第59話:防人
カナレを先頭に、如月と望月は廊下を走って控室に向かっていた。
会場の熱気がまだ背中にまとわりつく。アリーナから少し離れたこの通路は、コンクリートの床に薄く汗の匂いとスポットライトの残り香が漂っている。
『なんか面倒なことになってきたぞ!』
先ほどのカナレの言葉が、頭の中で反響する。
如月は、眉をわずかにひそめながら憂鬱な表情で黙々と走っていた。靴底が床を叩くたび、乾いた音が長い廊下に連なっていく。
しかし、如月にはもう1つ気になることがあった。
それは――望月の如月に対する接し方の変化だった。
先ほど、控室へ向かおうとした時も、望月は如月に対して、まるで職場で上司に報告する時のように背筋を伸ばし、軽く顎を引いて言った。
「では、まいりましょう!」
その口調には、礼儀正しさと緊張が同居していた。どこか張り詰めた空気を纏うその言葉に、如月は思わず眉をひそめた。
まるで目上に話すような丁寧な口調だった。その様子にカナレも、不思議そうに眉を寄せていた。
走りながらちらりと望月を見たが、彼女は真面目な顔のまま、一定のリズムで足を運んでいる。
(この調子で控室に戻ったら……たまったものじゃないな……)
如月は小さく息を吐き、走る足を少しだけ緩めた。
照明の白い光が廊下に反射し、三人の影が伸びたり縮んだりする。その中で、如月はたしなめるように声をかけた。
「望月……」
「はいっ!」
返事がやけに明るく、そして真っ直ぐだった。
まるで憧れの先輩に敬意を示す後輩のような口調に、如月は思わず閉口する。
それはどこか可愛げがあるが、同時に息苦しさすら感じるほどの“距離”だった。
如月は軽く肩をすくめて、たしなめるように言った。
「敬語はやめてくれ……」
「しかし……」
望月は一瞬、口をつぐむ。
そのまっすぐな視線には、如月という存在への畏れと、触れてはならない神聖さが滲んでいる。
望月は、まるで神前に立つ巫女のように姿勢を正し、神聖な如月の存在に平伏しながら、敬意をもって接していることをどこか誇らしく感じているようだった。
そのため、「敬語をやめろ」という言葉に、素直に従えない。
唇をわずかに開きかけては閉じ、視線を泳がせる。彼女の中で、信仰と親愛の線引きがまだ曖昧なままだった。
そんな望月の様子に、如月は小さく肩をすくめる。あまりにも真面目すぎる反応が、逆におかしく思えてしまった。
だから、少し空気を和ませようと、冗談めかした声で言う。
「女神様の命令!」
唐突な一言に、望月は思わず目を瞬かせた。
そして、ほんの一拍置いて――頬を赤らめながら、困ったように口を動かす。
「わかりま……わかった……」
その瞬間、望月の声から硬さが抜けた。
敬語を途中で切り替えた望月の反応を見て、如月は満足げにうんうんとうなずいた。
その様子を横で見ていたカナレは、首をかしげながら不思議そうな顔をしている。
「なにごと……」とでも言いたげに、唇をわずかに尖らせていた。
だが結局、何も言わずに肩をすくめ、そのまま歩調を合わせる。
やがて三人は、薄暗い廊下の奥に並ぶ控室のドアの前にたどり着いた。空調の風が止み、わずかな静寂が訪れる。
如月がドアノブに手をかけたその瞬間――。
ドアの向こうから、誰かの声が飛び込んできた。
最初はぼんやりとした怒鳴り声のように聞こえたが、次の瞬間には、はっきりとした言葉が廊下に響き渡った。
「私は絶対に出ます!」
「何度言えばわかる!お前ひとりの行動が団体の根本を揺るがすことになるのがわからないのか!」
怒声が空気を震わせ、金属製のドアがわずかに共鳴した。控室の奥で、誰かが机を叩いたような鈍い音が重なる。
――皇と斎藤の声だった。
如月たちは顔を見合わせる。普段冷静な皇と斎藤の声を聞き取った瞬間、空気が一段冷えたように感じた。
如月の胸の奥に、微かなざわめきが走る。
二人が言い争いになっている。
その声はまだドア越しにも熱を帯びていて、まるで空気ごと震わせるようだった。
そんな珍しい状況を想像しながら、如月は「めずらしいな……」と小さく呟き、ドアノブを静かにひねった。
ギィ……と金属が擦れる音とともに、控室の中のざわめきが一気に流れ込んでくる。
控室には、皇と斎藤のほかに本田、そして最初から部屋にいたSAKEBIと島村の姿があった。
部屋の空気は張り詰めており、誰もが息をひそめて二人の口論を見守っている。
皇は険しい表情で立ち、斎藤は拳を握って今にも何か言い返しそうだ。
その一方で、SAKEBIと島村は慌てふためきながらも、ただ事の成り行きを傍観するしかない様子だった。
空気の温度が、数度だけ下がったように感じられる。
「どうしたの?」
如月のそっけない一言が、空気を切った。
