べるものもなくてな。イノシシとか野鳥……たまに蛇やカエルとか捕まえて食ってたな」
淡々と語る如月。だが、聞く側の二人にはまるで異世界の話のように響いた。
カナレと十見子の顔が、同時に引きつった。
「なんか……気持ち悪くなってきた……」
「わたくしも……お手洗いはどこですの?」
十見子が顔を青ざめさせながら言うと、如月は一瞬だけ目を丸くして、それから肩をすくめた。
「あるわけないだろ。どうせ日帰りなんだ、我慢しろ」
冷徹というより、完全に常識のズレた一言だった。カナレと十見子はその場に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。
森の静けさが、再び三人を包み込む。
遠くでカッコウが鳴き、梢の間を渡る風が、葉の裏を裏返すようにさわさわと音を立てていった。
木々の隙間から差し込む光はユラユラと揺れ、三人の影を長く伸ばしている。
如月の言葉に、反論できる力など二人にはもう残っていなかった。
ただ、地面の冷たさと土の匂いだけが、現実をつなぎ止めている。
そんな二人の様子を見て、如月は小さく息を吐いた。無言のまま肩からリュックを降ろすと、重たい音を立てて地面に置く。そして、中をごそごそと探り、銀色の包みを取り出した。
「ほれ」
短く言って、そのまま二人へ放る。アルミホイルの塊は、空中で光を反射しながら弧を描き、二人の手にすっぽりと収まった。
「なんですの?これ」
十見子が首を傾げ、カナレは包みを目の高さまで掲げて眺める。如月が答えた。
「わざわざ夜中に出勤して涼子さんが作ってくれたおにぎりだ」
その言葉を聞くやいなや、二人の目の色が変わった。顔を見合わせ、次の瞬間にはくしゃくしゃとアルミホイルを開き始める。包みがほどけるたびに、ふわりと米香りが広がった。
中から現れたのは、見事な艶を帯びた大きなおにぎり。冷めているのに、白米の粒が陽の光を受けて輝いていた。
「うまっ……!」
カナレはためらいもなくかぶりつき、頬を膨らませながら叫ぶ。
「うまうま!なにこれ!」
「美味しいです!美味しいですわ!」
十見子も上品さを忘れて、両手でおにぎりを抱え込むように食べていた。口元に米粒をつけながら、それでも目を潤ませている。
如月はそんな二人を見て、思わず苦笑した。
手のひらで額の汗をぬぐいながら、「やれやれ……」とつぶやいて、自分も1つ取り出す。
如月はふと横目で二人を見やる。夢中で頬張る姿に、自然と口元がほころんだ。
そして如月もおにぎりを取り出し、同じようにかぶりついた。
塩だけで味付けされたシンプルなおにぎり。噛むたびに米の甘みがじんわりと滲み、わずかに残る温もりが胃の奥に染みていく。時間が経っているにもかかわらず柔らかく、ほろほろと口の中でほどけていった。
森の中に、ほんの束の間の平穏が流れる。
「そうだ」
何かを思い出したように、如月は再びリュックを探った。指先に触れたのは、薄い紙袋。そこから取り出したのは――黒々とした海苔だった。
「海苔、忘れてたな」
いつものように別で包んでいたのを用意してくれていたことを思い出し、二人に渡そうと顔を上げた、その瞬間だった。
――光が、翳った。
頭上の木漏れ日が不自然に遮られ、二人の上に“影”が落ちた。ただの雲ではない。何かが、そこに立っていた。
カナレと十見子の肩を覆うほどの巨大な影。その輪郭が揺らぎ、地面に落ちた葉がざわりと動く。
「……ん?」
カナレが反射的に振り向いた。
そこには、身の丈二メートルを優に超える熊が立っていた。黒褐色の毛並みが光を吸い、鼻先からは湿った息が荒々しく漏れている。金色の瞳が、獲物を見定めるようにぎらりと光った。
「ゴッ……ゴッ……フゥーッ……!」
獣の喉から漏れる低音が、空気を震わせる。そのたびに地面の落ち葉がかすかに舞い上がった。生暖かい吐息が頬を撫でるように、鼻を突く獣臭が一気に広がる。
十見子の肩がビクリと跳ねた。
「くっ……く、くくくまぁ〜っ!?」
裏返った悲鳴。熊の耳がその声を捉え、次の瞬間、巨体が爆発するように動いた。
地面を蹴った衝撃で、土と枯れ枝が飛び散る。熊は一直線に、十見子めがけて突進してきた。
「グゴァァッ!!」
その咆哮は、鼓膜を突き破るほどの衝撃音だった。鳥たちが一斉に飛び立ち、森の静寂が音を立てて崩れていく。
カナレの喉が、乾いた音を立てた。おにぎりが指の間から滑り落ち、地面の苔の上に転がった。
平和な昼餉の時間は、一瞬で地獄に変わった。
獣の咆哮を耳にして、十見子の体が硬直した。鼓膜を揺らす低音が、まるで全身の血を逆流させるようだった。
視界の端で熊の巨体が動く――だが、恐怖で足が地面に縫い付けられたかのように動かない。
しかし、カナレは違った。その瞬間、体が反射的に動いていた。
――《剛腕》。
叫ぶと同時に、彼女の両腕に稲妻のような力の奔流が走った。筋肉が爆ぜる音とともに、腕がわずかに膨張する。
皮膚の下で血管が浮き上がり、目に見えぬ圧力の波が空気を震わせた。
全身の重心を一気に前へ。
得意技――マイティータックル。
地面を蹴る足の裏から、岩を砕くような衝撃が伝わる。体当たりは一直線。熊の脇腹めがけて、渾身の勢いでぶつかっていった。
――ゴッッ!
