第69話:森に響く柏手
――バシィッ!
森の静寂を切り裂くような轟音が響いた。影の人物が出合い頭に熊の顔面めがけて渾身の張り手を叩き込む。
熊は衝撃にのけぞり、口を開けたまま二本足でよろめきながら後ずさると、そのままドサリと尻もちをついた。
その影は、スポーツウェアに身を包んだ長身の女性だった。
森の木漏れ日が、汗を含んだ生地の上で鈍く光る。肩から腕にかけての筋肉は無駄なく引き締まり、しなやかでありながら岩のような重みを感じさせる。
長い黒髪を後ろに束ねているが、それはポニーテールというよりも、凛と張りつめた気迫を放つオールバックに近い髪型だった。
額の汗が一筋、こめかみを伝い落ちる。彼女の瞳はまっすぐ熊を射抜いていた。
熊は低く唸りながら、慎重に間合いを計っている。
前脚が地面をかすめるたびに、湿った土がわずかに沈み、落ち葉が微かに舞った。
――静寂が、二者の間に横たわっている。
一方で、女性は逃げる素振りを一切見せなかった。むしろ、ゆっくりと息を吸い込み、静寂の中心へと沈み込むようにして、その場で蹲踞の姿勢になる。
背筋が一本の矢のように伸び、両膝が地を捉えた瞬間、森の空気がわずかに震えた。
そして、掌を擦り合わせ――揉み手をして、柏手を打った。
パンッ!
その音は鋭く、乾いていた。
だが決して荒々しくはない。まるで森そのものを鎮め、場を清めるような響きだった。
湿り気を帯びた木々の間を、その音がまっすぐ抜けていく。
枝の先に溜まった露がわずかに震え、数羽の鳥が驚いたように枝葉を払い、一斉に飛び立った。
木漏れ日が揺れ、森が一瞬だけ息を止めた――。
女性は両手をゆっくりと広げ、掌を静かに下へ返した。その動きには、一切の無駄がなかった。
流れるようでいて、芯には確固たる力がある。
森の光がその腕の輪郭を縁取ると、まるで神前に立つ巫女の舞のように、空気そのものが澄みわたっていく。
その一連の所作は、息を呑むほどに美しく――そして、どこか畏れを抱かせるほど神々しかった。
見守る者の鼓動さえ、次第にその静けさに溶けていく。
それは単なる動きではない。すべては角力の所作であり、礼節と信仰が同居する、魂の儀式だった。
力水こそなかったものの、そこにはまぎれもなく――神事としての相撲が、静謐と緊張の狭間において執り行われていた。
熊もまた、その女性の一挙手一投足に魅入られていた。唸ることも、動くことも忘れたように、ただ本能で理解している。
この存在には、敵意は意味をなさない――と。
やがて女性は、深く息を吸い込んだ。その瞬間、周囲の空気が凍りついたように感じられた。
そして、仕切りの姿勢。
股を大きく開き、腰を沈め、重心を一点に集約させる。
その姿は、まるで大地そのものが形を持って立ち上がったかのようだった。土がわずかに軋み、足の裏を通じて重圧が伝わる。
森のざわめきが消えた。
風も止み、音もなく――。
まるで、せき止められた水が決壊する直前のような緊張感があたりを支配する。草の葉の先に止まっていた露が震えたその刹那。
――勝負は、すでに決まっていた。
女性は、一瞬の間すら与えず、頭から熊へと突っ込んだ。
ぶちかまし一閃。
ゴンッ!
鈍い衝撃音が森を裂く。肉と肉がぶつかり合う生々しい音。それは風を押し返し、木々を震わせ、地面をたわませるほどの質量を伴っていた。
熊の巨体が、まるで軽い藁人形のように宙を舞う。吹き飛ばされた体が、背後の根を巻き込みながら地に叩きつけられた。
落葉が舞い、遅れて風が追いかけるように吹き抜ける。
「すげぇ……」
あまりの威力に、カナレが思わず声を漏らした。その声は呆然とした息のようで、空気の中に溶けた。
如月は、その横で女性の動作を凝視していた。
ただの一撃ではない――その中に、長い鍛錬と魂が宿っているのを感じた。
力ではなく、“信”によって放たれた一撃。如月の背筋に、冷たい震えが走った。
――素人じゃない。でも……女性力士?
