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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第61話:ほな、またな

 イサミは部屋の中に入ると、斎藤に懇願するように答えた。


「斎藤はん、大ごとだけは勘弁してな……」


 入ってきた瞬間、空気がわずかに変わった。狭い部屋に、外の廊下から運ばれてきた湿った風が流れ込み、カナレたちの張り詰めた視線とぶつかる。


 イサミは足音をほとんど立てず、けれど堂々とした歩幅で室内の皇の元へ進む。胸の前で腕を組み、目だけを鋭く動かした。


 どうやら今、問題になっているゲラを持ってきたのはイサミだという。その事実を聞いた瞬間、室内の温度がほんの少し下がったように感じられた。張りつめた沈黙の中、誰もが息を潜める。


 KDPの刺客――。


 そんな言葉がカナレの頭に浮かんだのか、歯ぎしりしながら、まるでリング上で対峙する対戦相手に仕掛けるように腰を低く構えている。


 靴底が床をきしませ、両肩の筋肉がわずかに隆起する。彼女の目は、完全に闘争のスイッチが入った獣のそれだった。


 空気が動けば、すぐにでも飛びかかる――そんな危うさが、部屋の隅々まで伝わる。


 斎藤が息を呑み、誰かが咳払いした音だけが、やけに耳についた。


 沈黙の中、蛍光灯の微かな唸りが頭上で響き、空気の重さが肌にまとわりつく。誰も動かない。


 その静寂を裂くように、斎藤の声が鋭く飛んだ。


「カナレ!」


 その一言で、カナレは一瞬だけ力を抜く。


 だが、肩を上下させる呼吸の速さは止まらず、その目だけは獣のようにイサミを鋭く狙い続けている。


 その視線の強さに、イサミの頬にかかる髪がわずかに震えた。


「なんや、四面楚歌やな……」


 イサミはわざと軽口を叩くように言った。


 しかし、その声の奥には、張り詰めた緊張を和らげようとするような微妙な笑みが混じっている。


 彼女の言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。


 イサミの言葉をうなづけるように。SAKEBIと望月そして島村はイサミを軽蔑するような視線を向けている。視線はどれも冷たく、敵意と困惑が入り混じったもの。


 誰もが、どう扱えばいいのかわからない異物を見るような目をしていた。


 ふと足元に目をやると、先ほど斎藤が破いたゲラの一部が如月の足元に落ちていた。


 白い紙片は空調の風にかすかに揺れ、床の影の中で光を反射している。破れた断面からは細かい繊維が立ち上がっていた。


 自然と目線がその破られた記事へと移り、そこに写っていたのは、今まさに目の前にいる見知らぬ少女の姿。


 印刷された写真の中の少女は、どこか光を拒むように無表情で、しかしその目だけが異様に強かった。


 紙の上の視線と、現実の少女の視線が重なった瞬間、如月の背筋にわずかな寒気が走る。


 そのゲラには、「女子プロ界の注目株!関西が生んだ奇跡の美少年」と書かれている。


 太いゴシック体の見出しが、まるでスポットライトを浴びるように紙面の上で輝いていた。


 印刷の黒が艶やかに光り、まるで一枚のポスターのように存在感を放っている。写真に映るその笑顔は、どこかあどけなさと凛とした強さが同居しており、“女子プロ界の新星”という呼び名が決して誇張ではないことを物語っていた。


「美少年?……」


 如月の言葉に反応するように、イサミが否定するように言い返した。その声は、少し鼻にかかった関西訛りのまま、ぴしゃりと空気を割った。


「あんな、言っとくけどウチは女や。それに年も二十歳やで」


 その瞬間、部屋の空気がまたひとつ変わった。思わず息を呑み、如月の眉がわずかに動く。


 如月はイサミの言葉を聞いて一瞬理解できなかった。それもそのはず。


 目の前にいる少女と思しき姿は、とても成人女性には見えない。華奢な体つきと低い身長。


 肩のラインは細く、手首の動きは軽やかで、まるで小鳥のような印象を与える。蛍光灯の光が髪に淡く反射し、顔の輪郭を子供のように柔らかく照らしていた。


 だが、その整った目鼻立ちはどこか中性的で、見る角度によっては凛々しさすら帯びている。


 頬の陰影がわずかに強調されるたび、男装した少女のような端正さが浮かび上がり、無邪気さと鋭さ――その両方を同時に感じさせた。


 小柄というより、完全に“子供”だった。けれど、その存在感だけは不思議と大人びている。


(……確かに、美少年と言ってもいいかもな……)


