第60話:皇
――森盧。
森盧とは、原初の時から開墾されることのない、静謐なる手つかずの森。
人の手を拒み続けたその大地は、朝霧の奥に沈むように息づき、時に囁くような風の音だけが、遠い記憶を揺らす。
ギフトの力を司る三女神――。
その神性が最初に芽吹いた場所と伝えられている。
森の奥深く、陽の光さえ届かぬ場所に、三女神の偶像ともいわれる三枚の絵が、光磨殿と呼ばれる社に安置されている。
森盧にしか芽生えることがない烏兎杉を用い、その木肌を削り、祈りを込めて板絵を描く。
それこそが、西園寺家が代々受け継いできた神職としての宿命であり、誇りでもあった。
二十年に一度、三女神が描かれたその絵は新たに塗り替えられる。古き加護を封じ、新しき意志を迎える――再生の儀。
その瞬間、森盧の空気はざわめき、古の風が再び目覚めるといわれている。
そして防人はその絵から流れ出る神託を聞き入れるために存在すると。
――皇は淡々と物語る。
その声はどこか静かで、まるで長い夢の記憶を誰かに語り聞かせているかのようだった。
淡い灯りに照らされた横顔は、柔らかくも遠く、どこか現実の輪郭を離れている。
その瞳の奥には、誰にも触れられない古い想いの湖が揺れていた。
如月は、自分のいた世界には存在しない風習に戸惑いながらも、言葉を挟まずに耳を傾けていた。
この異世界の空気が持つ湿り気と静謐さ――。
それが、如月の知らない“信仰”というものの重みを感じさせていた。
ただ、ほんの少しだけ安堵もあった。依り代としての役目が、神託を伝えるための代行にすぎないのだと理解できたから。
やがて、皇はゆっくりと息を整え、今度は自分の母親のことを語り始めた。
母親の名前は――皇。
防人という特殊な位にあったため、氏名を持たず字名で呼ばれていた。そして、彼女は自分を生んですぐに亡くなったと娘である皇翼が語った。
その言葉は淡々としていたが、語りの奥にかすかな震えがあった。抑え込もうとする静けさの中に、確かに“喪失”の輪郭が浮かび上がっている。
記憶の中に母の姿はない。
それでも――父はその名を受け継ぐように、姓を「皇」と改め、画家として生計を立てていたという。
貧しさに包まれた暮らしの中で、父の絵筆だけが家の灯のように揺れていた。
皇は小さく微笑んだ。
その笑みはどこか幼い日の温もりを思い出すようで、淡い寂しさを含んでいた。
「貧しかったけど、お父様は優しくて……毎日が幸せだったよ……」
語り終えたその瞬間、彼女の声はふっと小さくなり、空気に溶けた。それは、過去を語るというより、胸の奥に残る光をそっと撫でているようだった。
そんな話を聞いて、カナレの目にはうっすらと涙がたまっていた。大粒になりかけた涙が頬を伝う前に、彼女はぐっと唇を噛みしめる。
隣で見ていたSAKEBIは、ため息まじりに肩をすくめ、「しょうがないな」という顔でポケットから自分のハンカチを差し出した。
カナレは遠慮もなくそれを受け取り、勢いよく――ブッと鼻をかんだ。
静まり返っていた部屋に、その音がやけに響く。
「汚いッス!」
顔をしかめて文句を言うSAKEBI。すると、島村と望月が同時に振り返り、「シーッ!」と声をそろえて指を立てた。
その空気に、しばしの沈黙が落ちた。
だが次の瞬間、堪えきれずに皇の口元がゆるみ、如月も思わず小さく笑みをこぼす。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
だが、笑いの余韻が消えるより早く――皇の声が、静かに次の話題を呼び戻した。
今度は、贋作の話だった。
皇の父、輝彦は二十年前、一度だけ三女神の一柱――月読津姫を描いた。
その筆先から生まれた女神の面差しは、奇しくも皇の母親にそっくりだったという。
