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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第57話:余韻の果てに見えたもの

 試合終了直後、アリーナの三階、照明の届きにくい影の中に、ひとりの女性が立っていた。


 黒いジャケットの金の縁が、淡く光を拾っては消える。裾の長い上着が脚の動きに合わせて揺れ、きりりとした輪郭がどこか舞台衣装のように見えた。


 白いシャツの胸元には細かなフリル。けれど、それすらも装飾というよりは、彼女の整った顔立ちにひそむ少年めいた清潔さを際立たせていた。


 短い黒のズボンから伸びる脚は白く、そしてほそかった。影の中でほのかに光を返す。


 足元のブーツは、艶を抑えた革の光を湛えながら、音を立てることなく床を踏んでいた。


 乱れ気味の淡い髪が頬にかかり、照明の残光を吸いながらゆるやかに揺れる。


 それは肩のあたりで軽やかに跳ねるショートカットで、金糸を思わせる色味が暗がりの中でも柔らかくきらめいていた。少しクセのある毛先が、息づくようにふわりと動き、その軽やかさが彼女の静けさをいっそう際立たせている。


 その横顔には静けさが宿り、唇の端にかすかな思案の影がある。


 ただ、影の中でその姿勢を崩さずに、試合の余韻を見つめていた。


 それはまるで、誰にも気づかれぬまま存在する、美しい少年の幻を、現実がひととき借り受けているようだった。


「やあ、イサミ。来てたのかい?」


 その声に反応するように振り向くと、そこには皇が立っていた。


 イサミと呼ばれたこの女性――KDP所属のレスラー、祐天寺イサミ。前回の奉納タッグトーナメントの決勝戦で、皇のタッグを下した一人だ。


 皇は笑みを浮かべながらイサミのところまで歩いてくる。気品を帯びた佇まいから、ただ歩くだけなのに特別なものを感じる。


 その一歩ごとに、控えめな靴の音が床に微かに響き、まるで空気がそれに合わせて呼吸を止めるようだった。


 背筋をまっすぐに伸ばした姿勢、肩の落ち着いた動き――すべてに「王者」の風格が宿っている。


 しかし、イサミの表情は笑顔などではなく、眉間にシワを寄せて皇の動作を観察しているようであり、まるでリングの上で対峙した対戦者同士のような雰囲気だった。


 視線は一切揺らがず、皇の足元から肩の動き、わずかな指先の癖までも見逃すまいという緊張が漂っている。


 その沈黙はわずか数秒のことだったが、観客席の喧噪さえ遠く霞むほどの圧を帯びていた。


「そんなに警戒しなくてもいいよ。こちらは別に来るもの拒まずだよ」


 皇の声は穏やかで、柔らかな笑みを浮かべていたが、その奥には計算された間があった。イサミはその響きを一度受け止めるように視線を伏せ、そしてすぐに皇の瞳を見返した。


 刹那、二人の間の空気が音もなく張りつめる。


 その場に誰かいたなら、息を呑んで身動き1つ取れなかっただろう。


 皇の瞳は夜の水面のように静まり返り、イサミの瞳はその奥底を探るように揺れた。


 互いの呼吸がぶつかる距離で、目に見えぬ火花が散る。言葉を交わすよりも先に、二人の過去と立場が、沈黙の中で語り合っていた。


 ――そして、ほんの一瞬。


 皇の唇にかすかな微笑が戻ると、場の空気がゆるやかにほどけていった。


 皇の言葉に、少し警戒心を解いたのか、イサミは軽くため息をつくと左手を出して言った。


「まいど!皇はん。なかなかエエもん見せてもろたわ!」


 その軽やかな風貌からは想像しがたい、くどい口調に皇も一瞬たじろいだ。


 高貴で洗練された雰囲気の空間に、急に庶民の匂いが流れ込んだような違和感。まるで完璧に調和した舞台に、突如漫才師が乱入してきたかのようだった。


「イサミ……その喋り方、どうにかならないかな?せっかくのビジュアルが台無しになってしまうよ……」


 皇がたしなめるように言うと、イサミは勢いよくまくし立てた。


 その身振りは大きく、声に抑揚があり、まるでリング上で観客にアピールする時のような熱を帯びている。


 もはや言葉というより、彼女自身のリズムだった。


 軽快で、どこか跳ねるような調子。言葉の端々には、舞台袖からでも観客の笑いを引き寄せそうな、天性の間の取り方があった。


「何いってんねん!これがウチらの標準語やで!なんもおかしなことあらへん!」


 イサミの声がアリーナの上層に反響し、照明の届かない天井の奥まで響く。


 その語気には、誇張するでもなく――ただ素で、彼女が生きてきた場所の匂いが滲んでいた。


 皇はその勢いにたじろぎ、思わず目を瞬かせた。穏やかな微笑を保ちながらも、その口元にわずかな苦笑が浮かぶ。


「でも、君は元々関東の人間だろ?」


 皇の声音はやわらかいが、言葉の裏に微かな観察の刃が光る。イサミはふっと視線をそらし、肩をすくめて苦笑いを返した。まるで、その質問が図星であることを認めるかのように。