どこか腑に落ちない思いが残ったのか、如月は首をかしげつつも、その場の空気から目を離せずにいた。
胸の奥では、まだぶちかましの衝撃が残響のように鳴り続けている。風の音も、葉擦れも、まるでその一撃を畏れて息を潜めているかのようだった。
吹き飛ばされた熊は、戦意を喪失したかのように地面に首を垂れ、身を縮こませて震えていた。
毛並みに絡む土埃が、ゆっくりと舞い上がる。その大きな背が、かすかに上下しているのが見えた。逃げ出すでもなく、ただ動揺と戸惑いの狭間で立ちすくんでいる。
そんな熊に対して、女性は歩み寄るでもなく、その場から一歩も動かずに声をかけた。
まるで母が子を叱るのではなく諭すように――柔らかく、静かに。
「ほら、もういいだろ……」
その声は低くハスキーでありながら、不思議と温かかった。湿った空気を震わせ、森の奥まで響く。
その声には、力ではなく「許し」が宿っていた。まるで自然そのものが語りかけているように、凛とした音色があたりを包み込む。
「早く自分の居場所におかえり……」
その言葉は、命じるでも追い払うでもなく――ただ、道を示す声だった。
熊はしばし動かなかったが、やがて小さく息を吐くように鼻を鳴らした。
そして、ゆっくりと体の向きを変え、森の奥へと歩み始める。枝がしなる、足音が消えるまで、誰も言葉を発しなかった。
残されたのは、静寂。風が戻り、葉が再びそよぎ出す。
鳥のさえずりが一声、二声と響き、まるで森そのものが息を吹き返したかのようだった。
その沈黙を破るように、女性はくるりと振り返る。陽光が木漏れ日となって髪にかかり、汗に濡れた頬をかすかに照らした。
先ほどまでの緊迫感が嘘のように、彼女の瞳には穏やかな光が宿っている。
「あんたたち。大丈夫かい?」
その声音は柔らかく、どこか懐かしさを帯びていた。張りつめていた空気が、ふっと緩む。
そして、その顔を見た瞬間――カナレが大きな声を上げた。
「あーっ!トガミ先輩!」
驚きと喜びが混じった叫び、森の中に弾けた。静寂のあと、初めて人間の温度が戻ってくる瞬間だった。
――鈴木研美。
なでしこ角力協会に所属していた女性力士にして、元横綱。
土俵に上がったその日から、彼女はただの一度も後ろへ退かなかった。受けて、流さず、ただ押し出す。
その圧倒的な正攻法で全てを薙ぎ払う姿に、観る者は畏怖し、いつしか彼女は“電車道製造機”の異名で呼ばれるようになった。
立ち合いは嵐のように激しく、それでいて神前の儀式のように美しい。手のひらがぶつかる瞬間、土俵に走る音は雷鳴のようだったと語り草になった。
その姿に、観客は畏怖すら覚え、誰もが“押し出し一閃”の瞬間を息を呑んで見守った。
長身で、どこか憂いを帯びた端整な顔立ち。凛とした立ち姿と研ぎ澄まされたスタイルは、力士でありながら舞うようで、多くの男性ファンを魅了した。
しかし――19歳のある日、その肉体に“異変”が起こる。
突如として、ギフトが開花したのだ。
それは祝福ではなく、運命の分岐だった。なでしこ角力協会、そして他のあらゆるスポーツ団体において、ギフト保持者はその力と耐久性ゆえに、人の範疇を超える存在と見なされる。
その瞬間、彼女は驚異であり、規格外となり、ゆえに――出場資格をはく奪された。
その事実を淡々と受け止め、彼女は静かに土俵を去ったという。
だが、誰もその背中を忘れなかった。
そして今――。
彼女は、プロレス団体Queen Beeに所属するベテラン勢の一人として再びリングに立つ。
その押し出しはなおも健在であり、むしろ研ぎ澄まされていた。現在の肩書きは……。
――BHCシングル王者。
土俵からリングへ。
神事の場から闘争の舞台へ。
彼女の歩んだ道は、まるで力と祈りの両方を体現するようだった。
如月も、どこかで見たことがある顔だと感じていた。