意図して描いたわけではなかった。
だが、光磨殿で暮らす母の姿を目にするたび、心が少しずつ惹かれていったのかもしれない――と。
輝彦はかつて、何かの時に娘へ語ったことがあるという。
そして、ある夜。輝彦は誰にも告げずに再び光磨殿へ忍び込み、月読津姫が描かれた板絵を盗み出した。自らの手で描いた贋作を、その場所に――そっとすり替える形で。
その行為は、神をも欺く禁忌であったが、彼はその衝動を抑えることができなかった。奪ったのは絵ではなく、ただ“失われた面影”だったのだから。
如月は、その行為の先に、ただの盗みではない何かがあるのではないかと感じた。
輝彦が神の領域に手を伸ばした理由――そこに、絵描きとしての欲望以上の“願い”を嗅ぎ取ったのだ。
「なんでそんなことしてまで、その板絵を?」
問いかける如月の声は、わずかに低かった。その響きに、皇は一瞬だけ視線を落とし、そして静かに口を開いた。
「……私のためだったんだ。母親の顔を知らない私の為に……」
その言葉は、淡々としているのに不思議と温かかった。過去を悔いるでもなく、ただ事実を見つめているような声。
幼い頃の皇は、父とつつましい暮らしを送りながらも、毎日を穏やかに過ごしていたという。
粗末な灯りのもと、絵の具の匂いに包まれた小さな部屋。父はいつも笑っていたが、夜になると――夢の中で、亡き母の名を呼ぶ声を漏らしていた。
その時初めて皇は父の葛藤を悟ったのだ。
あの夜、父が光磨殿から板絵を盗み出したのは、自分のためであり、同時に――愛した人をもう一度自分のそばに置きたかったからだと。
「本当はお母様に似ている板絵を欲していたのはお父様の方だったかもしれない……」
皇の顔は笑顔で言っているが、どこか寂しげだった。
その微笑みは、思い出を語るというより、遠い過去へ置き去りにした感情をそっと撫でているようでもあった。
だが、話はそこで終わらなかった。
「――結局、ばれてしまってね。本業の絵の仕事も、全部なくなってしまったんだよ」
その声には、かすかな苦笑が混じっていた。
しかし次の瞬間、その笑みはすっと消え、空気がひりつくように変わった。
皇は怒りをあらわにした。今まで誰も見たことのない、まさに怨念という形相。瞳が光を宿し、低く震える声が胸の奥を叩いた。
「その“贋作画家”として父を貶めたのが――リング王の編集長、南場だ!」
その名が発せられた瞬間、室内の空気が一段と重く沈む。如月たちは息を飲み、誰も言葉を挟めなかった。
皇の拳が、知らぬ間に膝の上で強く握られている。怒りというより、燃え残った悔恨の炎。それが今ようやく形を持って現れたかのようだった。
当時、南場はしがないフリーのライターで、食い詰めながらネタを漁っていたという。人の不幸を嗅ぎつけては記事にする――そんな薄汚れた仕事ぶりだったらしい。
「ドブネズミのような男だ!」
声を荒げたのは斎藤だった。鋭いその言葉に、誰も反論しなかった。
ただ、重く沈んだ空気の中で、皇の怒りだけが静かに燃え続けていた。
(……こっちも、なんかあるみたいだな……)
如月は胸の中でつぶやきながら、皇の話に耳を傾けていた。彼女の語り口には、怒りに満ちている。
だが同時に、どこか――“抜け落ちている何か”の気配も感じ取っていた。
やがて、皇の言葉は静かに終わりを迎える。皇の父・輝彦は、世の中から“贋作画家”として糾弾され、心を砕かれた。筆を取ることも叶わぬまま、失意の中で自ら命を落としたという。
皇は、少しの間、口を閉ざした。
その沈黙は、懺悔のようでもあった。やがて、低く息を吐くように呟く。
「――これが、父“皇輝彦”のすべてだよ……」
その声には怒りはなかった。
