第64話:火種の女たち
本道場に、また新たな火種が落とされた。
それは、枯葉に野火を放つような意図的なものではなく――。
ふと座席シートに吸い殻が落ちて、無作為に穴をあけてしまうような、そんな小さな偶発だった。
リングの照明が反射するマットの上では、練習生たちが何事かと体を休めながら注視している。
空気には熱気と緊張、そしてわずかに鉄の匂いが混じっている。
「ちょっとよろしいですの、そこの二人!」
甲高くも張りのある声が響いた瞬間、場の空気がわずかに凍る。姦しいその声に、視線が一斉にそちらへ向けられた。
その“二人”とは、如月とカナレのことだった。
ゆっくりと、しかし着実に二人の元へと歩を進めてくる一人の選手。足音は小さいのに、不思議と場の喧騒がそのたびに吸い込まれていく。
小柄で華奢な体つきながら、立っているだけで周囲の空気を張り詰めさせるような存在感を放っていた。
長い髪を後ろでまとめ、練習着姿という質素な装いにもかかわらず、どこか気品が漂う。
歩みのたびに髪先が揺れ、照明を受けて淡く光る。背筋は真っすぐで、視線は一度も揺れない。
その姿は、場末の道場に不釣り合いなほど整っていて――まるで、場そのものを清めに来た巫女のようでもあった。
その仕草のひとつひとつが洗練され、育ちの良さが垣間見られた。
視線は冷静で、他人を見透かすような強さと、どこか哀しげな優雅さを併せ持つ。周囲の練習生たちは、畏怖の入り混じった思いで彼女を見つめていた。
「カナレさん!」
突然呼びかけられたカナレは、声の主を見て、ぽかんとした顔を浮かべた。その瞳には“誰だこいつ”という純粋な疑問がありありと宿っている。
しばし沈黙――周囲の視線も自然と二人に集まった。
「おっ……おう……誰だ?あんた?」
カナレの言葉が気に入らなかったのか、相手の眉がピクリと動いた。次の瞬間、本道場の天井にまで響くような澄んだ大声が場を貫く。
「あなた達、何じゃれついているのですか!今は神聖なトレーニングの時間ですよ!それを……!」
その語尾に含まれる怒気と誇りが、場の空気をきゅっと締め上げる。練習生たちの手が止まり、遠巻きに見守る者の中には小声で息を呑む者もいた。
対するカナレの顔は、みるみるうちに不機嫌に歪んでいく。唇がへの字になり、眉間に深いしわが寄る。
「なんだお前!いきなり出てきて好き放題言いやがって!何様のつもりだ!」
声には怒りよりも、「突然の説教に対する純粋な戸惑い」が混じっていた。それが火に油を注ぐ形となり、場の緊張は一段と増していく。
カナレがまくし立てるように言葉を投げかけたその瞬間、如月が静かに息を吸い、低い声で口を開いた。
「なあ……文句を言うなら、俺から降りてからにしろよ」
その声には、不思議な落ち着きがあった。まるで、暴れ馬の手綱を優しく引く調教師のように、冷静で柔らかい。
――もっとも、実際に“馬”の背に乗せられているのはカナレのほうなのだが。
見れば――カナレは如月の背中におんぶされたままだった。
その姿は、まくし立てる勢いとは裏腹に、どこか滑稽で、愛嬌すらある。
気づいた瞬間、周囲の練習生たちが一斉に息を呑み、互いに顔を見合わせる。
そして次の瞬間、「ああ、なるほど」といった表情で苦笑を交わした。抑えきれない笑いを、手の甲で口元を隠してこらえる者もいる。
カナレは如月におんぶされたまま、まくし立てていた。
まるで、馬上から罵声を飛ばしているような構図に、道場全体がどこか微妙な沈黙に包まれた。
背中にズッシリとのしかかるカナレの体重を感じながら、それでも声色ひとつ変えないあたりが如月らしい。
場の空気が、ほんの少しだけ緩む。張り詰めていた視線がゆるやかに解け、周りの選手たちも、「そりゃ当然だ」というような顔でうなづいている。空気には、緊張と呆れとが半分ずつ混ざり合っていた。
