第67話:恐怖の先にあるもの
リングの上では、まだ十見子が奇声を上げながらのたうち回っている。マットを叩く音が、静まり返った本道場に乾いた反響を返した。
白い蛍光灯の光が十見子の汗を鈍く照らし、吐息が荒く、喉の奥から絞り出すような声が響く。
その光景に、周囲の練習生たちは息をのんで動けなかった。
カナレはその様子にたまらず顔を引きつらせ、一目散にリングから降りると、まるで庇護を求めるように如月へしがみついた。
指先が震え、如月のシャツをしっかりと掴んで離さない。
「如月っち……怖いよぉ……」
弱々しい声が漏れた。カナレの肩は小刻みに震えており、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
如月はヤレヤレという表情を浮かべ、片手でカナレの背をポンポンと軽く叩く。慰めというより、平常心を取り戻させるための合図のような動作だった。
リング上では、ベテラン選手たちが慣れた手つきで倒れている十見子を介抱していた。呼吸の荒い音、滑るような足音、タオルが擦れる音――本道場の空気は緊張の膜に包まれていた。
すると斎藤は、壁際の緊急用キットの袋を取り出し、手際よく一本のペットボトルを抜き取る。
その動作は無駄がなく、ベテランの落ち着きと判断力がにじむ。
「おい!この水を飲ませてやれ!」
鋭く通る声が場を切り裂いた。その一言に、誰もが反射的に動きを取り戻す。
斎藤は近くにいた選手へ渡そうとした瞬間、皇がすぐに手を伸ばし受け取る。
そして軽やかなステップでロープをまたぐと、素早くリングへ上がって十見子のもとへ向かった。
マットを蹴る音が短く響き、彼女の動きにはためらいがない。流れるような動作だった。
そして、皇がひきつけを起す十見子にペットボトルの水を飲ませる。冷たい水が喉を通る音が、かすかに静まり返った本道場へ響いた。
すると、十見子の奇声はぴたりと止み、荒かった呼吸がゆっくりと整っていく。肩の震えが収まり、濁っていた瞳に徐々に焦点が戻る。
マットの上で数度まばたきを繰り返すと、十見子は自分の手を見つめ、ゆっくりと上体を起こした。
介抱してくれた選手に深々と頭を下げ、静かに言った。
「お見苦しいところをお見せしました……」
声はかすれていたが、芯はしっかりしている。幸い、体に大きな影響はないようだった。
あくまでもギフトの代償である“ペインタイム”の反動によるもので、十見子もその痛みに慣れているのか、息を整えながらもう一度、丁寧に頭を下げて謝っていた。
リングロープの軋む音だけが響き、誰もが安堵の入り混じったまなざしを向けていた。
その静寂を破るように、カナレが声を上げた。
「おい!“ゾビ子”!」
本道場に、思わず吹き出すような笑いが弾ける。一同、そのネーミングセンスの良さに堪えきれず肩を震わせた。
斎藤ですら、口元がわずかに緩み、ほんの一瞬だけ顔がにやけたが――すぐに鋭い眼光を取り戻し、場の空気を引き締めた。
「誰がゾビ子ですか!私の名前は十・見・子ですわ!」
立ち上がった十見子は、まだ完全には安定していない足取りのまま、リング下で如月にしがみつくカナレへ向かって、勢いよく言い放った。
その動作には、先ほどまで苦しみに呻いていたとは思えぬほどの力強さがある。声には、回復したばかりとは思えぬ張りがあり、堂々とした気迫が宿っていた。
肩をいからせ、頬にはまだ汗が伝っている。けれどその瞳には、プライドと闘志がしっかり戻っていた。
負けじとカナレも言い返す。
「うるさい!ゾビ子!ゾンビは墓に帰って永遠に寝てろ!」
カナレの叫びは半ば本気で、半ば動揺の裏返しでもあった。リングの空気が一瞬だけ弾けるように揺れ、周囲の練習生たちは顔を見合わせ、くすりと笑いを漏らす。
怒りのあまり歯ぎしりをする十見子。白い歯をむき出しにし、拳を握りしめたが、まだ完全に体が安定していないため、動けばふらつきそうだった。
