第52話:見切りの力
如月が、お返しとばかりに正美の身体をがっちりと抱え込み、グッと腰を沈めた。
そのまま爆発的な力を解き放ち、密着した体勢のまま正美を高々と宙へとリフトアップする。
女性の身体が空中で静止したかのように掲げ上げられると、カウントは止まり、会場全体が一斉にどよめいた。
「如月選手、カウント2で返しました!」
古田の声に呼応するように、観客席からは拍手と歓声が爆ぜ、熱気の渦が広がる。
「すさまじいパワーです!惚れ惚れするようなリフトアップ!」
自身の本業であるパワーリフティングの所作を絶賛する山北。
実況の声が熱を帯びる。スポットライトを浴びたリング中央では、汗が飛沫のように舞い、照明を反射してきらめいた。
如月は正美の顔を真正面から見据え、わずかに口角を持ち上げる。その眼差しは挑発的でありながらも、獲物を見極める捕食者のような冷静さを帯びていた。
「……ちょっと重さが足りないな」
その言葉は観客席にまで届き、場内のざわめきをさらに大きくする。持ち上げられた正美の眉がわずかに動く――。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「カナレのパワーは……そんなものじゃないよね」
その言葉が落ちた瞬間、正美の表情がわずかに曇る。ほんの刹那――だが、確かに感情が揺れた。
次の瞬間には、何事もなかったかのように無表情へと戻っている。
だが如月は、その一瞬を見逃さなかった。
確信を得たように、わずかに口元を歪める。
――やはり、そうか。
そう語るような笑みだった。
怒りか、闘志か、それとも別の感情か。その原動力が何であれ、試合の空気は一瞬にして張り詰めた。
肌を刺すような静寂の中、誰もが息を潜め、次の瞬間を待ち構えていた。挑発とも取れる一言。その刹那、正美の瞳が獣のように鋭く光った。
彼女は迷いなく如月の両手に自らの手を重ねると、しなやかな背筋を大きく反らし常識外れの動きでそのまま倒立姿勢へと移行する。
宙で逆さまに浮かび上がった正美のシルエットに、観客席からどよめきが爆発した。
「おおっ!?」
驚愕の声が連鎖のように波及し、会場が揺れる。まさかの逆転の構え。
次の瞬間、正美は全身のバネを解き放った。如月の手のひらを視点に、しなやかな倒立から一気に前方へと体を振り出し、鋭い弧を描くように両膝を突き出す。
――ズドンッ!
如月の腹部に両膝が深々と突き刺さった。
「がはっ!」
鈍く重たい衝撃音がマットを震わせ、如月の上体が大きくのけ反る。
リングサイドからは悲鳴にも似た声援が爆ぜ、客席は歓声と驚愕が入り混じった渦と化した。
「正美選手、驚異の倒立からの一撃!鋭い両膝が如月選手の腹をえぐったぁ!」
「信じられない柔軟性と爆発力です!これは効いてますよ!」
実況と解説が興奮を隠さず叫ぶ中、照明に照らされたリングは熱狂のるつぼと化していた。
正美は息を荒げながら、如月の両腕に押さえ込まれたまま、冷ややかに言い放つ。
「……今度は軽くない……」
低く突き刺すような声。その直後、如月の腹部に走った膝の衝撃は、ジワジワと重く鈍い痛みとなって広がり、肺から空気を奪っていく。呼吸が乱れ、全身が鉛のように支配され、思わず膝が揺らぎかける。
「ぐっ……!」
しかし如月は歯を食いしばり、気迫を爆発させて正美の身体を横へと豪快に振り抜いた。
正美の体が宙を舞い、観客から悲鳴と歓声が一斉に湧き上がる。
「投げたぁ!如月選手、ここで力を振り絞った!」
実況が声を張り上げる中、正美は空中で鮮やかに身体をひねり、まるで舞うように1回転。マットへ叩きつけられる直前で体勢を整え、軽やかに着地してみせた。
「おおおっ!?」
観客のどよめきが波紋のように広がる。正美は着地の反動を逃さず、即座に再び跳躍――トップロープを使わずに、しなやかな体幹を生かしたスタンディング・ムーンサルト・プレス。
背中が弧を描き、照明を反射して汗が飛沫のように舞った。
「決まるかッ――!」
実況の絶叫に合わせて、観客席から割れるような歓声がリングを包み込む。観客席から悲鳴にも似た声が上がったが、如月は土壇場で身をひねり、襲い来る衝撃を紙一重で回避した。
――ドカッ!