 心の中で思う如月。その聞こえるはずのない声に、イサミは反応するように再び言い返した。


「ウチ、嫌いやねん。そのキャッチフレーズ……」


 鼻にかかった関西弁が室内の空気をふっと和らげる。イサミの唇の端がほんの少し引きつり、否定的だった。


 斎藤に抑え込まれながら、イサミにかみつくカナレ。


 カナレの声は震えているが、それは怒りだけでなく興奮が混じった音で、胸の奥から湧き上がるような猛りがある。


「おい!まずはお前からだ!かかってこい!」


 その挑発に、周囲の誰もが一瞬身を強ばらせる。カナレの口元に浮かぶ紅潮は怒りの証であり、同時に闘志の火種でもあった。


 興奮するカナレを抑えるべく、SAKEBIや望月、島村が慌てて押さえ込む。


 三人の手つきは慣れているが、動きに無駄がない。彼女らの呼吸が揃うたび、場の熱量が少しだけ抑えられていく。手首を固め、腰を落として抑え込む様子には、リングでのコンビネーションのような精度がある。


「アホか!金にもならん喧嘩なんかできるかい!」


 イサミの声は明るく、煽り半分の親しみを含んでいる。


 軽やかな態度の裏には余裕がにじみ、周囲の視線を引き付ける。蛍光灯の下でその笑顔は一瞬スポットライトを浴びたかのように輝き、場の緊張を掻き立てる同時に、皆の注意を一点に集めていた。


 イサミもカナレの態度が気に入らないのか、カナレを見据えた。口元の笑みがわずかに消え、瞳の奥に静かな光が宿る。


 その目は、相手の呼吸や重心を一瞬で見抜く経験者のそれで、挑発的な言葉ひとつなく、ただ視線だけで距離を支配していた。


 しかし、その目は挑発というより、格下を見るベテランのような視線だった。冷静さの中に、絶対的な余裕。


 まるで、何百戦も修羅場をくぐってきた者が、若手の無謀を軽く受け流すような、そんな静けさが漂っていた。


 如月はイサミの態度で感じ取った。


 ――慣れてるな……。


 関西という土地柄、この程度の舌戦には手慣れている。そう感じさせるイサミの風貌に、少し感心している如月。


 言葉の切り返し、視線の角度、間の取り方。すべてが自然で、場慣れしている。その堂々とした立ち姿に、如月はプロレスラーとしてではなく、一人の“表現者”としての風格を感じていた。


「カナレ。気持ちはありがたいけど、一度落ち着こうか……」


 皇が、話が進まないと思い状況を整理するように声をかけたが、まだカナレの興奮は収まらないようだった。


 皇の声は柔らかいが、響きの奥に芯がある。その軽やかなトーンが部屋の空気を包み込み、一瞬だけ皆の呼吸が整う。


 だが、カナレの肩はまだ上下し、拳の震えが止まらない。闘争の熱が、静けさの中でくすぶり続けていた。


 すると、斎藤がカナレを抑え込んでいる手を放し、イサミに近づいて行く。床を踏みしめる足音が、静まり返った部屋に低く響いた。


 その動きに合わせて、カナレの身体がわずかに揺れ、押さえ込んでいた三人が慌てて体勢を変える。


 三人がかりとはいえ、本気のカナレ相手に抑え込む自信がないのか、「まって……」と言わんばかりの顔をするSAKEBI達。


 その表情には、焦りと戸惑いが入り混じっていた。カナレの肩の筋肉がピクリと動くたびに、誰もが爆発寸前の爆発物を押さえているような気分になる。


 案の定、カナレは斎藤に帯同するようにズルズルと三人を引きずりながら、イサミに近づいて行く。


 床に擦れる靴音と、誰かの息の音が重なり、空気の密度が一気に上がる。


 イサミの目が、ゆっくりと斎藤の動きを捉える。軽い笑みが消え、表情がわずかに固まった。


 そんな時、斎藤が一言だけイサミに問いただした。


「あの女狐……藤沢の仕業か?」


 怒りを抑えながらの低く響く声が、部屋に広がる。その声はまるで床下から響くようで、聞く者の腹の底に重く沈む。空気が一瞬で張り詰め、誰もが次の一言を待つように息を止めた。


