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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第63話:絶対原理

「もう少しだったけどなぁ……」


 リングから降りながら、カナレは楓とのスパーリングを回想し、独り言のようにつぶやいていた。


 その声には、疲労の中にもどこか高揚感が混じっている。額の汗が頬を伝い、リングライトの明かりが髪の先で鈍く光った。


 少し離れた場所にいた如月たちのところまで、その声ははっきりと届いていた。


 本道場の空気はまだ熱を帯び、マットの上から立ち上る汗の匂いが、戦いの余韻を濃くしている。


 ――あの調子なら、今度はもっと結果を出せるだろう。


 如月は、カナレの成長を頼もしく感じながら静かに目を細めた。


 如月の瞳の奥に、わずかな誇りと安堵が交錯する。仲間が強くなることは、自分の進むべき道を照らす証のようにも思えた。


「もしも~し、カナレちゃん……誰を相手に“もう少し”なんて言ってるのかな?」


 低く、しかしよく通る声。


 カナレの大きな独り言が気に入らない様子の楓が、にじり寄るように近づいてくる。床に響く足音が徐々に重みを増していった。


 楓の身からは、迸る闘気のようなものがうっすらと立ち上っていた。その圧に気づいた瞬間、周囲の空気がひと呼吸分だけ止まる。


 まるで、リング上の余韻がそのまま現実に溶け出してきたようだった。


 しかし、カナレも負けじと食い下がる。


「なんだよ楓さん!今、調子いいんだから邪魔しないでよ!」


 声にはまだ荒い息が混じっていた。リングで流した熱がそのまま残っているのだろう。


 カナレの目には、ほんの少しの自信と、挑む者だけが持つ危うい輝きが宿っていた。


 楓を邪険にするようなその態度が、周囲の空気がわずかに張り詰める。


 仲間たちは息を飲み、誰からともなく動きを止めた。床の軋む音すら、どこか遠のいて聞こえる。


 やがて、カナレの目前まで来た楓が立ち止まる。影が重なり、二人の身長差がくっきりと浮かび上がる。


 楓は見下ろすようにカナレを睨みつけ――その瞳の奥に、一瞬だけ火花が散った。


 だが次の瞬間、ふっと表情を緩めると、笑顔を浮かべながらカナレの肩に腕を回し、軽く引き寄せた。


 汗の匂いが混ざる距離で、柔らかな声が落ちる。


「ふふ……あんた、いい顔になってきたじゃないの。前は緊張した顔で、相手にもならなかったのに」


 その言葉には、戦う者にしかわからない温度があった。


 後輩の成長を喜ぶ楓の笑みに、如月の口元にもふっと笑みが浮かんだ。


 場の緊張がゆるやかに解け、空気に柔らかな光が差し込むような一瞬。


 それを見ていた望月が、そっと如月の横顔をうかがいながら、穏やかに言葉をかけた。


「やっぱり、うれしい?如月」


 その声は、静かな体育館の空気をやさしく震わせる。如月は短く息を吐き、微笑で応えた。


 ――そうだ。自分も、この瞬間を待っていた。


 その言葉に反応して如月が望月の方を向くと、自然と笑顔で返していた。


 今日は珍しく、望月だけが如月のそばにいた。


 本道場には、ロープを揺らす音とエアコンの低い唸りだけが響いている。夕方の光がガラス越しに差し込み、マットの上に長い影を落としていた。


 島村とSAKEBIは、この場にはいなかった。個人ランニングに出かけている。


「負けん気の強い二人……どうせ、ランニングじゃなくて、距離の長い短距離走になってるだろうな」


 如月がそう冗談めかして言うと、望月は苦笑いしながら口元を手で覆った。肩をすくめる仕草が小さくて、どこか優しい。二人の間に、静かな安堵の空気が流れた。


 その空気を破るように――。


「そうだ!」


 唐突に、カナレが大きな声を上げた。明るく突き抜けるその声に、空気が一気に跳ねる。


 何か、またろくでもないことを思いついたのでは――。


 周りの選手たちは一斉に動きを止め、好奇心と警戒が入り混じった目で注視する。 カナレの“そうだ!”は、誰もが一瞬構える合図でもあった。


「楓さんの足を取った時、そのままアキレス腱に行けばよかったんだ!」


 自信と悔しさの入り混じった声。まだ熱を帯びた息を吐きながら、カナレは拳を軽く握りしめた。


 まるで次のスパーリングの構想をすでに描いているようだ。


 そんなカナレの頭を、楓は片手でグリグリとこそげるように押さえ込む。乱暴だけど、どこか愛情のこもった仕草だった。


「あんたねぇ、私と如月の試合の時のこと忘れたの?蹴り一発で私が脱出したんですけど?」


 ため息まじりに吐き捨てながらも、その声の底にはわずかな笑みがあった。


 悔しがる後輩を叱りつけるというより、“また懲りないな”と呆れつつも嬉しそうな響きがある。


 楓の指先がカナレの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜ、その様子に、周囲から小さな笑いがこぼれた。再び、ジムの空気が温度を取り戻していく。