ただ、長い年月の果てに感情の形を失った“空白”だけが残っていた。皇は皆の視線を避けるように、ゆっくりと背を向ける。その背中は、どこか痛々しいほど静かだった。
如月は、わずかに目を細めた。沈黙の中に残るのは、語られなかった“意図”――。
彼女は小さく息を吐き、低い声で言った。
「なるほど……それで今度は、翼さんをネタに、うちの団体を脅しにきてるわけか」
その声音は冷ややかだった。同情ではない。ただ、状況を正確に射抜くような分析の響きがあった。
沈黙を切り裂くように、皇が振り返り言った。
「――KDP後ろには、おそらく西園寺家が絡んでると思う……」
その名を口にする時、皇の声はわずかに低く沈んだ。如月たちの視線が自然と皇に集まる。
KDPと西園寺家――。
関西に身を置く両者。交わるはずのなかった2つの勢力が、自分を西園寺家へと戻すために手を組んだのだと、皇は静かに語った。その語り口に、確信にも似た重みがある。
張りつめた空気の中で、カナレがぽつりと口を開いた。
「……そうか!皇さんは関西人だったんだ!」
その瞬間、 場違いの言葉に場の温度が一拍ずれる。誰もが一瞬、何を言われたのかわからず固まった。
「あんたは黙ってなさい!」
すかさず、望月とSAKEBIが息ぴったりにカナレの口を押さえ込む。カナレはもごもごした声で抗議しながら、じたばたと身をよじった。
重かった空気に、皇の顔に笑いがこぼれた。
だがその裏では、如月の視線が鋭く皇を見つめていた。西園寺――その名が、確実に新たな渦を呼び起こそうとしていた。
「西園寺家は、お父様しか子供はいなかったから、――娘の私を当主に据えたいんだろうね」
その口調は淡々としていたが、どこか遠くを見ているようでもあった。血と名が持つ重さを、彼女はよく知っているのだろう。
如月は静かに息を吸い、短く問う。
「で、向こうが出した条件は?」
本田が皇の代わりに答えた。その声は落ち着いていたが、どこか冷ややかな温度を帯びている。
「――皇翼の、Queen Bee脱退と……KDPへの移籍」
如月の眉がわずかに動く。本田は続けて、ポケットの中からもう一枚のゲラを取り出し、無言で如月に手渡した。
紙の端がかすかに震える。そこには、大きな見出しが踊っていた。
『皇翼KDP電撃移籍!久遠寺カヲルとのタッグが有力か!?』
その見出しの下に並ぶ文字列を、如月は黙って目で追った。
本田は、淡々としたまま言葉を継ぐ。
「次回の奉納タッグトーナメント――その“演出”のつもりなんでしょうね……」
その声音には怒りはなかった。むしろ、何年もこの世界を見てきた者だけが知る、静かな諦念があった。
部屋の空気がひときわ重く沈み、誰もが次の言葉を探せずにいた。
そして本田が言い終わったと同時に、斎藤が声を荒げて言った。
「KDPの……あの女狐の仕業だ!」
そう言って斎藤は、如月が持っていたすべてのゲラ原稿を無造作に奪い取った。紙が宙を舞い、破り裂かれる音が乾いた空気を裂く。その音が、妙に長く耳に残った。
誰も止めることができなかった。斎藤の顔は紅潮し、噛み締めた奥歯が軋むほどに強く結ばれている。怒りというより、積もり積もった無力感が爆ぜたようだった。
如月は、散らばる紙片を一瞥したあと、ゆっくりと状況を整理するように息を吐いた。冷静だった。混乱の中でも、頭のどこかでは筋道を立てて考えている。
「……で、翼さんは一人でカチコミをかけるつもりだったのかい?KDP――久遠寺カヲル相手に?」
その問いは淡々としていたが、芯に鋼のような重みがあった。如月の眼差しが皇をまっすぐに射抜く。如月にはもう、答えの形がおおよそ見えていた。
皇の沈黙が、何よりも雄弁だった。その間に、如月の中で1つの構図が確信へと変わる。
『私は絶対に出ます!』