カナレは、ようやくその視線の意味を察したのか、眉をひそめながら如月の背から降りた。
そして、文句を言ってきたその選手の前へ、肩を怒らせながらズカズカと歩み寄っていく。踏みしめる床が、ぎゅ、と低く鳴った。
「さあ!降りてきてやったぞ!」
その声は、挑発というより、どこか子どもっぽい意地の塊だった。
だが、周囲にはそんな事情を察して笑う余裕などなく、一同は絶句する。
――また、よからぬことを考えているのではないか。そんな不安が場に漂い、空気が再び張りつめた。
如月もあきらめたようで見守ることにした。何かあったら止めればいい。そんなふうに考えながら、静かに状況を見守っていた。
「お~い、ちょっと待ってくれないかい」
本道場に、よく通る声が響いた。声は落ち着いていながらも、一本芯の通った響きを持っている。
その声が聞こえた瞬間、場の空気がふっと変わった。
――皇だった。
その姿に、練習生たちが一斉に振り返る。汗の光る床の上に、皇の影がすっと伸びていく。
「お疲れ様です!」
皆が皇を見て反応すると、揃って挨拶をした。まるで張りつめていた糸が一瞬だけ緩むように、道場に礼の声が重なった。
しかし、カナレは皇に挨拶するどころか、相手を見下ろすように睨みつけているだけで、皇の方を見ようともしなかった。
拳を握ったまま、呼吸を荒げ、頬に熱が残っている。
皇はそんなカナレのそばに歩み寄ると、少しだけ腰を落とし、諭すように肩を軽くポンと叩きながら言った。
その仕草には、どこか姉のような温かさがあった。
「カナレ、彼女も悪気があって言ったわけじゃないんだよ。それに、あの姿を見れば誰だって注意すると思うよ」
穏やかに言いながら、皇は親指を立てて後方を指す。
すると、その視線の先――エプロンサイドで腕を組んで仁王立ちする斎藤と安西の姿があった。
照明に照らされた二人のシルエットは、まるで彫像のように動かない。何も言わずにカナレをきりっと睨みつけるその様子は、まさに“阿吽の呼吸”だった。
斎藤の目には静かな怒り、安西の瞳には冷えた理性が宿っている。
その無言の圧だけで、カナレの肩がわずかに引いた。道場の空気が再び静まり返り、誰かの汗がマットに落ちる音だけが響いた。
何も言わず存在だけで圧倒する二人の姿を見たカナレは、少しだけトーンを落とした声で皇に言った。
拳を下げ、先ほどまでの勢いをほんの少しだけ引っ込めながら、唇を尖らせて言葉を続ける。
「……だって、こいつが喧嘩売ってきたんだよ、ツバサさん」
声には、幼さが滲んでいた。道場の空気が一瞬、微妙に揺れる。
皇はため息をひとつ、肩で小さく吐き出す。
すると、その選手が割って入るように言い返した。まっすぐな背筋を伸ばし、わずかに顎を上げ、響きのある声を放つ。
「こいつではありませんわ!私には鳳条十見子という、おじい様から頂いた名前がありますわ!」
語尾の「わ」が、金属音のように空気を震わせる。その姿は、若さゆえの気高さと、育ちの良さが絶妙に同居していた。
――鳳条十見子。
鳳凰建設株式会社、会長・鳳条時宗の孫娘であり、Queen Beeの屋台骨としてその全機能を支える一社<四翼会>の1つ。
道場の中でその名を知らぬ者はいない。名家の血筋、誇り、そして“責任”の象徴。
如月は思った。
(……ブルジョアなお方たちが多い団体だこと……)
ため息混じりの心の声。
冷静な皮肉というよりも、どこか現実離れした光景への呆れに近い。汗の匂いと革のマットの上に、香水のような気品が混ざる――。
その不釣り合いさが、如月の中で妙に可笑しく映った。
そんなことを考えながら黙って二人を見ている如月に、十見子は鋭く視線を向け、きっぱりと言い放った。