 楓の“グリグリ”はさらに強くなり、カナレも痛みに堪えきれず逃げようとする。


 頭を押さえる手を必死に振りほどこうと暴れるが、楓の握力は岩のようにびくともしない。


 カナレの髪がばらけ、汗が散る。


 すかさず楓がヘッドロックを極め、カナレが苦しみ出した。


 その動作は流れるように滑らかで、まるで呼吸するような自然さだった。足が絡みついた瞬間、空気がわずかに震える。


「痛い!痛い!本気でやるなよ!」


 床をバタバタと叩きながら、カナレの叫びが響く。楓は楽しげに片眉を上げ、からかうように言い放った。


「私が本気なら、今頃昇天してるよ~だ」


 言葉の軽さとは裏腹に、その締めは完全に極まっていた。カナレの顔が真っ赤になり、指先がばたつく。それでも二人の間にはどこか姉妹のような温もりが漂う。


 姉妹のじゃれ合いのような光景。


 だが、そこに滲む技術と身体の切れは、見慣れた選手たちでさえ息をのむほどだった。


 その鮮やかなフォームに、一同は思わず見惚れてしまう。腕の組み方、体重の乗せ方、力の抜き加減――すべてが美しかった。


 だがすぐさま、安西の鋭い檄が飛んだ。


「お前ら!何ボーっとしてる!」


 怒号が壁に反響し、場の空気が一瞬で張り詰める。若手選手たちは慌ててスクワットへと戻っていった。足音が揃い、床がリズムを刻み始める。


 如月は自主的に黙々とスクワットを続けている。


 規則正しく上下する動きが、まるで機械のように一定だ。息を吐くたびに、腹の奥で熱が鳴り、床を踏む音が一定のリズムを刻んでいた。


 本日、如月が課したスクワットの回数は――6000回。


 数字だけを聞けば荒唐無稽だが、彼女にとってそれは「日課」であり、当たり前の回数だった。


 1回ごとに、脚の筋肉が軋み、汗が顎を伝って床に落ちる。呼吸の音が部屋に反響し、静けさの中で波のように広がっていく。


 スクワットを続けている如月の背後に、ふっと気配が走る。


 空気の流れがわずかに変わり、皮膚の表面に微かな冷気が触れた。


 その気配は、風の流れのように静かで、それでいて確かに“誰かの視線”を伴っていた。


 如月は自然と動きを止め、ゆっくりと振り返った。


 ――そこには、無言で佇む正美の姿があった。


 リングの照明が背中越しに差し込み、彼女の輪郭を白く縁取っている。表情は無機質に近く、瞳だけがわずかに光を宿していた。


「うわっ!びっくりした!」


 如月の驚きぶりに、正美の頬がわずかに緩む。


 ほんの数ミリだけ口角が動いた。それが彼女なりの“笑み”なのだと気づける者は少ない。


「あのさ、正美さん。気配を消して人の背後に回るのは良くないよ……」


 如月が少し肩をすくめながら苦笑すると、正美は反応を見せず、ただじっと如月を見つめていた。


 その視線は、まるで心の奥を覗くように真っ直ぐで、どこか冷たくも美しい。何も言葉を発さないのに、空気がひとつだけ重く沈んだ。


 ――その沈黙を破ったのは、明るく弾む声だった。


「よっ!」


 背後から響くその声に、如月の緊張が一瞬でほどける。楓が近づいてくる。その横には、首を回しながら違和感を訴えるようなしぐさのカナレがいた。


