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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第62話:怒声のあとに

 関西、朝の行きかう人たちの喧騒が心地よくもある大通りに面する中央、凛とした佇まいの大型ドームを隣接させた巨大ビルがある。


 その外観は、ガラスと金属の質感が朝の光を反射して、まるで一枚の鏡のように街並みを映し出していた。


 通勤者の波がビルの前を通り過ぎるたび、ガラスの壁面に淡い影が流れていく。


 そこが――女子プロレス界の首領ドン、藤沢寛美が牛耳るKDPの本社ビルだった。


 威圧感すら漂わせるそのビルは、外観の清潔さに反して、内部には女子プロ界の表と裏も飲み込むような熱気を孕んでいる。


 KDPの社長室。


 重厚なオーク材の扉が閉ざされ、外からはほとんど音が漏れないはずの厚い防音壁を突き抜けて、突然、甲高い怒号が響いた。


「この、ドアホ!」


 社長室から廊下へと漏れる大きな声。


 このフロアでは、もはや日常の一部のような光景なのか――年配の清掃員が、顔色ひとつ変えずにモップを動かしている。


 その手つきは慣れたもので、怒声のリズムに合わせるように床を往復させていた。


 声の主は藤沢寛美。


 ジャケットの裾をひるがえし、デスクの向こうで身を乗り出すようにして立っている。


 190センチを超える長身のシルエットは、ただそこに立つだけで空気を支配する。


 紺のジャケットのラインはウエストにかけて流れるように絞られ、凛とした体幹をより引き立てていた。


 ボタンの隙間からのぞく淡い肌と、胸元の起伏が、大きく息を吸うたびにわずかに揺れ、声の震動と共に布地を撓ませる。


「あんた!何考えてんねん!」


 その一喝は、厚い防音壁を貫いて廊下にまで響く声。清掃員のモップの動きが一瞬止まる。


 だが、次の瞬間には何事もなかったかのように廊下では清掃員の手が再び動き出した。


 ――この光景は、KDPでは日常の一部である。


 藤沢寛美。


 丈が短いスカートからでる脚はまっすぐに床を踏みしめ、ヒールの先が硬く音を立てるたび、部屋の空気が震える。


 整えられた淡い茶色の髪が肩に流れ、照明を受けて艶を放っていた。


 呼び出されたであろうイサミは、机の前で、直立不動で肩をすくめ、まるで稲妻に打たれたような表情で立ち尽くしていた。


 冷たい空調の風が頬をかすめても、汗がじっとりと首筋を伝う。息をのみ込む音すら、この場では不敬に思えるほどの沈黙が支配していた。


 理由は――ゲラのことだった。


「社長室からゲラ盗み出すわ、それをわざわざ商売敵に届けるわ!あんた、正気か!」


 藤沢の声が炸裂する。


 厚みのあるマホガニーの机上に置かれた書類の束が震え、紙の角が一斉に跳ねた。


 その衝撃が、まるで雷鳴のように部屋の隅々まで響き渡る。


 藤沢の瞳には、怒りと失望が入り混じっていた。威光を宿した双眸がイサミを射抜き、細い眉がぴくりと吊り上がる。


 長い脚で床を一歩踏みしめるたびに、ヒールの音が乾いた銃声のように空気を裂いた。


 彼女の一挙手一投足に、室内の温度がわずかに下がる。空気が張り詰め、壁掛け時計の秒針の音すら遠のいていく。


 イサミは思わず息を止め、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 窓の外では、朝日がビル群の隙間から差し込み、机の上に長い影を落としている。


