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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第66話:ペインタイム

 リングのスポットライトが、二人の姿を白く照らしていた。


 本道場の空気は張りつめている。


 リングマットの下から伝わる微かな振動と、照明の熱――そのすべてが、試合ではなく「闘争」を予感させていた。


 カナレは正面に立つ十見子を見ていた。


 その表情には、わずかな動揺が混じっている。


 幾度となく受け身を取らされ、叩きつけられてもなお立ち上がり続けるそのタフネスに、思わず息を呑んでいた。


 リングの外では、練習を止めた他の選手たちが息を潜めて見守っている。


 誰もが声を発することをためらい、ロープを通して伝わる音だけが、場の静寂を切り裂いた。


 そんなリングで対峙する二人を、斎藤は腕を組んだまま見据えていた。


 ただのスパーではない――互いの覚悟が交わる“刃”のような空気を読み取りながら。


 如月もまた、その張り詰めた場を感じ取っていた。


 力任せに叩き伏せることを信条とするカナレにとって、この練習試合は1つの通過点であり、試すべき壁でもある。


 だが、その壁はいま、彼女の想定を超えて立ちはだかっていた。


 ――そして、十見子が仕掛けた。


 足裏がマットを蹴る音が、いかずちのように響く。


 その瞬間、全員の視線が吸い寄せられた。十見子の体が沈み、弾かれるように宙へ――。


 勢いを乗せたその一撃が、一直線にカナレの胸元へと迫る。


 ――ドロップキック。


 空気が裂け、ロープが微かに鳴った。瞬間、張りつめた空気が一層濃くなる。誰も息をしていない――そんな錯覚すら覚えるほど、本道場が凍りついた。


 そして、わずかに遅れて――衝突の音が響いた。


 鈍く、重い一拍。


 特に打点が高いわけでもない一撃。


 だが、十見子の体は一瞬、しなやかに弾んだ。


 沈み込むように踏み切り、そこから下半身をバネのように伸ばす。まるで地面から突き上がる衝撃そのものが形になったかのような――下から伸び上がるドロップキック。


 その蹴りは、確実にカナレの顎を貫いた。


 ――ゴッ!


 完全に意趣返しともいえる一撃がヒットすると、重く鈍い音が場内に響いた。響いた音は、形容しがたい音だった。


 それは、肉体同士がぶつかり合う、独特の“生音”だった。完全に意趣返しとも言える一撃が決まった瞬間、本道場の空気が、一瞬だけ震えた。


 後ろへ弾かれるように倒れるカナレ。その様子を見て、誰もが「終わった」と思った。目撃した選手たちは息を呑み、静寂の中に微かな緊張のざわめきが生まれる。


 だが、カナレは倒れない。マットに背が触れる寸前、その手が動いた。


 ドロップキックが顎に命中する直前、交差するように腕を構え、クロスガードを取っていた。


 ――パンッ。


 弾かれた音が遅れて鳴る。衝撃を受け止めた腕が震え、汗が散る。リング下の選手たちから、抑えきれない驚きの声が上がった。


 カナレはすぐさま十見子の足を取ると、反射のように身を沈め、両腕で一気に持ち上げた。


 強引な動作にもかかわらず、その腕には迷いがない。十見子の体が宙を舞い、勢いのままカナレの頭上で一瞬、静止した。


 その姿勢のまま、カナレの肩と腕が隆起する。


 《剛腕》――。


 勢いをつけることもなく、まるで質量そのものを叩きつけるように、十見子を背中からマットへと投げ落とした。


 ――ドガッ!


 重く湿った音が本道場に響く。マットが低くうなり、空気がわずかに震えた。人の肉体とマットがぶつかる音は、幾度も聞いてきたはずなのに――今のそれは、どこか違っていた。


 技と呼べるような洗練されたモノではない。力任せの、ギフト全開の力技。

 