 イサミは小学四年生のころまで関東で過ごしていたが、父親の仕事の都合で関西へ引っ越した。


 それまでは普通の標準語であったが、いつの間にかナニワの洗礼を受け、現在に至っている。


 標準語の残滓ざんさいはすでに消え、イントネーションの一つひとつが彼女の「武器」のようで自然に馴染んでいた。


「別にウチはこんな格好したないねん。よそ行くときはこれを着ろって、ヒロミちゃんがうるさいねん!」


 イサミは両手を広げ、ジャケットの裾をひらりと翻す。


 その仕草は軽口の延長のようでいて、どこか反抗心をにじませている。


 高価そうな布地が揺れるたび、彼女の口調とのギャップが際立ち、皇の整った表情にごく小さな笑みが浮かんだ。


 まるで、「らしいな」とでも言いたげに。


 しかし、イサミの口から出た“ヒロミ”という名前に、皇の眉がわずかに動いた。


 KDPの経営者であり、女子プロレス界の首領ドン――藤沢寛美。


 その名を聞いた瞬間、皇の瞳の奥に一瞬だけ光が走ったようにも見えた。


 皇には思うところがあるようだったが、特にそんなそぶりを見せることなく、イサミに試合を見た感想を聞く。


 その声は穏やかでありながら、どこか探るような響きを帯びていた。


 ――まるで、相手の呼吸の深さから本音を探るように。


 イサミは少し表情を和らげて言った。先ほどまでの警戒心が、わずかに解けていく。その頬の筋肉が緩む瞬間、少年めいた素の笑みが一瞬だけのぞいた。


「滅茶苦茶おもろかったで。特にあのショートカットの姉ちゃん。完全にチャンピオンと遊んでたな」


 その言葉には、単なる感想ではなく、分析者の確信めいた色が混じっていた。イサミの視線は試合を思い返すように宙を泳ぎ、指先で軽くリズムを刻む。


 その仕草は、頭の中で如月の動きを再生している証のようでもあった。


 イサミは試合を見ていただけで、如月のやっていたことが分かっていたのか、感心している。


 観客としての目線ではなく、同業者としての勘――技と心理の噛み合わせ、間の取り方、視線の使い方。その全てが、イサミの中で図式化されていた。


 ――一人で作り試合を成立させていたことに。


 その真相を、イサミはあえて言葉にせず、薄く笑った。


 「演じる」ではなく「操る」。


 その違いを見抜ける者は、この世界でもそう多くはない。


 しかし、皇はイサミに訂正するような口調で言った。その声音には怒気はなく、ただ確信だけがあった。まっすぐで、曖昧さを一切許さない響き。


「ブックなんかじゃないよ……」


 その一言が空気を一変させた。


 先ほどまで軽く流れていた会話の温度が、ひと呼吸で引き締まる。


 イサミは疑い半分で皇の顔を見ていたが、その真剣なまなざしを見て、理解したのか「……そか。えらい悪いこと言ったな」と訂正した。


 その声には照れと謝意、そして少しの敬意が滲んでいた。


 けれど、イサミはまだ納得できないような顔でいる。眉間に小さなシワを寄せたまま、唇をかすかに噛む。


 その沈黙の奥には――「あんな試合が、たった一人で成立するのか」という疑念が渦巻いていた。


 すると、皇が静かに言葉を添えるように言った。その声はやわらかく、しかし有無を言わせぬ静かな圧を帯びている。


「なんなら、みんなに合わせようか?彼女たちもキミに興味があると思うから」


 その誘いには、まるで“真実を見せてやろう”という含みがあった。皇の微笑の奥で、ほんの一瞬、王者の気配が覗く。


 イサミは首を横に振る。その目は笑っているが、声の底に火がある。


「また今度でええわ……。奉納タッグのリングの上で」


 挑戦状のようなその言葉に、空気がわずかに震えた。


 宣戦布告――それは、イサミなりの礼儀であり、矜持でもあった。


 皇の瞳が一瞬だけ鋭く光り、次の瞬間にはまた静かな笑みへと戻る。互いの胸の奥で、火種のような約束が静かに灯っていた。


 一瞬、皇の目が鋭く光ったように見えた。その光はほんの刹那――だが、獲物を見据える猛禽のような鋭さだった。


 だが、すぐにいつもの笑顔に戻ると、イサミに別れを告げて如月たちのところへ向かうために歩きだした。


 その歩みは静かで、背筋の伸びた姿勢に一切の隙がない。