「おい……どうでもいいけど、凄むなら引っ付いてないで相手のそばで言えよ……」
如月の言葉は淡々としていたが、その声音には少しだけ呆れが滲んでいた。その指摘を受け、カナレは「はっ」として掴んでいた如月の腕を慌てて離した。
その瞬間、離した腕に残る温もりを振り払うように手をぱたぱたと振る。
そんなカナレの言動を静かに見ていた斎藤は、腕を組みながら何かをひらめいたかのように言った。眉間にシワを寄せ、少し俯きながら、低く短く呟く。
「……墓場か……」
その言葉に、場の空気が一変した。笑いかけていた選手たちの顔が次第に真面目な色を帯び、誰もが斎藤の方へ視線を向けた。何のことを言っているのか、一同は斎藤に注目する。
すると斎藤は、ゆっくりとカナレのところまで歩いて行く。足音がマットに沈み、空気が張り詰める。
「カナレ、お前……お化けが苦手なのか?」
唐突な問いに、カナレの表情が一瞬で固まる。目が泳ぎ、唇が小刻みに震えた。
「うっ……」
図星だったようで、斎藤のその一言でカナレは固まってしまう。
まるで時が止まったように、カナレの肩がわずかに上がり、そのまま硬直した。視線を泳がせ、どう取り繕っていいのか分からない。
その様子を見ていた周囲の選手たちから、小さな笑いと息を飲む音が入り交じる。本道場の張りつめた空気の中に、わずかなざわめきが生まれた。
すると、リング上の十見子がカナレに言い放った。腰に手を当て、顎をわずかに上げ、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「なんですか!カナレさん!あなた、いい年してお化けなんて怖いんですの!?」
その声は、天井の蛍光灯に反響して場の隅々まで届いた。完全にカナレを小ばかにするセリフを放つ十見子。
その挑発的な口調には、先ほどまで倒れていた面影など微塵もない。むしろペインタイムの反動を力に変えたかのような、鋭い勢いすらあった。瞳には火花のような光が宿り、口元は挑発的に吊り上がっている。
カナレは一瞬、顔をひきつらせ、唇を噛んだ。頬がこわばり、耳まで赤く染まり、息が荒くなる。反論の言葉を探して口を開きかけるが、喉が詰まって声にならない。
その沈黙の中で、斎藤の視線だけが冷静に二人を見比べていた。腕を組み、まるでこのやり取りすら訓練の一部として観察しているようだった。
このままでは、また取っ組み合いのケンカに発展するのではと思い、如月はカナレの両肩を掴んで静止していた。掌に伝わるカナレの体温が妙に熱い。
カナレの呼吸は短く、まるでリング上の攻防そのもののように、感情の勢いが収まらない。如月は軽く息を吐き、肩を押さえる手に力をこめた。
しかし、如月には少し腑に落ちないところがあった。
それは「お化けが苦手」と斎藤が言ったこと――。
練習中、無駄話や余計なことを言わず、淡々とメニューをこなしながら檄を飛ばすだけの斎藤が、この場で世間話をするわけがない。
ましてや、プロレス以外の話題を口にすることなど、本道場では一度たりともなかった彼女が――。
その違和感が頭から離れず、如月は思わず斎藤の方を振り返り、尋ねた。
「斎藤コーチ、お化けが怖いって、なんかプロレスに関係あるんですか?」
声は落ち着いていたが、場に残っていた緊張の空気を静かに裂くよう響いた。十見子とカナレの視線が、同時に如月へと向けられる。
蛍光灯の下、三人の間にわずかな沈黙が生まれる。斎藤が微動だにせず立っているその姿に、道場の空気が再び引き締まった。腕を組み、視線を落としたまま、一呼吸置いて――斎藤は答える。
「お化けそのものがどうこうというわけではない。要は、対戦相手には様々な選手がいるということを言ってるんだ」
低く落ち着いた声が、本道場の隅々まで染み渡る。その言葉には、指導者としての経験と、数々の戦いをくぐってきた重みがあった。
それは、十見子のような特殊なギフト――。