 選手たちは、誰一人口を開かず、思わず顔をしかめる。


 音だけで悟った。


 ――今の一撃で、終わった。


「どうだ!この野郎!」


 カナレは十見子の足を無造作に放り出すと、勝利を誇示するように拳を突き出し、言い放った。


 「どうだ!」と響いた声が、まだ空気に残っている。その余韻が消えるころ、本道場を包むのは静寂だった。マットの軋みも、息づかいも、止まったように。


 ――その時だった。


 わずかな沈黙の後、十見子の体がぴくりと動く。崩れた上体がゆっくりと起き上がり、まるで糸で引かれた操り人形のように、むくりと立ち上がった。


「野郎ではございませんわ!」


 その声は澄んでいて、どこか誇らしげだった。額から汗が伝い落ちても、微笑の形は崩れない。


 その姿を見て、カナレの心の奥に、ほんの少しだけ――理解できない恐怖が芽生えた。


「ま……まだ立ち上がれるのかよ!?……」


 声が震える。狼狽がそのまま言葉になって漏れた。


 十見子は余裕の笑みを浮かべ、指先で乱れた髪をなぞりながら、ゆっくりと息を整えた。


「何のこれしき!」


 気品すら漂うその声が響いた瞬間、場の空気が再び、動き出した。


 誇らしげに乱れた髪を手櫛で整えると、十見子はゆっくりと息を吐き、すぐさま構えを取った。


 今度は腰を深く落とし、上体をわずかに前へ――ノーガード。その姿勢は、守りではなく挑発。


 まるで「もう一度来なさい」とでも言いたげな、静かな挑戦だった。


 照明の光が、十見子の汗をきらりと照らす。その眼差しには、恐怖はなく、ただ燃えるような集中があった。


 リング下から、その様子を見た如月が小さくつぶやく。


「……飲まれてんな」


 感じた違和感は、すぐに確信へと変わった。


 カナレは本来、前のめりに勢いをつけながら、段階的に調子を上げていくタイプ。


 いきなり全開でぶつかる選手と誤解されがちだが、実際は熱を上げていく過程そのものが彼女の強みだった。


 そのリズムを乱されると、一気に呼吸が崩れる。


 如月は、それを身をもって知っていた。


 対戦で、そしてタッグを組んだ中で、カナレという選手の“波”を何度も見てきたのだ。


 ――今、その波が狂い始めている。


 如月の視線は静かに鋭くなる。斎藤も同じ思いなのか。腕を組んだまま、ひとことも発せず、リングを見据えていた。


 今までリング全体を俯瞰していた視線は、すでに一人――カナレだけを追っている。


「へっ……打たれ強さだけは一丁前だな!」


 カナレの声がわずかに裏返る。虚勢を張るような笑みが浮かんだが、その奥で、わずかな焦りがにじんでいた。


 絶大なタフネスを誇る相手を前にして、その強さを“壁”としてではなく、“圧”として感じ始めていた。


 それが、カナレにとって初めてのリング上で感じた恐れだった。


 ――そして、その一瞬の隙を、十見子は見逃さなかった。


 床を蹴る音が、空気を裂く。まるで頭から突き抜けるように、一瞬のためらいもなく前へ。踏み込みと同時に、全身が弾丸のように加速する。


 次の瞬間、カナレの喉元に十見子の腕が叩き込まれた。ぶつかる衝撃が、鈍い震えとなって響く。


 その勢いのまま、十見子は斜め後方へと体を回転させ、前方受け身で衝撃を逃がした。


 ――フライング・ラリアット。


 完成度は粗い。勢いだけで繰り出された荒削りな一撃。


 だが、タイミングは奇跡のように合致していた。技としての洗練はなくとも、今のカナレには、それで十分だった。


 今度は、完全にマットに倒れ込むカナレ。


 その様子を見た十見子は、ためらうことなく次の動きへと移った。呼吸を整える間もなく、倒れたカナレの腕を両足で挟み込み、体をひねりながら極めにかかる。


 ――腕挫十字固。


 だが、その技はカナレ相手では悪手だった。それを悟ったのは、見守る選手たちのほうが早かった。


「何やってんの!」


 一人の選手が、思わず声を上げる。せっかくの好機を、自ら潰しかねない選択――その焦りが場の空気をざらつかせた。


 だが、カナレの表情にはすでに“余裕”が戻っていた。唇の端が吊り上がり、目の奥が笑う。


「馬鹿が!私相手に腕を取ることがどんなに危険なことか、今教えてやるよ!」


 その瞬間――カナレの両腕が隆起した。皮膚の下で筋繊維が膨張し、血管が浮き上がる。《剛腕》の力が、静かに解き放たれる。


 十見子の両脚が、まるで鉄の棒を掴んだかのように引きつり、極めの形が一瞬で崩れた。それでも必死にしがみつこうとするが、カナレの腕は微動だにしない。


 手のひらを上向きにし、拳を握る。


 ――ギュッ。


 生身が圧縮される。その音が本道場の空気を歪めた。そのまま、腕を大きく曲げると同時に――。


 力任せのアルティメットボム。


 ゴッ、と低い衝撃音がマットを震わせる。十見子の体が反動で跳ね、空気が一瞬、抜け落ちたような静寂が訪れる。


 十見子は、マットに頭突きをするような姿勢のまま叩きつけられた。激しい衝撃に、腕挫でとらえていたカナレの腕から力なくロックが外れる。


 リングマットが低くうなり、微かな振動が足元に伝わった。


 カナレは肩で息をしながら、まるで邪魔な布団を払うように、十見子の体を雑に放り投げた。


 その動きには容赦はなかった。勢いのまま立ち上がり、胸を張る。


「どうだ!」


 声が響く。カナレは握りこぶしを高く突き上げ、勝利を誇示するように見せつけた。


 その表情には自信と、どこか安堵の色が混じっている。


 しかし――。


 マットの上で、十見子の体がわずかに動いた。頭を支点に、前方へとゆっくり回転する。髪がふわりと浮き、汗が光を反射した。そのままの勢いで、十見子は立ち上がった。


「おおーっ!」


 リング下の選手たちから驚きの声が漏れる。その立ち上がり方は、常識を超えたトリッキーな動きで――まるで人形が突然、命を吹き込まれたかのようだった。


(……ダメだなこりゃ……)