 さすがのイサミも、恐れおののくように答えた。ほんの一瞬だけ肩をすくめ、苦笑いのような顔を見せる。


「ちゃう、ちゃう!ヒロミちゃんやないって!」


 関西訛りの声が、緊張をかすかに緩ませる。


 しかし、その明るさは空気を完全には和らげない。むしろ、イサミ自身の焦りを包み隠すための防御のようにも見えた。


 イサミが語る、このゲラは週刊リング王の編集長・南場が藤沢の元に持って売り込みに来たという。


 名前を口にした瞬間、場の空気が再び重く沈む。


「ふざけるな!……」


 斎藤の押し殺すような低い声が、部屋を満たした。その声は、怒号ではなく“刃”だった。空気の層を切り裂くように低く、確かに響き、誰も動けなかった。


 斎藤の押し殺すようなドスの効いた声が、再び部屋を満たす。低く響いたその音は、壁に当たって鈍く反響し、まるで部屋の空気そのものを震わせているようだった。


 イサミの肩がわずかに強張り、誰もが息をひそめる。


 如月は斎藤の怒りを表すその言葉に、何か因縁めいたものを感じていた。


 ただの怒りではない――長年積み重ねてきた確執のような、言葉にできぬ深い闇があった。


 それは、斎藤の表情に浮かぶわずかな陰りや、指先の震えが何よりも雄弁に物語っていた。


 そして、イサミも斎藤に言い返すように続けた。


「ウチかて、ごっつ頭きてんねんで、あの落ち武者のやり方に」


 その声には怒気と悔しさが混じり、芯の強さがにじむ。語尾を荒げながらも、どこか清々しさを含んでいて、イサミという人間の真っ直ぐさがそのまま滲み出ていた。


 頭頂部が薄く、落ち武者のような風体の南場を指す言葉に、イサミの怒りは露わになっていく。


 手のひらをぎゅっと握り締め、肩で息をしている。それは一時の感情ではなく、長く抑え込んできた不満が弾けたような怒りだった。


 現場の立場も考えずに、卑怯なやり方は許せない。やるなら正々堂々と相手を叩きのめす。それがイサミの信条でもあった。


 その一心で、KDPの社長室からゲラを盗み出し、ここまで来たという。その行動力の裏にあるのは、単なる反発ではなく“義”の感情。彼女なりの正義感が、無鉄砲さと共に燃えていた。