 去っていくその後ろ姿には、女王としての風格と、何かを見透かした者の余裕が同居していた。


 そのとき、イサミが声をかけた。呼吸をひとつ置いて、低く、慎重に。


「皇はん、ちょっとええか?」


 その声には、先ほどまでの軽快さが消えていた。


 ――まるで舞台が切り替わったかのような真剣な響き。


 神妙な顔つきでイサミは呼び止めると、皇は足を止め、わずかに肩を動かして振り返った。


 長い髪が光をすくい、頬をかすめる。そのまま数歩、イサミのところまで歩み寄り、「なんだい?」と聞き返した。


 皇の声音は柔らかい。だが、その瞳は微かに細められ、まるで次に来る言葉を測るように静かに光っている。


 イサミもまた、言葉を選ぶように唇を一度閉じ、深く息を吸った。


 二人の間に再び沈黙が落ちる――。


 先ほどの“宣戦布告”とは異なる、もっと現実的で、重い話の予感を孕んだ沈黙だった。


 ――控室。


 一方そのころ、如月たち五人が集まっていた。


 控室は祝勝会のようなムードで、みんな生中継で放送されていた如月たちの試合のダイジェスト映像を見ながら、いろいろと思案している。


 壁掛けのモニターから流れる映像が部屋の照明に混じって、薄い青白い光を畳や顔に映し出していた。


 手に持つペットボトルの飲料水、無造作に口をあけられたお菓子の香り。


 ――戦いを終えたばかりの空気に、少しの安堵と熱気が同居している。


 如月は望月たちが買ってきたパンを頬張りながら、小上がりの畳の上に胡坐をかいて座っている。


 手に持ったパンの欠片が胸元に落ちても気にせず、ぼんやりと天井を眺めているその姿は、試合直後の緊張をようやく脱いだ人間そのものだった。


 頬を動かすたび、どこか満ち足りたような笑みが浮かぶ。


 カナレも如月と同じ小上がりで胡坐を組み、その映像を見ながら、自分のシーンになると意気揚々と解説している。


 指先で画面を指しながら、「ここ!この流れ完璧だったろ!」と身を乗り出し、誰も求めていない実況を披露する。


 その声に望月が苦笑し、島村が肩をすくめる――そんな緩やかな一体感が、まるで嵐の後の静けさのように心地よく部屋を包んでいた。


 SAKEBIもなんだかなという表情で、画面を見ている。笑っていいのか、黙っていた方がいいのか――そんな微妙な温度の顔。


 膝の上で指先を落ち着きなく叩きながら、モニターの中の如月を見つめている。


 そんななか、如月がふと望月の顔に目をやると、いつもよりおとなしい。


 普段ならみんなとくだらない話をしながら楽しく過ごしている場面だが、その顔はどこか楽しめないという雰囲気だった。


 目線の奥に、言葉にならない“引っかかり”が潜んでいる。パンの包み紙をいじる手が止まり、望月はただ映像を見つめたまま動かない。


 如月が声をかける。


 声のトーンは軽く、しかしどこか探るような柔らかさを含んでいた。


「なあ、何を気にしてるんだ?俺のことならもういいぞ」


 その一言に、部屋の空気がわずかに変わる。


 そしてカナレも続いて答えた。


「私も如月っちから聞いてたから、気にしなくていいぞ!」


 如月が寝静まる頃に言ったカナレへの言葉


『寝る前に一度言っておきたいことがあるんだけどいいか?』


 如月から相談を持ち掛けられていたおかげで感情的にはならず、むしろカナレは望月に気を使っているようだった。


 望月は一瞬だけ顔を上げ、如月達の方を向いてコクリとうなずくが、どこか浮かない顔だった。


 うなずく動作も小さく、まるで言葉を飲み込んだままのように。モニターの映像が、望月の頬を淡く照らしていた。


 その青白い光は、彼女の表情をますます無表情に見せ、沈黙の輪郭だけを際立たせている。


 カナレが何か言いかけて、結局口を閉じた。パンの包み紙を握る音だけが、やけに大きく響いた。


「そもそも、選手のクセや動きを盗んだり、解析したりすることは、誰でもやってることだろ?」


 如月の声は落ち着いていた。


 ただ、その声音の奥には、自分に言い聞かせるような硬さが混じっている。


 他の面々も如月の顔を見ながら、その事実を受け止めている。