――廊下まで聞こえてきた皇の声、如月の予想、それは……。
皇は、Queen Beeを脱退し、KDPへ移籍する。その先で、久遠寺カヲルとの一騎打ちを仕掛けるつもりだと。
予想は、的中していた。
皇は静かに言った。声は穏やかだが、その奥に燃えるものがあった。
「Queen Beeを守るには、それしかない。KDPのメインイベンターを叩き潰せば、あの連中……リング王も、黙らざるを得なくなる……。それが、私にできる――唯一の方法」
言葉の最後に、微かな息が混じった。怒りではなく、決意の吐息。部屋の空気が再び重く沈み、誰も軽々しく言葉を継げなかった。
部屋に重苦しい沈黙が垂れこめる。誰もがその空気の重さに息を殺していた。
その静寂を破ったのは、カナレだった。
「うおぉぉ!KDP許すまじ!」
カナレの声が、ぎゅっと閉ざされた室内に炸裂する。拳に力を込めたカナレの腕から、無意識にギフト《剛腕》が噴き出した。筋肉が隆起し、血管が浮き上がる。短い袖の布地が張りつめ、腕全体がまるで鎧のように膨らんだ。
「何するつもりッスか!?」
SAKEBIが飛びつくようにカナレを取り押さえ、問いただす。彼女の声には慌てと焦りが滲んでいる。
だがカナレは、怒りに火がついたように声を荒げて反発した。
「そんなこと決まってるだろ! 私がKDPに乗り込んで全員血祭りにあげてやる!」
言葉と同時に、カナレはSAKEBIを振り払い控室の扉へ向かって体を動かした。足取りは震え、眉間には獰猛な熱が宿る。ドアノブに手をかけたその瞬間、周囲の視線が一斉に注がれ、空気がさらに張りつめた。
「何を考えている!お前は!」
斎藤がカナレの腰を固くロックして止めようとするが、怒りに燃えた剛腕カナレを押しとどめるには力及ばず、そのままズルズルと後ろへ引きずられていく。床に擦れる布の音、金具の小さなきしみが、居合わせた者たちの耳に無作法に届いた。
「斎藤さん! 止めないでくれ! 私がやらなくちゃいけないんだ!」
カナレの声は震えていた。怒りと焦燥が混ざり合い、言葉の端々が震える。
それを聞いた周囲の者たちは、呆れたように目を細め、眉をしかめる者、表情を変えずただ傍観する者、それぞれに反応を示した。
カナレは、もがきながらもなお扉へ向かって体を捻じり、控室のドアノブに手を伸ばした。勢いよく開け放とうとしたその瞬間、廊下の暗がりから人影が現れた。
「アホか、お前」
その一言は、室内の空気を一瞬で変えた。
声の主は祐天寺イサミだった。声には諭しではなく、どこか呆れと困惑が混じっている。
だが同時に、その声には静かな威圧がこもっていた。
ただ一言で、室内の空気が一瞬にして凍りつく。
イサミはゆっくりと歩み寄ると、怒り狂うカナレの力をものともせず、その腰をがっしりと抱え込んだ。
斎藤が必死にしがみついているにもかかわらず、彼女は二人をまとめて――まるで子どもをあやすように――軽々と持ち上げた。
床がわずかに軋む音がした。その小柄で華奢な身体からは想像もつかない力強さ。
イサミの動きには、無駄な力はない。まるで重さという概念そのものを拒絶するように、しなやかで、静かな動作だった。
彼女は部屋の中央まで歩み、二人をそっと床に下ろした。カナレの足が床を踏んだ瞬間、ようやく現実に引き戻されたように動きを止める。
島村や望月、そしてSAKEBIは、その光景をただ呆然と見つめていた。誰も言葉を発せず、目の前で起きたことを理解しきれない様子だった。本田以外は。
如月もまた、息をのむ。
その眼差しは、イサミの華奢な肩越しに見える筋の通った背筋をとらえたまま動かない。
――あの体のどこに、これほどの力が潜んでいるのか。普段から冷静なはずの如月でさえ、思わず戦慄を覚えるほどだった。