 如月が心の中でつぶやく。説明のつかない何かが十見子を動かしている――そんな嫌な予感が、脊髄を伝って冷たく走った。


 再び十見子が立ち上がる。


 だが、今度はその動きにわずかな歪みがあった。焦点の合わない瞳。体がふらつき、マットに影が揺れる。


 脳震盪を起こしているのか――。


 その危うい姿に、本道場の空気がわずかに冷えた。


 その様子を見たカナレが、思わず口をついて言った。


「なんだお前……気持ち悪いなゾンビかよ……」


 場の緊張を、冗談めかして吹き飛ばそうとするような声。


 だが、その響きには、ほんのわずかに怯えが混じっていた。


 その言葉に反応するように、十見子が息を整える。上体をまっすぐに起こし、ゆっくりと深呼吸を1つ。胸の上下が静かに収まりきると、口を開いた。


「ゾンビではありませんわ。――十見子ですわ」


 声音には、妙な落ち着きがあった。場違いなほど上品で、しかし確固たる意志を帯びている。


 十見子は再び腰を落とした。脇をきっちりと締め、両手を腰の位置へ――低く、無駄のない構え。


 その動きに迷いはなく、重心のブレもない。


(……いい構えだ。あの子の格闘バックボーンはレスリングだな)


 如月は目を細めた。


 だが同時に、どこか惜しむような思いが胸をよぎる。


 ――隠すことなく、自信の本流がそのまま流れ出している。


 ――まだ青い、と。


 十見子がジリジリと距離を詰めていく。一歩、また一歩――マットがわずかに沈み、そのたびに軋む音が空気を裂いた。


 その音が、本道場の静寂に深く染み込んでいく。


 対するカナレは、知らず知らずのうちに後方へと下がっていた。押し返すべき気迫よりも、相手への警戒と戸惑いが勝っている。十見子の眼光が、距離とともに鋭さを増していくのが見て取れた。


 ――こんなカナレは見たことがない。


 リング下にいた選手たちが、ざわめきを抑えきれずに息を呑む。その光景は、いつものカナレの豪快なスパーではなく、何か“異質なもの”を感じさせた。


「カナレ!下がるな!構えろ!」


 斎藤の声が場の空気を裂く。その低くも通る声に、カナレの肩がびくりと震えた。


 はっと我に返ったように、カナレは再び足を止め、構えを取り直す。


 だが――その構えには、いつもの鋭さがなかった。腕の角度も、腰の落とし方も、どこか頼りなく、見ている者に「不安」を連想させるほどだった。


 十見子は、ゆっくりと、まるで獲物を追い詰めるかのように距離を詰める。その動きに焦りはなく、むしろ楽しむような余裕すら見える。


 やがて、静かな声が響いた。


「カナレさん――あなたの負けですわ」


 挑発ではない。


 ――確信。


 その一言が、刃のように空気を震わせた。本道場の空気が微かに鳴る。冷えた静寂が、音もなく肌をなぞるように広がっていく。


 十見子の視線は、もう一切の迷いはない。瞳の奥にあるのは、ただ「終わりを見据えた者」の静かな光。


 そして――十見子は動いた。


 足が沈み、マットが軋む。その音を合図に、カナレの全身がびくりと跳ねた。


「ヒッ!」


 喉の奥から、反射のように声が漏れた。体が勝手に発した“防衛の悲鳴”だった。


 リング下で見守る斎藤と如月の目が、同時に動く。呆れに近い諦念ていねんが浮かんでいた。何が起きようとしているのか――二人はもう理解していた。


 そして、十見子が動きの頂点に達する。


 重心をわずかにずらし、腰を沈め、がら空きのカナレの胴へと飛び込もうとした、その瞬間――。


「あっ……あっぁ……」


 十見子の口から、壊れかけたラジオのような震えが漏れた。言葉にならない声。喉の奥が軋むたび、金属片を擦り合わせたような音が混じる。


 その直後――。


 十見子の体が、がくりと崩れカナレの目の前で糸の切れた人形のように倒れ込んだ。


 マットにぶつかる鈍い音が、本道場の静寂を破る。その音を合図に、空気が一気に変わった。


 ――ペインタイム、スタート。


「あががが……ごっ……ごごごっあっあひっ!きりききききっきゃひぃッ!」


 断続的に弾けるような悲鳴が、まるで機械の誤作動のように途切れ、途切れに響く。十見子の体がマットの上でうごめき、背筋が反り、手足が痙攣する。


 その動きは意識のある人間のものではなかった。


 リングの下にいる誰もが息を呑む。カナレは思わず後ずさりし、顔を引きつらせながら叫んだ。


「ひぃぃっ!なんだこいつ……怖いよ!」


 呻きとも悲鳴ともつかない声が、本道場の壁に反響する。いつもより低い照明の光が、十見子の汗を不気味に光らせていた。


 断末魔のようなその声は、冷えた金属を叩くように響き、選手たちの体温をほんの少し――確かに下げた。


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