衝突音が、まるで巨大な鐘を鳴らしたように山間に響く。ほんの少しだけ熊は仰け反るように後ろへと下がっていった。
だが、手応えは異様だった。レスラー同士の肉がぶつかる感触ではない。硬い。鈍い。まるで分厚い鉄の塊に、体が吸い込まれたような衝撃。
熊の毛皮の下には、岩のような筋肉が詰まっていた。打撃は確かに命中したのに、反動のほうが強い。カナレの膝が揺らぎ、足元の土がめり込んだ。
「逃げろ!ゾビ子!」
叫ぶ声が掠れる。振り返ると、十見子はまだ地面に膝をついたまま震えていた。唇が青ざめ、目だけが恐怖に見開かれている。
「だ……だめですわ……あっ、足が……」
言葉は震え、息が浅い。恐怖というより、体そのものが命令を拒んでいる。指先すら冷たくなっていた。
カナレは奥歯を噛みしめた。その刹那、視界の端で熊の影が揺れる。怒りと痛みが混じった唸り声――。
「グルゥゥゥ……」
如月がその虚を逃さなかった。
一歩踏み込み、腰を切る。足の筋肉が鞭のようにしなり、次の瞬間、膝が稲妻の軌跡を描いた。
――視穿ち(みうがち)。
膝が熊の眉間を正確にとらえる。鈍い衝突音のあと、衝撃波のような風圧が辺りの草をなぎ払った。 熊の頭がのけぞり、唾液が飛び散る。
しかし――それでも倒れない。
熊は、一歩だけ後ろに退いた。そのまま、低い姿勢を取ると、獣特有の唸り声を深く響かせる。金色の双眸が、如月をまっすぐに射抜いていた。
呼吸の音すら聞こえる距離。次に動いたほうが、命を落とす。
如月の喉の奥から、かすかに息が漏れた。その表情には、恐怖ではなく――闘志の光が宿っていた。
「カナレ!十見子を連れて逃げろ!」
如月の声が、森の静寂を切り裂いた。その一言に込められた圧が、空気そのものを震わせる。
カナレは歯を食いしばった。喉の奥が焼けるように熱い。体中の血が逆流する感覚。
「そんなことできるわけないだろ!如月っちだけ置いて逃げられるかよ!」
声が裏返るほど叫ぶ。熊の荒い息遣いが近づいているのに、それでも一歩も引かなかった。
如月はその様子を一瞥し、眉をわずかにひそめた。そして、低く短く、突き刺すように言い放つ。
「馬鹿野郎!このままじゃ全員、あいつの腹の中だぞ!」
その言葉が、刃のようにカナレの胸を抉った。
――頭では分かっている。けれど、足が動かない。
十見子はそのやり取りを聞きながら、地面を這うように後退していた。
だが、腰に力が入らない。震える手で地面を掴むが、指の隙間から砂がこぼれていくだけ。
「こ……腰が抜けて……立てませんわ……」
声は掠れて、泣き出しそうだった。彼女の足元には落ち葉と小石が散らばり、爪先が何度も空を切る。
カナレは舌打ちをして駆け寄ると、十見子の体を抱え上げた。いつもなら軽いはずの体が、鉛のように重く感じる。肩にかかる体温が、かえって自分の無力を突きつけてくる。
(……この森に入ってから、全然力が入らない……マイティータックルだって普段の一割も威力がなかった。たぶん如月っちも……)
思考が焦りと共ににじむ。背後では、熊が低く喉を鳴らしながら、地を蹴るタイミングを計っていた。
「如月っち!」
カナレが振り返って叫んだ瞬間――地面が揺れた。
熊が突進する。
地を割るような轟音とともに、枯れ枝と土が四方に弾け飛ぶ。巨体の動きとは思えぬ速さ。まるで山が走ってきたような迫力。
如月は一瞬だけ息を呑み、すぐに構えを取った。膝をわずかに曲げ、手は拳ではなく手刀で低く構える。
その姿は、もはやプロレスラーの構えではなかった。肩の力を抜き、わずかな呼吸すら制御した――まるで人の理を越えた“生殺の構え”。
一挙手一投足が、命の線を分かつ刃のように研ぎ澄まされていた。
その目には、静かな闘志と諦めの境界線が浮かんでいた。空気が張り詰め熊の巨体が迫り、如月の視界いっぱいに黒い毛並みが広がる。
――その刹那。
森の奥から風が裂けるような音。
同時に、如月と熊の対角線上――横脇の茂みを突き破って、別の“大きな影”が飛び出してきた。
「!?」
如月の瞳が揺れる。
時間が一瞬だけ止まる。
熊の咆哮が途中で途切れ、空気が引き裂かれる。
目を凝らすと、その影は――人間だった。
ただの登山客ではない。明らかに、戦うことを前提にした“構え”をしている。
風が吹き抜け、木々の葉がざわめいた。次の瞬間、森の空気が、がらりと変わった。