「まぁ、敵情視察ってわけでもないけど、気になる選手もおるから挨拶もかねてやけどね」


 声のトーンがふっと軽くなり、さっきまでの怒気が嘘のように消える。イサミは腕を組み、顎を少し上げて、余裕を装うように立ち位置を変えた。


 まるで嵐のあとに一瞬だけ射す光のように、空気が少しだけ柔らかくなる。


 そのまま室内を見渡していたイサミの視線が、ふと如月の方で止まる。目が合うと、ニカっと笑った。


 その笑みは挑発ではない。リングで偶然出会った者同士の「通じ合うもの」を感じさせる笑みだった。


 如月は無言のまま、その笑顔の奥にある熱と純粋さを読み取り――ほんの一瞬だけ、口角をわずかに上げた。


 如月はそれ以上アクションを起こすことなく、そのまま静かに様子を見ていたが、いつの間にか隣にいた本田がイサミに質問をした。


 空気が少し落ち着いたのを見計らってのことだった。本田は背筋を伸ばしたまま、わずかに顎を引いてイサミを見る。


 声はいつも通りだが、感情を抑えた冷静なトーン。


 だが、その目の奥には探るような光が宿っていた。


「あなた、……藤沢社長に何も言わずにここへ来たのですか?」


 イサミは首を縦に振った。その動作は意外なほど素直で、ためらいがない。


 まるで「後悔など一切ない」と言わんばかりの清々しさすら感じさせた。


 部屋にいる一部の者たちは思った――まるでカナレのようだ、と。理屈よりも行動を選ぶ性分。思い立ったら即、動く。


 その無鉄砲さと誠実さは、まるで鏡を見ているようにカナレを思わせた。


「この記事、ヒロミちゃんや成田のおっちゃんも、わからんところで動いてたんやろな……」


 イサミの証言を聞いて、なぜか本田の顔に安堵の色が浮かぶのを如月は見逃さなかった。


 照明の下で、本田の表情がほんの一瞬だけ緩む。その変化は小さな波紋のように儚く、すぐに消えたが――確かにそこに「ほっとした」気配があった。


 如月はその微細な揺らぎを見逃さず、心の中で静かに観察する。


 ――この人もまた、何かを抱えている。


 そう感じさせる一瞬の沈黙が、再び部屋に落ちた。エアコンの低い唸りだけが、遠くで鳴っている。


 本田は如月の視線に気づくと、すぐにいつものポーカーフェイスに戻る。さっきまで浮かんでいた安堵の色は、まるで幻だったかのように掻き消えた。


 その切り替えの速さに、如月はわずかに眉を上げたが、言葉には出さなかった。


 今度は、皇がイサミに質問をした。声は落ち着いてはいたが、どこか不安げなトーンでもあった。


「イサミ……あの時は聞けなかったけど、今回の件、西園寺家との関係はあるのかい?」


 その問いに、イサミは頭を左右に揺らすように――否定とも肯定ともつかぬ曖昧な仕草を見せた。


 口を開く前に、一度だけ小さく息を吸い込む。その仕草に、言葉を選ぼうとする慎重さが滲んでいた。


「わからへん……。ただ言えるのは、リング王だけでここまでの段取りができるとは思えへん……」


 申し訳なさそうな顔で答えるイサミを見て、皇はいつもの優しい顔でうなずくだけで、それ以上は何も言わなかった。


 そのうなずきには責める色がなく、むしろ「それで十分だ」という穏やかな受け入れがあった。


 その静けさが、先ほどまでの緊張をようやく溶かしていく。


「そう言うわけやから、先手打っておけば、リング王も下手できんやろ。ヒロミちゃんかて無茶する人やけど、えげつないことはせーへんよ」


 イサミは少し肩を回しながらそう言い終えると、出口の方まで歩いて行き、皆に向かって言葉を残した。


 歩くたびに、床の上でブーツの底が柔らかく音を立てる。その背中には、ひとつのけじめのようなものが見えた。


「ほな、ウチ帰るわな。あんまり癇癪起こさん方がええと思うで」


 ――そちらから動けば確実にリング王に足をすくわれる。


 そんな意味を込めた言葉に、皇と本田は小さくうなずいた。その短い仕草だけで、全員の意図が通じ合っていた。


 如月は、無鉄砲でカナレ並の行動力を持ちながらも、どこか用意周到で策士的な一面もあるとイサミを評価した。


 そのアンバランスさこそが、彼女の強さの源なのかもしれない――と。


 去っていくイサミの背を見送りながら、如月の胸にそんな思いが浮かんでいた。


 そしてイサミは体をくるりと如月の方に向けて、楽しそうに語りかけた。


「あんた、ごっつ強いな!技とか力だけやのーて、なんや余裕があるっていうか、まるで超ベテランみたいな怖い雰囲気や」


 その言葉に如月は直感した。


 ――この子も、ずば抜けた観察眼と底知れぬ力を持っている、と。


 そしてイサミは「ほな!」と言って部屋を出て行ったが、廊下で再度向きを変え、カナレに向かって叫んだ。


「おい!そこの金髪ツインテール!お前は余計なことすなよ!」


 その声は、勢いよく室内に跳ね返った。あまりに自然な口調で投げられたため、誰もが一瞬きょとんとする。


 カナレは顔を真っ赤にし、イサミの方へ詰め寄るように歩いて行くが、途中で斎藤に抑え込まれた。


 肩を押さえつけられたまま、全身から熱が噴き上がるように怒りが伝わってくる。こめかみに青筋を立てたカナレの声が、部屋の中に響いた。


「うるせー!このチビタンク!金髪はお互い様だろうが!それに私のは地毛だぞ!文句あっか!」


 イサミは即座に言い返す。


 その声には、関西人特有の“間”があり、まるで舞台のツッコミのように冴えわたっていた。


「誰がチビタンクじゃ!ウチも地毛じゃボケェ!ほなな!」


 そう言うと、イサミはその場を後にした。


 扉の外に出る瞬間、彼女のブーツの底が床を軽く鳴らし、残り香のように明るい空気を部屋に残していく。


「あいつ!言いたいことだけ言って帰っていきやがった!」


 カナレの叫びが、閉まるドアの向こうに吸い込まれていく。部屋の中にいた誰もが、その温度差に思わず息をついた。緊張が切れたあとに訪れる、妙な静けさと脱力感。


 試合を終えるたびに、何か大ごとが起こる。そんな予感を胸に、夜は静かに過ぎていった。


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