特に三女神の一柱、血輝儀宇受女が与えるギフト、痛覚消失系のギフターのことを指していた。
人外じみた耐久力と、痛みを恐れぬ強靭な意志。そうした相手と対峙したとき、人は理屈ではなく「恐怖」という本能に飲まれる。
「時には特殊な選手と対戦することもある。そんな時に、普段のポテンシャルを出せずに飲まれていてはダメだ」
斎藤の言葉は淡々としていたが、その奥には確かな信念があった。如月も頷く。彼女の言葉に嘘はない。実際、リングに立つ者は常に「未知」と隣り合わせだ。
如月も納得した。
そもそも、Queen Beeは出戻りベテラン勢以外、例外がなければ他団体との関わり合いを持てない。
だが――それでも、未知は必ずやってくる。
しかし如月は知っていた。英二だった頃の記憶で対戦した、恐怖をものともしない“人外”じみたデスマッチファイターの猛攻と狂気を。
あの時の光景が、ふと脳裏に蘇る。蛍光灯がリングの四面に配置された蛍光灯300本デスマッチの中で、汗と血、そして割れた蛍光灯の粉塵が混ざり合うあの独特の空気――。
蛍光灯を叩きつけられるたびに、流血し、歓声が地鳴りのように響いた。
(……あれは強烈だった……)
デスマッチファイターの強さというより、怖さが勝っていた。
だが同時にデスマッチの中で行われる血の応酬は、観客のヒートアップした歓声と、切り裂かれた皮膚を通して自分の中のタガが外れ、形容しがたい高揚感があった。
痛みも、恐怖も、境界を越える瞬間にただ快楽へと変わっていく。理性の奥で、戦う本能だけがむき出しになる――。
如月は皇の説明で理解していた。
――こちらの世界にも、女子プロレスに「デスマッチ」の血の流儀は脈々と受け継がれていると。
あの狂気にも似た舞台が、形を変えて存在している。
懐かしみながら、できればもう一度相まみえたいという気持ちが大きくなった時、斎藤は唐突に口を開いた。
「よし!カナレ、お前、白魔洞窟に行って湧水を汲んで来い!」
カナレが「なんで!?」という言葉に斎藤は神妙に答えた。
「深い山道だ……色々な怪異があって修行になるだろう……」
その言葉を聞いた瞬間、カナレは反射的に体をのけぞらせ、目を見開いた。
次の瞬間、逃げ出そうとする。
“一目散”――そんなフレーズが、場の空気を読んだ選手たちの頭をよぎる。
だが、その矢のような勢いは、すぐにジャージの襟を掴まれたことで止められた。
服の襟元を斎藤に掴まれ、カナレはじたばたと暴れるが、まるで鋼の手に捕まれたようにびくともしない。逃げようとする腕が虚しく空を切る。
「やだ!やだ!やだ!やだ!絶対行かない!」
カナレの悲鳴じみた声が本道場に響く中、如月はその様子を見て眉を寄せた。斎藤の目的が理解できない彼女は静かに口を開いた。
「なんですか?その白魔洞窟って?」
問いかけに、場の空気が少し変わる。笑いの余韻が引いて、しんと静まり返る。斎藤はカナレの襟を掴んだまま、ゆっくりと口を開いた。
白魔洞窟――。
森盧にある連山の奥にひっそりと口を開く洞窟。外界から切り離されたその場所は、濃い霧と苔むした岩肌に覆われ、常に冷たい気流が流れているという。
白魔洞窟には、三女神が降臨した際、人々に必要とされなかった古き神を封じ込めたとされる場所でもある。闇の中で封じられた祈りが、いまもなお山の鼓動とともに微かに息づいている――。
そこから湧き出る水は、山肌を伝ううちに霊力を宿し、ギフトを持つ者の身体に働きかけて癒しをもたらす“聖なる水”として知られていた。
霊水は、ただの自然の産物ではない。長い年月を経て山そのものが神の器となり、地に染み込んだ祈りが液体となって流れ出す――そう言われている。
如月は静かに頷いた。斎藤の言葉を噛みしめながら、思考が自然とひとつの答えに辿り着く。
そして、リングから降りてこちらへ駆け寄ってくる十見子の姿を見て、ふと悟った。