だが、いま目の前のその女性は、映像で見た“鈴木研美”とは印象がまるで違っていた。
普段のまとめ髪ではなく、野外の光を受けて揺れるオールバックの艶やかな黒髪。汗と土の匂いをまといながらも、その姿はどこか神々しく、けれど確かに“生きている”人間のものだった。
だからこそ――一瞬、誰だか分からなかった。
その時、先ほどまで一言も発していなかった十見子が、涙で目を潤ませながら叫んだ。
「研美先輩ぃぃ~!」
声は裏返り、幼い子のように震えていた。次の瞬間、十見子は研美の足へ飛びつくようにしがみついた。
「よし、よし、もう大丈夫だからね」
研美は穏やかに言いながら、十見子の頭をそっと撫でた。
その掌の動きには、ただ無償の優しさだけがあった。まるで赤子をあやす母親のように、指先が髪を梳くたび、十見子の震えが少しずつ収まっていく。
その姿を見て、如月やカナレも息をのんだ。つい先ほどまで熊を圧倒していた剛力の持ち主とは思えない――。
だが、それこそが彼女の本質なのかもしれない。
やがて十見子が落ち着きを取り戻すと、少し照れたように顔を上げて言った。
「お見苦しいところを……」
頬を染めながら頭を下げるその姿に、研美は優しく微笑んだ。笑顔は柔らかく、けれどどこか寂しさを含んでいるようでもあった。
そして、今度は如月のほうへと視線を向けた。
「如月だよね?道場ではよく顔を合わせるけど、話すのはこれが初めてだね?」
声は明るく、親しみを帯びている。まるで森に差し込む陽の光のように、その場の緊張が一瞬で和らいだ。
ベテラン勢は通常、本隊と合流して試合に臨むが、トレーニングの時間は若手とは別に設定されている。
彼女らは本道場でも若手と離れた場所や、施設に設けられた別の道場で汗を流している。そのため如月も、顔を知ってはいても言葉を交わしたことはほとんどなかった。
しかし、目の前に立つ研美の存在感は、リング上のどんな選手よりも大きく見えた。
今の彼女は、BHCシングル王者であり、数多のベテラン勢の中にあってなお現役チャンピオンとして君臨するロイヤルガード。
その名を耳にするだけで、現役選手たちは自然と背筋を伸ばす――そんな存在だった。
如月は悟った。次に自分が越えるべき壁――それは、この人だ。
――それは、皇の新たな試練の幕開けだと実感した。
胸の奥が、わずかに熱くなる。
それは、闘志に似た静かな昂ぶりだった。
「ところで、あんた達こんなところで何してたんだい?」
軽やかに放たれた一言が、張り詰めていた空気を一気にほどいた。
その声には威圧感がまるでないのに、不思議と全員の注意が吸い寄せられる。低く澄んだハスキーボイスが木々の間を渡り、葉擦れと混じって心地よく反響した。
先ほどまでの神聖な緊張が、嘘のように消えていく。
その声音に包まれて、如月たちはようやく“息をしてもいい”と気づいたのだった。全身を覆っていた圧が解け、肺に入る空気が妙に軽い。
その瞬間、心臓の鼓動がやけに鮮明に感じられた。
だが、安堵の間もなく、再びハスキーな声が響く。如月の思考を断ち切るように、研美の明るい調子が弾んだ。
「で?ここで熊とおしくらまんじゅうでもして遊んでたのかい?」
冗談めかした一言に、カナレと十見子がそろってたじろぐ。如月は言葉に詰まり、視線を泳がせた。
結局、十見子が一歩前に出て、震える声で事の顛末を説明し始める。
研美は腕を組みながら黙って聞いていたが、話が終わると同時に――。
「ははっ!」
腹の底から豪快に笑い出した。
その笑い声は、森の奥へと反響して木々を揺らす。力強くも、どこか包み込むような笑いだった。
「斎藤コーチも無茶なことするねぇ!ここは熊の巣窟だよ!」
朗らかな笑顔の裏に、まるで“命の重み”を知っている人間だけが持つ深い余裕があった。
その温かさに、如月たちは一瞬だけ安堵したが、すぐに同じことを思った。
(……あのババァ!)