 その光が藤沢の横顔を照らし、強い輪郭に淡い黄金を走らせた。美しさと威圧が同居したその姿に、言葉を失う。


 その余韻がまだ壁の奥に染みついている。


 広々とした社長室には、呼び出されたイサミと、オールマホガニーの一枚板で仕上げられた社長デスクから身を乗り出しながらまくし立てる藤沢の姿。


 磨き上げられた机の表面には、怒りに紅潮した藤沢の顔が微かに映り込み、わずかな身の動きで光が走る。


 一方、部屋の隅に設けられたオープンスペースでは、ソファーに腰を沈めた成田が、苦虫を噛み潰したような顔で頭を抱えている。


 歳月を刻んだ指が額を押さえ、ため息を漏らすその仕草には、長年この会社を見てきた者の諦念ていねんがにじんでいた。


 三者三様の表情と感情が交錯し、室内の空気は張り詰めているのに、どこか湿り気を帯びている。


 冷房の風が書類の角をかすかに揺らし、藤沢のヒールが床を一度だけ叩くと、その音がすべての音を押し殺した。


 ――怒り、焦り、そして諦め。


 それぞれの呼吸が混ざり合い、言葉にならない緊張がゆっくりと部屋の中に沈殿していった。


「ウチは正々堂々と試合したいだけなんや」


 イサミは悪びれることなく、軽く肩をすくめながら言った。その声には妙に澄んだ響きがあった。


「ほんまこの子は……」


 藤沢相手に一歩も引かない――その意志の固さが、静かな反骨となって空気に滲む。


「イサミ……今回ばかりは、勇み足やったとちゃうか?」


 成田はソファーに体を預けたまま、少しあきれ顔でイサミを見やった。


 言葉の端に苦笑が混じる。だがその表情の奥には、“自分も想定外やった”という戸惑いが隠しきれない。


「イサミだけに勇み足ってか?おっちゃん!相変わらずオモロイな!」


 イサミは笑いながら、手をひらひらと振った。関西独特の軽妙な間合いで返されると、成田もつい釣られて口角を上げてしまう。


「ほーか!なんや知らんけどスーッと出てきたんやな、これが!」


 二人の笑い声が室内に響く。


 どこか照れくささと、緊張をほぐそうとする意図が混じり合ったような笑いだった。


 ――だが、空気は緩まなかった。


 デスクの向こう側。藤沢は腕を組んだまま、じっと二人を見据えている。その眉間に刻まれた一本のシワが、部屋の温度を一気に下げた。


「何がおもろいんじゃ!」


 怒声が炸裂した。ガラス窓がびりりと震え、室内の笑いが瞬時に凍りつく。


 成田の喉がひくりと動き、イサミは口を半開きのまま固まった。


 その沈黙が、藤沢の怒りの深さを何より雄弁に物語っていた。


 ツッコミというより、明らかな怒号まじりの叱責に、二人は思わず体をすくませた。


 成田は咳払いをして、イサミを諫めるように問いただした。


 その声には、怒鳴りではなく、年長者としての「けじめをつけろ」という静かな圧がこもっていた。


「イ……イサミ!ヒロミに謝らんか!」


 低く落とした声が、怒号よりも重く響く。それでもイサミは釈然としない顔で、首をかしげながら言い返した。


「ほなおっちゃんは、そのままリング王のお膳立て 通りに、事進んだ方がよかったんか?」


 その一言に、成田の表情が固まる。


 反論の言葉を探すように口を開きかけたが、結局何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。


 藤沢の顔を伺いながら、窓際へと歩み寄る。背中越しに見えるその姿は、長年の経験で積もった苦味を抱えた男のそれだった。


 藤沢は黙ってイサミを見つめていた。


 その視線には怒りも、言葉もない。ただ、冷たく研ぎ澄まされた沈黙だけがあった。


 彼女の目尻がわずかに吊り上がると、室内の空気が一段重くなる。


 イサミはその視線に押されるように、口を歪めて苦笑いを浮かべた。軽く両手を広げ、場を和ませるように言葉を投げる。


「そんな怖い顔したら、せっかくの別嬪が台無しやんか〜」


 冗談めかしたその声は、どこか震えていた。


 しかし藤沢の顔は変わらない。


 瞳の見えない細い目が、まるで刀身のように鋭く吊り上がったまま、無言でイサミを見据えているだけだった。


 その無言が、どんな罵声よりも強い。言葉を失ったイサミの喉が、かすかに上下する音だけが、室内に残った。


 そんな状況を哀れに思ったのか、成田がゆっくりと体を起こし、助け舟を出した。


 振り返ると、年長者らしい落ち着きを伴った低い声色で言った。


「イサミよ、なんでヒロミがゲラを握り潰さんと持ってたか考えへんかったんか?……」


 その問いは、ただ事の道理を問うているだけだった。


 イサミは成田の言葉に首をかしげ、額に小さなしわを寄せる。理解に追いつけない様子から言葉が出る。


「そりゃ……、Queen Beeを手っ取り早く潰すためやろ?」


 イサミの言葉を聞いた藤沢が、深く大きなため息をついた。


 背中で空気を押し返すような吐息が部屋の静けさを一層際立たせ、彼女は椅子から半歩だけ身を乗り出して、諭すように語り始める。


「……別にウチらは本田をいびる道具として、ゲラを持ってたわけやないで」


 言葉の全てに、確固たる線が通っている。藤沢の顔からは怒りだけでなく、腹に据えた誇りが読み取れる。


 イサミの頭の中で描いていた“陰謀の筋書き”と、目の前で語られる現実との間に大きな食い違いが生じる。彼女の口が微かに開き、抗弁の言葉を探すが、なかなか見つからない。