その瞳は、まるで氷の刃のように真っすぐで、わずかに顎を上げたその姿には、育ちの良さゆえの気高さがあった。
「あなたのおかげで、伝統あるQueen Beeの秩序が乱れつつありますわ!」
その言葉に、場の空気が再びピンと張り詰める。叱責というよりも、“宣告”の響きを帯びていた。
だが、空気を読まないというより空気を自分のペースでねじ曲げるのがカナレである。
「なあツバサさん、うちってそんな老舗だったっけ?」
あまりにも素朴で、あまりにも直球な一言。
その瞬間、緊張の糸がぷつりと切れる音、誰の耳にも聞こえたような気がした。
問いに対し、皇は答えづらそうな顔で渋々口を開いた。眉尻を下げ、後頭部をかきながら、どこか居心地悪そうに言葉を探す。
「……う~ん、まぁ、ざっと見繕って旗揚げから六年の歳月が過ぎてるかなぁ……」
皇の言葉に、如月の近くで聞いていた楓が、やや呆れたように肩をすくめて口を挟む。
「皇、“歳月”ってのはちょっと厳かすぎやしないかい?」
言葉の柔らかさとは裏腹に、絶妙なタイミングだった。
その一言に、周囲の選手たちからクスクスと笑い声が漏れ出す。こらえきれない笑いが、小さな波紋のように広がっていく。
十見子の肩がピクリと動き、視線を逸らす。気まずくなった彼女の顔が、みるみる真っ赤になる。首筋まで熱が上り、耳の先まで紅潮していた。
道場の空気は、叱責の緊張から一転して、まるで授業中に誰かが教師をからかって笑いが漏れた教室のようだった。
「とにかく!もう少し気を引き締めてトレーニングをしていただけますか!」
声を張り上げた十見子の頬には、うっすらと紅潮が差していた。言い終える頃には、肩で息を切らしている。胸元が上下し、整えようとしても呼吸がうまく整わない。
――よほど、自分たちの態度が気に入らなかったのだろう。
如月はそう考え、静かに歩みを進めて十見子の方へ向かった。床の上を踏みしめる足音が、わずかに響く。その動きに気づいた皇が、ニコリと笑って軽く手で挨拶をする。どこか「任せたよ」とでも言うような、穏やかな目だった。
如月もそれに会釈で応え、そして十見子に言った。
「申し訳ない。ウチの相方が迷惑かけた。俺もちょっと調子に乗ってたかもしれない。これからは気を付けるよ」
言葉を選ぶ間もなく、素直な謝罪だった。如月はそう言うと、愛想ではなく礼として、姿勢を正して深く頭を下げた。
その背筋のまっすぐさに、場の空気がすっと澄む。
その態度に気を良くした十見子が、少し声を震わせながら言った。強気な表情の裏に、どこか緊張と安堵の入り混じった色がのぞく。
「わ……わかればいいんですわ……」
口調は相変わらず気取っているのに、どこか頬が緩んでいる。如月はその声を間近で聞いて、ふと何かを思い出した。
――ギフト訓練中、如月とは少し離れたところに彼女はいた。
他の面々が斎藤のハードトレーニングで倒れ込む中、一人だけ黙々と体を動かしていた少女。
息を切らしながらも、誰の目も気にせず、自分のペースで汗を流していた姿が脳裏に蘇る。
(……そうか、あの時の子か……)
如月は、同じギフト訓練を経た十見子を見つめながら思った。
仲間の一人が本隊へ合流できたことが、素直に嬉しかったのか――。
それとも、年のせいか少し感情的になっていたのか。
まるで、鉄棒の逆上がりを成功させて父に誇らしげに報告する娘を見るような目で、彼女をじっと見続けていた。
視線には、賞賛や下心もなく、純粋な「よくやったな」という温かさが滲んでいる。
だが、当の本人からすれば、そのまなざしはどうにも居心地が悪い。
「な……なんですの?」
十見子がそんな如月の様子を見て、不思議そうに目を瞬かせる。少しだけ頬を赤らめながら、視線をそらそうとするものの、気になって仕方がない。
妙に和んだ表情の如月を見て、皇は思わず吹き出してしまった。