――先ほど、ペインタイムで意識を失っていた彼女に飲ませたあの水。あれこそが、今斎藤が言った“白魔洞窟の湧水”だったのだと。
十見子の唇を潤したあの一滴が、確かに彼女の体を甦らせた。
あの瞬間に感じた微かな気流、そして周囲を包んだ不思議な沈黙――思い返せば、あれはただの水が起こす現象ではなかった。
――あれはその水だと。如月は斎藤が答える前に理解していた。
斎藤はそんな如月を見て答えた。その視線は厳しさの中に、わずかな信頼の色を帯びている。
「流石に呑み込みが早いな。お前が思っている通りだ」
低く落ち着いた声が、本道場の広い空間に静かに響いた。如月の胸に、わずかな誇らしさと緊張が同時に走る。
その一方で――視線の先では、まったく別の騒ぎが起きていた。
納得しつつカナレを見ると、必死にもがきながら斎藤の手を離そうとするが、びくともしなかった。
斎藤の腕はまるで鉄のように固く、カナレはジタバタと両手足を動かして抵抗する。
「斎藤さん!離してよ!襟元が伸びちゃうじゃんかー!」
情けない声が本道場に響く。
「そっちかい!」
選手一同が一斉にツッコミを入れ、場の空気が笑いに包まれた。張り詰めていた緊張が一瞬でほどけ、道場の温度がほんの少しだけ上がる。
「だいたい霊水だって、普通にコンビニに売ってるじゃん!なんでわざわざ湧水汲んでこなきゃいけないんだ!」
なおも反論するカナレに、如月は思わず眉をひそめた。
――コンビニで買い物をしていたときのことを思い出す。
自分がいた世界にも存在していた商品以外に、見慣れない用途不明のモノや、どこの国の食べ物かもわからないお菓子などが並び、その中に――冷蔵庫の中に陳列されていた「美味しい霊水」という商品があったことを思い出した。
青く透き通ったラベルに「幸福増進」「ギフト適正アップ」など、いかにも怪しい文言が並んでいたのを覚えている。
「どこのメーカーだ……そんな霊験あらたかな水を気軽に売るのは。罰当たるぞ……」
如月が小さく愚痴をこぼすと、すかさず十見子が割って入ってきた。
「なんですの~カナレさん!もしかして怖くて行けないのですか?」
挑発的な笑みを浮かべ、リングサイドから身を乗り出す十見子。その声音には、からかいと本気の興味が入り混じっている。
十見子の挑発に、カナレは食って掛かる。
「こ……怖くなんかねぇよ!山道はクマが出るから危ないんだぞ!」
開き直ったような声に、如月は思わずため息をついた。確かに最近クマがやたら出没するらしいが、言い訳になっていないと心の中で突っ込む。
そして斎藤は、ようやくカナレの襟元を離すと、勢い余ってカナレは頭から床に倒れこんだ。鈍い音が響き、道場に小さな笑いが再び起きる。
「それじゃ、カナレ、十見子、そして如月――お前たちは明日、白魔洞窟に行って霊水を汲んでくるんだ!」
突然の指令に、道場の空気が再び張り詰めた。如月はすぐさま斎藤に意見する。
「ちょっと!待ってくれよ!なんで俺まで行かなきゃならないんだ!」
斎藤は表情を変えることなく、冷ややかに如月を見据えた。
「私に対してよからぬ想像をしていた、その罰だ!」
――良からぬ想像。
『……なんでそうなるんだ……年配者の発想は理解できん……』
如月は眉間に手を当てて項垂れる。
“あれ”のことかなと考えたが、なぜそんなことで……と思いながら、昼のトレーニングを告げるチャイムが本道場に響いた。
キン、コン、カン、コーン――というおなじみの音に続き、一瞬の静寂。
そして次の瞬間、選手たちは一斉に「お疲れ様でした!」と声を上げ、斎藤や安西に頭を下げる。
その声が重なり合い、清々しい余韻を残した。
皆が笑顔で談笑しながら、楽しそうな足取りで食堂へと走っていく。静まり返った本道場の真ん中に、如月だけが立ち尽くしていた。
「なんで俺まで……」
ぽつりと漏らしたその呟きが、空っぽになったリングへと虚しく反響する。
――如月の試練は続く。