三人の心の声が、完璧に重なった。
「ま、でも――」
笑いの余韻を残したまま、研美は口角をわずかに上げた。涼しげな瞳に、ふっと光が差し込む。
「見つかってよかったよ。実は斎藤コーチから電話があってね」
研美の話によると、前日の夜、斎藤から電話があり、三人が白魔洞窟へ向かうので案内を頼みたいと連絡があったらしい。
その言葉にカナレが「あっ!」と声を上げた。
「そういえば……森に入る前、入り口で待ってろって斎藤さんに言われてた……」
如月はカナレのほうを見て、大きくため息をつく。
研美は小さく笑いながら、状況をようやく理解したようだった。
「待ってても来なかったから、探しに来たんだよ」
穏やかな笑顔――なのに、心の奥を覗き込まれているような錯覚を覚える。その瞳に射抜かれた瞬間、如月の胸が不意に熱を帯びた。
ただ、その存在に“気圧された”のだ。
研美は目を細め、森の奥を一瞥した。さっきまでの豪快な笑みが、ふっと静かなものに変わる。
「とりあえず――ここは危ないからね」
柔らかくそう言って、彼女は背を向けた。ひと呼吸置き、軽く手を上げる。
「話は歩きながらにしよう」
その一言に、誰も逆らえなかった。自然と足が動く。彼女の背中には、人を導く者の風格があった。
如月たちは、リュックを背負った研美の後をついて歩く。森を抜け、十分ほど経った頃――地面が石畳へと変わった。
木々の合間を抜けると、視界がぱっと開けた。
そこには、まるで隠れ里のように静まり返った一角――そして、その中心に立派な建物が姿を現した。
磨き抜かれたヒノキの香りが風に乗って漂う。
屋根はどっしりとした切妻造りで、梁の一本一本に重厚な職人の息遣いが宿っている。
外壁は朝露を吸ったようにしっとりと光を反射し、手入れの行き届いた石畳が玄関へと続いていた。
それは、先ほどまでの原生林の厳しさとは正反対の光景だった。自然を征服するのではなく、寄り添うように建てられた“人の知恵と祈り”の結晶。
文明の香りがありながらも、どこか神域の静けさを保っている。
「ここ、どこですの?」
十見子が目を丸くして問いかける。研美は振り返り、にこやかに答えた。
「ここは、うちのとーちゃんが作った研修所兼保養所だよ」
その声はどこか誇らしげで、少しだけ娘の顔を覗かせていた。聞けば、ここは研美の父――鈴木一之進が保有する施設だという。
「うちのとーちゃんは元大相撲の力士でね。今は、なでしこ角力協会の理事で、ここを作ったんだよ」
さらりと言いながらも、口調には敬意と愛情が滲んでいる。まるでその建物が、家族の記憶そのものを形にしたように思えた。
父親が相撲協会の重鎮と聞いて、如月は思わず呟いた。
「またブルジョア階級のお方ですか……」
口にした瞬間、「しまった」と内心で舌を打つ。しかし、研美は気にする様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。
「ははっ、ブルジョアなんてとんでもない。貧乏くさい努力の塊だよ、うちのとーちゃんは」
そう言って、彼女は木の扉を押し開けた。温かな木の香りがふわりと溢れ出し、三人の鼻をくすぐる。
高い天井からは梁が走り、壁際には相撲の木札や古い写真が飾られていた。そのどれもが、この場所に流れる“誇りと時間”を静かに語っている。
研美の穏やかな背中を追いながら、如月たちは廊下を進んでいった。足音が木の床にやわらかく響く。外の森とは違う――人の手によって守られた静寂が、そこにはあった。