 軽いストレッチのように肩を回しながら、彼女は小さく呻く。


 一呼吸置くと、楓は手にしていたペットボトルを口に運び、一気に飲み干す。冷たい水が喉を伝う音が、静まり返ったトレーニングルームに小さく響いた。


 その仕草は、カナレとのスパーがどれほどの熱量だったかを物語るような、堂々とした大きな動作だった。


 額からこぼれた汗が顎を伝い、床に落ちて弾ける。


 緊張と冗談が交錯するその刹那――。


 空気の温度が、ひとつ下がったように感じられた。その変化を合図にしたように、正美が静かに息を吸う。


 濡れて艶やかになった唇を指先でぬぐい、楓が口を開いた。


「聞いたよ……皇から。なんだか面倒なことになってるみたいだね」


 声は低く、そして覚悟を決めているような節もある。


 その響きに、カナレの笑顔がゆっくりと消えていく。如月は何も言わず、わずかに頭を下げるだけで応じた。沈黙の中、誰もが次の言葉を待っていた。


 やがて正美が、ほんの小さな声で問う。


「……何があったの?」


 その問いは、静かに、しかし確実に胸の奥を刺した。


 正美の疑問は、単なる好奇心ではなく、“違和感の確信”を孕んでいた。重く漂うその言葉が、場の空気をさらに冷たく締めつけていく。


 代わりに、カナレが口を開いた。声の調子はいつもの軽さを保っていたが、どこかぎこちない。


「如月っちが出てった後に、入れ替わりで皇さんが入ってきたんだよ」


 皇は如月たちをねぎらうため控室に来たという。


 しかし、カナレの語り口の途中でふと沈黙が挟まる。彼女の視線がわずかに泳いだ。


「でも……その顔がさ、なんか変だったんだ……」


 カナレは続ける。明るく振る舞おうとするほど、言葉が重く落ちていく。笑って話しているようで、その瞳の奥には“嫌な予感”が見え隠れしていた。


「それからすぐに、斎藤さんと社長が来て――口論になったんだ……」


 最後の一言は、本道場の床に落ちるように静かだった。周囲の空気が少しだけざらつく。誰もが口を閉ざし、カナレの次の言葉を待った。


 その空気を受けて、楓が補足するように淡々と続けた。表情には驚きよりも、どこか諦めに似た色が浮かんでいる。


「KDPのイサミってのが持ってきたゲラを本田社長に見せて……その場で“自分は退団する”って」


 短い説明だったが、その一言には重さがあった。控室の光景がありありと蘇るようで、誰も息を吸うことすら忘れていた。


 話を聞きながら、如月は神妙な面持ちで口を開いた。瞳がゆっくりと動き、何かを確かめるように言葉を紡ぐ。


「イサミって子が帰った後、俺も気になって聞いたんだ」


 その声には、抑えきれない緊張と、どこか探るような響きが混じっていた。


 本田の言葉によれば――今回の件をきっかけに、KDPはQueen Beeとの対抗戦に持ち込むつもりだろうと。


 「……全面戦争……」


 正美がその言葉を口にした瞬間、場の空気が変わった。まるで見えない圧が、天井から静かに降りてきたかのように。誰もが、これまでの冗談交じりの会話が“終わった”ことを悟った。