 藤沢は続ける。声は強いが余裕があり、部屋に落ち着きを取り戻す効能を持っていた。


「本田んとこ潰すのに、そんな手使うほどウチは安い女とちゃうで!」


 その断言には、社長としての威厳と――どこか職業的な誇りが混じっていた。


 成田は小さくうなずき、イサミは自分の中にあった短絡的な仮説が風船のように萎んでいくのを感じる。


 藤沢の言葉の重みをかみしめながら、成田はうんうんとうなずく。


「ほな、なんで?」


 イサミの問いに、藤沢は答えることなく、そのままイサミの前まで歩み寄ると腰に手を当て、かがんで顔を近づけた。


 ヒールの音が一歩ごとに床を打ち、室内の空気がわずかに震える。


 香水ではない、彼女自身の体温を帯びたような香りが、ふっとイサミの鼻先をかすめた。


 圧ではなく、存在そのものが迫ってくる。


 睨むわけでもなく、ただほんの少しだけイサミを見つめる。


 その目は静かで、感情を読み取らせない。怒りとも哀れみともつかない光が淡く宿っているようにも見えた。


 イサミとの顔の距離は、ほんの拳1つ分。呼吸をすれば、互いの吐息がかすかに触れ合うほどの近さだった。


「何んやの!そないなアップで迫って!チューでもするんか?」


 イサミのボケに反応することはなかった。藤沢の長いまつげが一度だけ静かに瞬きをする。


 それだけで、イサミの喉がひくりと鳴った。


 普段ならどんな状況でも返す藤沢が、何も言わない――その沈黙こそが異様だった。


 彼女の沈黙が、怒声よりも重く、鋭く、イサミの胸を突いた。


 その瞬間、イサミはようやく気づく。今、目の前にいるのは“決断を下す一人の社長”なのだと。


「このままあんたをKDP所属の選手として置いておくわけにはいかん。皆に示しがつかへんからな……」


 そして一呼吸おいてから神妙な顔つきで言葉が発せられた。


「そやから――ペナルティーや」


 本気と取れる藤沢の発言を聞き、成田はイサミをかばうように言った。


「ヒロミ……何する気や?イサミも反省しとるやろ、なあ?あんまりキツいのはあかんで……」


 しかし藤沢の表情は変わらず、イサミを見下ろしたまま、時間だけが静かに過ぎていった。


 ――Queen Bee本道場。


 選手たちはいつものように、皆淡々と与えられた練習メニューをこなしている。


 鉄骨の梁がむき出しの天井から吊るされた照明が、朝の光と混ざり合い、白くくぐもった熱気を漂わせていた。


 床を打つシューズの音、ロープが軋む音、荒い息づかい――それらが渦を巻くように響く。


 安西は新しく本隊に合流した若手選手を担当しながら、いつも通りの内容を与えていた。


 若手選手は必死の形相で、汗をぬぐう暇さえない怒涛の練習メニューに、なんとかこなしている。


 腕や脚の筋肉が悲鳴を上げても、誰ひとり声を上げない。ただ己の限界と向き合っていた。


 如月たちは、斎藤の指示で、いつもより早くリングでスパーリングに打ち込んでいる。


 順番待ちのように皆リング下で体をほぐしながらアップをしている。準備運動と呼ぶにはハードな内容をこなした後でもあり、体からは湯気が上がっていた。


「うおぉぉりゃぁぁ!」


 気合十分のカナレの声が本道場全体にこだまする。


 その瞬間、空気が一段震えた。


 先のイサミから垣間見た驚愕のパワーを思い返し、このままでは完全に力負けすると感じたことで、いつも以上の気合と練習量を朝からこなしている。


 肩で息をしながらも、カナレの瞳には疲れの色がなかった。拳を握るたび、骨の軋む音が掌の奥で鳴る。


 それでも止まらない――彼女の中にある“悔しさ”が、痛みを上書きしていた。


「カナレ!動きが単調すぎる!もっとスピーディーに相手を翻弄しながら食らいつけ!」


 斎藤の檄が飛ぶ。


 短く切り裂くような声がリング上の二人を包み込み、空気がピンと張り詰める。


 斎藤自身も、カナレのやる気に応えるように動きを追い、目を離さない。


 穿つような視線。筋肉の動き1つ。呼吸の乱れ1つも見逃さない。


「……この!」


 カナレの猛攻に耐えながらスパーの相手をしているのは楓だった。


 彼女の吐息が荒くなり、額の汗がロープの下に滴り落ちる。楓の息遣いは乱れているが、動きには一切の無駄がない。打撃を受けるたびに体を捻り、受け流し、次の構えを作っていた。