「あはは!なんだい如月、その遠い哀愁の目は。流し目のつもりかい?」
声が響いた瞬間、場の空気が一気に軽くなる。
十見子が「えっ?」と小さく反応し、周囲の選手たちも皇の言葉に釣られるように笑い声を上げた。
それは、本道場に柔らかい笑い声が響く。緊張も消え、ただ“仲間”としての空気だけが、そこに流れていた。
汗の匂いと笑い声が混じり、どこか懐かしい温度が場を包む。
少し離れたところで見ていた斎藤と安西も、“やれやれ”という表情を浮かべながら、特に何も言わなかった。
無言ながらも、「まあ、こういう日も悪くない」という空気が二人の間に流れている。
だが、カナレだけは黙っていなかった。
「何もおかしくな~い!」
場の笑い声を一瞬でかき消すような大声が響いた。空気がまたピンと張り詰める。周囲が一瞬息をのむ中、カナレは拳を握って仁王立ちになる。
そして続けざまに言い放った。
「如月っち!」
鋭い声が飛び、如月は思わず背筋を伸ばす。
「はいっ!」
条件反射のような返事。笑いをこらえていた皇が、肩を震わせて横を向く。
カナレはそのまま、さらに勢いを増して言い放った。
「そもそも、なんで如月っちが謝らなきゃいけないんだ!元々は私が発端だ、謝るなら私が謝る!」
その声には、筋を通そうとする真っ直ぐな思いがあった。胸を張り、堂々としたその姿は、周囲の誰よりも誠実に見えた。
その言葉に、如月と皇は少しだけ感心した。
――この子にも、礼節があるんだな。
だが、カナレの言葉はそれだけで終わらなかった。勢いのまま、さらに一歩踏み込む。
「おい!お前!そんなに気に入らないんなら、私と勝負しろ!」
その宣言に、笑いは完全に吹き飛んだ。場の温度が一瞬で変わり、誰もが「また始まった……」という顔をする。
十見子の眉がぴくりと動き、皇は額に手を当て、如月は心の中でそっとため息をついた。
如月と皇は同時にあきれた。
――どうしてそういう発想になるんだ。
そのとき、離れた場所から斎藤の声が響いた。低く、しかし場の隅々まで届くような通る声。笑いの余韻を一瞬で断ち切るその響きに、全員の背筋が自然と伸びた。
「おもしろいじゃないか。そんなに白黒をつけたいなら、リングに上がって二人で決着をつけろ」
静寂。
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
「よっしゃ!」
カナレは勢いよく声を上げ、肩を回しながらリングへと向かっていく。腕をぐるぐる回すたび、関節が軽く鳴り、リングライトが彼女の笑顔に反射した。
その背中には、まるでこれを待っていたかのような闘志が燃えている。
十見子も一歩遅れて、「上等ですわ!」と血気盛んにその後を追った。その足取りは優雅で、それでいて決意がこもっていた。
二人の歩みが、まるで試合のゴングを鳴らす前の行進のように、本道場の床を響かせる。
(……なんでそうなるんだ……年配者の発想は理解できん……)
如月は内心でぼやいた。呆れにも似たため息が喉まで出かかったが、飲み込む。
その瞬間、背後から視線の重みを感じた。
斎藤だった。
ゆっくりと首を向けると、鋭い目がこちらを射抜いている。まるで、心の奥を覗き込まれているような錯覚。
「如月……何か言いたそうだな……?」
低い声が、床の反響を伴って響く。その声音になぜか息が詰まる。
凄みのある顔、ドスの効いた声、そして闘気を帯びた圧。如月はごまかすように「いえ、別に!」とだけ答えた。
反射的に背筋が伸びる。
ただ、如月は思った。斎藤がむやみに選手をリングに上げるわけがない。
――何か、考えがあってのことだろう。
その目は、ただの試合ではなく、“何かを見極めようとする目”だった。如月はわずかに唇を引き結び、リングへと視線を移した。