 ――Queen Beeの絶対原理。


 他団体との関わりを排除し、自分たちの団体だけですべてを完結させ、他を圧倒して威光を示す。


 その方針は、まるで純血を保つために他を切り捨てる“儀式”のようでもあった。勝つための戦略ではなく――支配の意思そのものだ。


「完全なる純血主義……だっけ?」


 如月の問いに、楓は小さくうなずいた。頷きながらも、その目は遠くを見つめている。彼女の脳裏には、過去に他団体で起こった軋轢や崩壊の光景がよぎっていた。


 重い沈黙が落ちる。


 自分とカナレが中心に動き出せば、必ずKDPの社長が横やりを入れてくる。


 そして、ターゲットが変わる――。


 如月はためらいもなくただ淡々と説明した。


 本田は、如月たち“第五世代”から多団体の交流を許し、主要団体のベルトを狙うと答えた。


 その言葉は、静かだが確かな火種を含んでいた。


 異なるリングを渡り歩くことを許す自由と、純血を守り抜こうとする閉鎖――。


 そのどちらが正しいのか、誰にも断言できない。


 しかし、如月は感じていた。自由には代償があり、信念には犠牲が伴うということを。


 その言葉を聞いた瞬間、楓と正美の目の色が変わった。互いに視線を交わし、無言のまま意志を確かめ合う。闘う者たちの瞳が宿すのは、恐れではなかった。


 KDPの社長・藤沢も、同じことを考えている。


 久遠寺カヲルという切り札を使い、女子プロレス界そのものを掌握しようとしているのだと。


 藤沢の戦略は、ただ勝つことではない。


 ――構図そのものを塗り替え、業界全てを“私物化”すること。


 それを阻止するには、シングルだけでなく、タッグベルトも総なめにしなければならない。


 そして、その要となるのが――皇だった。


 本田は語ったこと。それは、皇の存在は戦力であると同時に、象徴でもあると。Queen BeeとKDPという二大勢力を、ひとつの舞台に引きずり出すための鍵。


「だから、俺と皇さんのタッグを構想して、次回の奉納タッグでKDPとやり合うつもりでいたみたい」


 如月の声は淡々としていたが、その奥には複雑な感情が滲んでいた。


 ――いつかこうなるであろうと先を見据えた本田の先読み。


 誇り、疑念、そして――わずかな恐れ。


 皇を中心とした二団体の激突が、女子プロレス界の構図が変わる。


 想像するだけで、楓と正美の背中に冷たい汗が一滴、静かに流れ落ちた。


 だが、如月は自分の中に芽生えた違和感を口にはしなかった。


 本田が皇という存在を“守る”という強い意志――それを感じ取っていたからだ。


 その意志は、単なる経営者の判断ではなかった。もっと深い、個人的な何か――血のように、情のように。


 それは、KDPから来たイサミという選手の背後にも、同じ匂いとして漂っていた。


 目には見えない糸のようなものが、団体の内外を静かに結びつけ、そして締め上げている。誰もその全貌を知らないまま、確実に渦は形を成しつつあった。


 話が終わるや否や、カナレが不機嫌な顔でまくし立てた。


「私は気に入らない!如月っちのパートナーは私だろ!」


 唐突な叫びが、重かった空気を一気にかき回した。カナレの頬はほんのり紅潮し、両手を腰に当てて仁王立ち。


 その表情には嫉妬とも意地ともつかない複雑な熱が宿っていた。


 楓がたしなめるように応じる。


「あんたはイレギュラーな後出しジャンケンで、無理やり割って入ったんでしょうが……」


 呆れたような口調の中に、わずかに苦笑が混じる。


 それでもカナレは納得いかない様子で、シューズの底で床を鳴らしながら地団駄を踏んでいた。


 まるで子どもが好きな遊び相手を取られたときのように。


 そして楓は如月の顔を見て、にこやかに言い放った。


「あんたがいれば何とかなるって、本田社長も考えたんだ。頼んだよ!」


 勢いよく如月の背中を軽く叩く楓。


 その一撃には激励と信頼が同居していた。如月は苦笑いで返すしかなかったが――胸の奥では、もっと深い渦のようなものが蠢いていた。


 その渦は、まだ形を持たない不安と期待の入り混じったもの。それを悟られまいとするように、如月は無言で頷いた。


 そんな気配を振り払うように、再びスクワットを始める。息を吐き、リズムを刻む。筋肉の震えとともに、心のざわめきもわずかに整っていく。


 カナレが「私も手伝うぞ!」と笑顔で言い放ち、そのまま如月の背中に飛びついた。


 しっとりとした感触が如月の体に伝わる。


「うわっ、離れろ!暑苦しいんだよ!」


 如月は振り払おうとするが、カナレは軽やかにかわす。まるで暴れ馬を乗りこなすように。


「いいじゃないか?この方が負荷になって、もっと強くなれるぞ!」


 背中ひしがみつくカナレの重みと声に、如月は顔をしかめながらも完全には突き放せない。その様子は漫才のようで、楓と正美、そして望月は苦笑いを浮かべて見守っていた。


 本道場の空気に笑いが戻った。


 だが、その穏やかな空気を切り裂くように――。


「ちょっとそこのお二人、よろしいですの!」


 澄んだ高めの声が響いた。安西のハードトレーニングを終えたばかりの選手の一人が、タオルを肩に掛けたまま立っている。


 その声は上品で気品にあふれていながらも、どこか時代錯誤のような調子が耳に残った。語尾の伸び方、少し古風なイントネーション――場違いなほど品がいい。


 ――また面倒なことか?


 如月は思わずため息をつきながら、カナレと目を合わせた。二人はゆっくりと声の方へ顔を向ける。


 その動きの先に、次の騒動の幕開けを予感させるような微かなざわめきがあった。


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