 あれほど苦手としていた相手に、カナレは自分の弱さを払拭するかのように食らいついていく。


 その表情は、歓喜に満ち溢れていた。そして楓の一撃が、彼女にとっては挑戦状のように思えた。


 ――倒されてもいい。だが、もう怯えた自分には戻らない。


 そんな心の声が、拳の重さになって響いていた。


 カナレが楓の膝めがけてタックルを仕掛ける。すぐさま楓が対応してタックルを切る――動きが速い。


 すかさずカナレは次の行動に出た。左右にフェイントを混ぜながら再度タックル――と見せかけて、寸前で急停止。


 楓の右足を掴み、そのまま持ち上げ、マットに倒れさせた。


 だが楓も、その動きに合わせてすぐさまカナレの首周りに両足を搦め、腕ひしぎ十字を極める。


 鋭く、無駄のない体の流れ。


 それでもカナレは負けじと、ここは自分の領域だと言わんばかりに、ギフトを使うことなく純粋なパワーだけで楓を片手で持ち上げる。


 筋肉が隆起し、軋むような音を立てて伸び上がると、得意技アルティメットボムの体勢に入る。


 間髪入れずに、楓を叩きつけた。


 しかし試合巧者の楓は先を読んでいた。持ち上げられたと同時に関節技を解き放ち、そのままカナレの背後へ飛んでいた。


 右手をマットに叩きつけたままのカナレは楓を追う。


 楓はダッシュを決めて両腕でカナレの腰を素早くロックし、投げっぱなしジャーマンスープレックスで勢いよく放り投げた。


 カナレの体が弧を描き、マットに叩きつけられる音が響いた。


 その攻防をリング下で見ている選手たちは、誰ひとり声を上げない。瞬きも忘れたように、二人の動きを目に焼き付ける。


 緊張と熱気が混ざり合い、空間全体が呼吸しているようだった。


「……朝からよくやるねぇ」


 如月はスクワットをしながら、リング上の攻防を眺めていた。その表情はどこか楽しげで、同時に冷静だった。


 熱気の渦の中で、彼女だけがひとり、静かな波を纏っていた。如月はスクワットをしながら、リング上の二人の攻防を見ていた。


「……あんたもよく平然とスクワットしながら見てられるね」


 呆れながら答える望月に、如月は笑顔で返す。


「こんなもの、ただの屈伸運動だよ」


 そんな様子を遠巻きで見ている斎藤は、如月とカナレを中心に生まれた渦。


 その動き、その衝突、その呼吸。


 ――Queen Bee全体を巻き込みながら成長していく、熱い波を感じていた。


 リングの上でぶつかる音が、まるで心臓の鼓動のように場内に響く。


 斎藤は腕を組みながら、その光景を静かに見つめていた。


 彼女の目には、かつて自分も若手だった頃に感じた“闘う悦び”が微かに蘇っている。


 そして、思わず口元が緩んだ。


 小さく息を吐くと、すぐにコーチの顔に戻る。その笑顔を消し、再びカナレに檄を飛ばした。


「オラ!技が軽いから返されるんだ!もっと重く、しなやかに行け!」


 その声は、厳しくも温かい。カナレの肩が反応し、再びマットを踏む音が鳴り響く。


「はい!」


 大きな返事が本道場に響き渡ると、カナレも斎藤の気迫に答えるように前のめりになりながら冷静に楓と対峙する。


 安西もまた、斎藤の熱のこもった指導に触発されたかのように、受け持ちの選手たちに檄を飛ばす。


 彼女の声は、斎藤よりも低くかった。


「ほら!そこ!なんだその浅いストロークは!ケツが床につくくらいまで深く腰を落とせ!」


 鉄骨の梁がその声を反響し、天井の蛍光灯がわずかに震える。全員の呼吸が合わさり、道場全体がひとつの巨大な生き物のように息づいていた。


 本道場の熱気は収まることなく、時間は刻々と過ぎていく。マットには無数の汗の跡、靴跡が重なり、努力の痕が層を成していた。


 その中で――一人の練習生が、カナレを見ていた。


(……まったく、なってませんわ)


 スクワットをしながらも、目線は一瞬たりともカナレから離れない。その瞳は静かだが、奥底には確かな熱が潜んでいた。


 カナレの動き一つひとつに、彼女の思考が連鎖していく。それはただの憧れではなく、別の感情がヒシヒシと全身に駆け巡っていた。


 ――この視線が、また1つの騒動へと火を点けることになる。


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