 それぞれの表情には複雑な影――肯定と違和感、理解と抵抗が同時に滲んでいた。


 SAKEBIは腕を組み、顎に指を添えたまま黙り込んでいた。カナレは目を伏せ、ただ静かにその様子を見守っている。


 そんなとき、島村が言った。


 いつもより声が少しだけ低い。場の空気を壊さぬよう、慎重に言葉を選ぶような口調だった。


「私も如月さんの言っていることが正しいと思いますよ……」


 その言葉を聞いて、望月は如月に静かに話し始めた。


 視線は合わせず、ただ前を見つめたまま――けれどその声には、胸の奥に積もったものがかすかに震えていた。


「違うの……友達なのに……私……裏切った……」


 その声は、喉の奥から押し出すようにして漏れた。


 小さく震える言葉が、部屋の中の空気をゆっくりと濁らせていく。望月の指先が膝の上でぎゅっと握られ、肩がかすかに揺れた。


 誰もすぐには何も言わなかった。モニターの光だけが、淡く彼女の頬を照らしている。


 言葉にならない口調がさらに部屋の空気を濁らせ始めたとき、如月は場の空気を振り払うかのように言った。


 手にしていたパンの包みを机に置き、軽く息を吐く。


「責任感じてんのか?だったら――俺をもらってくれよ」


 冗談半分で言ったその言葉に、望月は顔を真っ赤に染めた。


 一瞬、時間が止まったように周囲が固まる。


 そして次の瞬間、島村が「ちょ、ちょっと如月さん!」と顔を赤らめ、SAKEBIが吹き出した。


 空気が少しだけ緩む。それでも望月はうつむいたまま、耳まで真っ赤にして小刻みに肩を揺らしていた。


 周りもそのことをからかうように言っているが、カナレだけは不満そうな顔をしている。


 腕を組み、むすっとした表情で二人の様子を見ていた。


 そして勢いよく立ち上がると、拳を握りしめながら言った。


 その勢いで小上がりの畳がきしみ、空気が一変する。


「ちょっと待った!如月っちの嫁は私だぞ!夫婦めおとこそ最強のタッグだ!」


 カナレの声が部屋中に響き、誰もが呆れた。望月は、堪えきれずに顔を覆って笑い出した。


 重く淀んでいた空気が、冗談と笑いで一気に溶けていく。


 その様子を見た如月は、どこか安堵したように肩を落とし、静かに笑った。


 理解しがたい持論を展開しながら腕を組み、誇らしげなカナレの顔を見て、如月は「そっすか……」と気のない返事をした。


 それがよかったのか、望月も遠慮なく笑い出した。


 如月はその様子を見て、もう大丈夫だろうとトレーナー室に行くと言って部屋のドアを開ける。


 カナレが心配そうに「大丈夫か?」と声をかけるが、如月は「ただのマッサージを受けに行くだけ」と言って、トレーナー室に向かっていった。


 試合後のマッサージは、如月の中にいる英二のルーティーンであり、IWA時代でも専属トレーナーが団体に在中していて施術を受けていた。


 特にQueen Beeのトレーナー・矢取雅代の腕は確かなもので、最新設備の整ったトレーナー室で、針治療をメインにした独自のスポーツ整体をもとに、日々選手たちを癒している。


 今日は特に首周りをメインに施術してもらおうかと思案していると、後ろから望月が声をかけてきた。


 その足音は小走りで、廊下の静けさの中によく響いた。


 走って近づいてくる望月を見て、如月はまだ悩んでいるのかと少し心配気味で「どした?」と声をかけた。


 望月は肩で息をしながら立ち止まり、胸の前で両手を握りしめる。頬には汗が光り、瞳の奥には、迷いと確信が入り混じったような色が宿っていた。


 言葉を探すように、唇が一度だけ動く。


 望月は真剣なまなざしで如月の目を見て言った。


 その声は震えてはいない。


 だが、覚悟を飲み込んだあとの静けさがあった。


「如月、あんた、もしかして体の中にもう一人、誰かいる?」


 時間が止まったような感覚。


 廊下の蛍光灯がわずかに瞬き、窓の外から吹き込む夜風がカーテンを揺らす。夜風の音だけが響く廊下で、二人は対峙している。


 沈黙の中、互いの視線だけが交錯し、言葉よりも雄弁にすべてを問いかけていた。


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