それだけで、誰もが一瞬動きを止める。
如月は足音を立てずに二人の間へ歩み寄り、そのまま落ち着いた口調で問いかけた。
「何があったんですか?そんなに興奮して?」
その言葉に、皇と斎藤はばつの悪そうな顔で互いを見つめ、少しだけ距離を取って後ろへ下がった。
ほんの些細な意地の張り合い――。
しかし、その奥には、簡単には譲れない想いが潜んでいるようだった。
静まり返った室内に、空調の低い唸りだけが響く。その音さえも、場の重苦しさを際立たせる背景音のようだった。
誰も口を開かず、視線だけが複雑に交錯している。
如月はゆっくりと視線を巡らせながら、二人の間にまだ漂う火花の残滓を感じ取っていた。
怒りの熱は鎮まりつつあるが、空気はまだ焦げつくように重い。
その微妙な緊張の中――沈黙を破ったのは、本田だった。
「これが原因……」
その声は、いつもの固い調子ではなかった。柔らかく、けれど慎重に選ばれた言葉。
如月もなんとなく状況を察し、胸の内でつぶやく。
(……かなり面倒な要件みたいだな……)
本田が手にしていたのは、一枚の用紙だった。端が少し折れ、レーザープリンタで出力したものだった。
本田はそれをそっと如月に手渡す。紙が指先から離れるわずかな音が、やけに大きく聞こえる。
如月は受け取ると、黙って全体をざっと目を通した。印字の黒が目に焼き付き、行間に漂う“悪意”の匂いをすぐに感じ取る。
それは――週刊《リング王》の校了前のゲラ。
校印の代わりに修正印が押された原稿で、赤字や修正指示の跡がいくつも走っている。
如月が視線を落とすと、そこに踊っていた見出しが目に飛び込んできた。
――スクープ! 女王蜂の真実!
見出しの文字は大きく太く、まるで叫び声のように黒々と紙面を汚している。
嫌な胸騒ぎが広がる中、如月の目は次の一文に引き寄せられた。
Queen Bee所属の選手であり、同団体の大会《Queen’s Crown》の覇者・皇翼の父は、あの贋作画家・西園寺輝彦だった――。
記事全体は長々と続いていたが、如月が理解したのはただ一つの事実だった。
――皇は、はめられた。
悪意の輪郭が、紙面の中にあった。誰かが意図的に仕掛けた“罠”の匂い。
その構造を見抜いた瞬間、如月の中の英二が静かに息を吐いた。
「それで、《リング王》はこのネタでうちに脅しをかけてきてるわけ?」
如月の声は落ち着いていたが、その奥に冷たい棘が潜んでいた。
脳裏に、IWA時代の記憶がよみがえる。
――“この写真をばらされたくなければ金をよこせ”、“この情報をリークされたくなければ八百長を飲め”。
あの頃もいた。
真実ではなく“金になる物語”を売り歩く、飢えた二流記者たち。
カメラの影から覗く目、安い笑み、酒の匂い――どれも吐き気がするほど同じだった。
大抵は、食い詰めたフリーの三流記者が仕掛ける下衆な搦め手。如月には、そうした輩の対処法の心得があった。
怒りではなく、むしろ淡々とした実務的な冷静さが彼の表情に浮かぶ。
“脅し”など、もう何度も見てきた。
そして、そのどれもが――潰すに値しない雑音だった。
如月は本田に淡々と言った。
「別段、無視を決め込めばいいんじゃない?翼さんの親父さんのことなんて、別に気にすることもないでしょ?」
その言葉が落ちた瞬間、空気が音を立てて変わった。
誰もが一瞬息を止め、室内の温度が数度下がったように感じられる。
軽く放った如月の一言が、見えない地雷を踏んだのだと直感したのは、ほんの数秒後だった。
カナレが珍しく、鋭い声で如月をたしなめた。
「何言ってるんだ如月っち!忘れたのか、あの事件!」
怒鳴るというより、驚愕と焦りの入り混じった声。
その表情には、如月の想像もつかない“痛み”が滲んでいた。
だが、その次の瞬間――。
「何を大きな声で言ってるッスか!」
SAKEBIが慌ててカナレの口をふさぎ、勢いのまま半ば強引に隅へ引きずっていった。
椅子が小さく軋み、紙コップが机から転がり落ちる。それほど、誰もが“その話題”に触れることを恐れていた。
如月は、何が起きているのか理解できずに立ち尽くす。目の前の沈黙が重たくのしかかり、誰も視線を合わせようとしない。
如月の胸の奥で、緊張だけが静かに膨らんでいった。
そして――沈黙を破ったのは、皇だった。
その声は静かで、落ち着いていて、けれど何かを決壊させるような深みがあった。
その一言が放たれた瞬間、室内の空気がわずかに震えた。
「如月は知らないのかい?私の父親が“防人”と恋仲になって禁忌を犯したことを……」
“防人”という言葉に、如月は眉をひそめた。
聞き慣れない響きが耳に残る。まるで古代語のような重みを持つその音に、思考が一瞬だけ止まった。
近くにいた望月が、そっと小声で補足する。
その声は囁くように柔らかく、しかしどこか張り詰めていた。
「……“防人”っていうのは、森盧の中にある光磨殿に仕える、特別な舞巫女の総称」
その言葉が落ちるたび、空気が少しずつ冷たく沈んでいく。
望月は視線を伏せ、まるで聖域の話を口にすること自体、ためらいを覚えているかのようだった。
それでも彼女は、如月に理解させようとするように続けた。
「森盧っていうのは、ほら、斎藤コーチが前に言ってた“三女神の恩恵を受けて育った神木”がある場所のこと……。」
防人は外界と一切の接触を断ち、巫女としての力をもって降臨した三女神の依り代となるためだけに生涯を捧げる。
その生き方には、俗世の欲や自由もない。
ただ、神と一体となるための“器”として存在する――。
それが、防人という存在の本質だった。
静かに語る望月の声に、誰も口を挟まなかった。その説明の1つ1つが、現実から半歩ずつ遠ざかっていくように感じられる。
如月は黙ってその言葉を聞いていた。
だが、聞けば聞くほど胸の奥に重苦しいものが積もっていく。それを押し出すように、如月は低く息を吐いた。
「なんだよ!俺の依り代になるってのは、その巫女さんのことなのか?それって人身御供じゃねえか!」
怒声が部屋の空気を一瞬で切り裂いた。
如月の瞳には、怒りと困惑が混ざり合い、抑えていた感情が一気に噴き出す。
拳が震え、呼吸が荒くなる。
その声には、単なる反発ではなく――“生身の人間としての拒絶”があった。
その瞬間、如月は初めて、自分の“依り代”が特別な存在――それも血の通った人間の女性であると知り、怒りをあらわにした。
神聖な概念として聞いていた“依り代”が、急に現実の痛みを持って迫ってきたのだ。
だが望月は、慌てて如月をなだめる。
その動きは反射的で、まるで爆発する火花を素手で押さえつけようとするかのようだった。
「待って!そうじゃないんだよ!後でちゃんと説明するから、今は落ち着いて!」
声は震えていた。
望月の瞳に浮かぶのは焦りと、そして――どこか罪悪感に似た影。彼女自身も、どこまで真実を伝えていいのか迷っているようだった。
怒りを抑えきれずにいた如月だったが、望月の必死の声に、唇をかみしめながらも沈黙した。
肩が上下し、荒い息だけが静まり返った室内に響く。少し遅れて、彼は視線を逸らした。拳を握ったまま、何かを飲み込むようにして。
二人のやり取りを見守る面々。誰も口を開けず、空気が重く沈む。
その中で、本田だけは神妙な面持ちで二人を見つめていた。彼女の瞳には、まるで“この瞬間を知っていた”かのような深い憂いが宿っていた。
――何とも言えない空気が控室を支配する。
音という音が消え、わずかな衣擦れさえも重たく響く。
そんな中、皇の静かな声が響いた。
「もういいかい?」
その声は、水面に一滴の雫を落とすように静かで――けれど、その場の全員を現実へ引き戻す力があった。怒りや困惑も、その声の前ではただの波紋のように静まり返る。
その声に、如月と望月ははっと我に返り、皇へと視線を向けた。皇は背筋を伸ばし、ゆっくりと呼吸を整える。
その仕草には、これから語る言葉に対する覚悟と、慎重さが宿っていた。
皇は一呼吸おいてから、静かに語り始めた。
二十年以上前――。
防人だったひとりの女性と恋仲になった輝彦は、掟を破った。
防人にとって純潔を守るのは一生の定めであり、男女の交わりは固く禁じられていた。
それは神に仕える者としての絶対の掟。けれど、輝彦はその禁を破り、彼女を光磨殿から連れ出して逃げたのだ。
その逃避行は、決して祝福されるものではなかった。追手をかわし、夜の森を越え、二人は全てを捨てて生きた――。
愛ゆえに掟を裏切り、掟ゆえに居場所を失った。淡々とした口調なのに、言葉の全てが胸の奥に沈み込んでいく。
それは懺悔でも、告発でもない。まるで誰にも届かない祈りを、ただ静かに紡いでいるようだった。
皇は小さく息を吐き、そして言葉を続けた。
「――そして、生まれたのが私」
その一言で、空気が完全に止まった。誰もが息をするのを忘れたかのように動かない。長年封じられてきた真実が、ようやく外の光に触れた瞬間だった。
皇の告白に、全員が絶句した。
それは単なる驚きではない――“触れてはいけない過去”に触れてしまった者たちの沈黙。
誰もが初めて聞く真実に言葉を失い、ただその場で立ち尽くすしかなかった。
斎藤と本田は、表情こそ変えなかったが、どこか悲しげな色がその瞳に宿っていた。
それは理解と痛みの入り混じった光――長年この世界の理を知る者の、静かな諦念だった。
――隠された真実が、夜の闇に静かに溶けていく。
その余韻だけが、誰の言葉よりも雄弁に、部屋の中を満たしていた。