マットに正美の体が叩きつけられ、重たい衝撃音が場内に響き渡る。
その瞬間、観客席からは悲鳴と歓声が入り混じり、アリーナ全体が爆発するような熱気に包まれた。
「決まらないっ!如月選手、土壇場でかわしたぁ!」
「正美選手の体が無防備にマットへ突き刺さりました!」
実況席の叫びが重なり、観客は立ち上がりながら二人の動向を見守る。
如月は腹部に残る鈍痛を抱えながらも、苦悶の表情を一切見せずに素早く立ち上がった。
その鋭い眼光は一点に据えられ、正美を中心に大きな円を描くように軽快なステップを刻み始める。
タッ、タッ、タッ――。
規則的に響く足音は、まるで獲物を翻弄する猛獣が狩りの間合いを計るような、緊張感に満ちていた。
正美は片手でマットを押さえながら、荒い呼吸をゆっくりと整える。汗が額を伝い落ち、瞳には鋭い光が宿る。
(……カナレのあの技、ただのパワーじゃない。何かの理に基づいた動き……たぶん、天地合戦術の何か)
現在と過去の情報を同時に精査して試合を構成していく。それが正美の強さの秘訣でもあるが、どこか納得いかない様子。
そのとき――妙な不安が正美の脳裏をかすめた。
なぜ、如月は先ほどの両膝を避けなかったのか。
避けられなかった、とは思えない。あの距離、あの間合いで、あの反応速度なら――。
まるで、自ら望んで技を受けたかのような。拭いきれない違和感が、静かに胸の奥へと沈んでいく。
観客の歓声がうねりのように続く中、二人の間に流れる空気は一層張り詰めて、その本流へと誘われていく。
その時、如月のステップがピタリと止まった。リングを包む熱狂が一瞬だけ静まり返り、観客全員が息を呑む。
次の瞬間――。
如月は地を蹴り、爆発的な加速で正美へと突進する。足音がキャンバスを震わせ、鋭い矢のような軌道で飛び込むその姿は、まさに肉弾の槍。
「スピアーだぁ!」
古田が叫んだ刹那、正美の瞳が細められた。
彼女はわずかな重心の傾きから如月の動きを読み取り、一歩早く上体を倒し込む。同時に腰を素早く切り返した。
何とか両腕を正美の腰にロックはできたが体制が悪く、足と腰に重さが乗る。
リング中央で二人の攻防を見て。観客席からは「おおっ!」と驚きの声が一斉に沸き起こった。
「正美選手も負けていません!一切の隙を見せず、完全には技をかけさせない!」
古田の熱が重なり、会場全体の熱気がさらに高まる。実況の声と同時に、観客席からは拍手とどよめきが響き渡った。
如月は必死に正美の腰へ食らいつき、荒い呼吸を押し殺しながら呻くように声を絞り出す。
「……強いね、あんた。それに格闘IQもずば抜けてる」
声は震えていたが、眼光だけは獰猛に光を失わない。
だが正美はその言葉に一切耳を貸さず、細めた瞳の奥で冷たく光を放ちながら、全身の重みを如月の背へと沈めていく。
――ギシッ。
キャンバスが軋み、嫌な音が場内に響いた。観客たちは息を呑み、前のめりになって二人の攻防を見つめる。
「重いっ!正美選手、体重を預けての圧殺です!」
「軽量級の体格とはいえ体勢が悪い!如月選手の体が沈んでいく!このままでは危険ですよ!」
観客席から両選手への相反する声援が飛び交い、場内の空気はさらに熱を増していった。
如月の背筋には耐え切れぬほどの重圧がのしかかり、上半身がジワジワとマットへ押し込まれていく。脂汗が首筋をつたう中、それでも両腕だけは決して離そうとはしなかった――。
「ぐっ……!」
必死にこらえる如月。歯を食いしばり、腕と肩に込めた力でなんとか踏みとどまるが、全身の震えは隠せない。
その姿を見て、青コーナーからカナレが声を張り上げた。
「如月っち!タックルを解け!今ならまだ脱出できる!」
檄が飛び、観客席からも「がんばれ如月!」と呼応する声が広がる。
だが、その声を耳にした刹那――正美の瞳がさらに鋭く光った。
(……絶対逃がさない。ここで――決める!)
決意を固めた正美は、一切の迷いを捨て、全体重を如月の背に預けて押し潰す。
――ギシッ。
リングのキャンバスが軋み、如月の背中がジワリりと沈んでいく。足腰にのしかかる圧力は、まるで大岩に押し潰されるかのようだ。耐えがたい負荷がかかり、背筋が悲鳴を上げる。
「うぉおおっ!」
「いけぇ正美!」
「耐えろ如月!」
観客席から割れるような声援と悲鳴が飛び交い、アリーナの熱気は沸点に達していた。
その渦中で、如月のこめかみを伝う脂汗が一筋、ぽたりとマットへ落ちる。
スポットライトを反射して小さく光ったその滴は、今まさに追い詰められている状況を象徴するかのようだった。
リングを揺らすような歓声の嵐の中、赤コーナーの楓は微動だにせず腕を組み、冷ややかな眼差しで如月を射抜いていた。
その口元はわずかに歪み、心中で突き放すように言葉を吐き捨てる。
(……頭のいい子だと思ってたけど。小さい体だからって甘く見た。その慢心――あなたの負け……)
熱狂する観客とは裏腹に、楓の視線は氷のように冷たく、情け容赦のない裁定者のものだった。
実況席もヒートアップする。
「正美選手、強烈なプレッシャー!如月選手、マットに沈むか!」
古田の実況に負けじとマイクに食らいつきながら饒舌になる山北が説明する。
「これは危険です!体格差をものともせず、小柄な正美選手が巧みに体重をうまく乗せています!」
マイク越しの叫びに、観客席がさらに沸騰した。
「がんばれ如月!」
「押し切れ正美!」
歓声、悲鳴、名前を叫ぶコールが渦を巻き、アリーナ全体を揺らす。
その音はまるで地鳴りのようで、床や鉄骨までも震わせるかのようだった。
如月の視界がぐらつき、頬を伝う汗が視界を曇らせる。背中はじわじわとマットに押し込まれ、肺を圧迫する重みが呼吸を奪う。
リング中央での攻防は、技術ではなく執念のぶつかり合いに変わっていた。
――耐えるか、沈むか。
観客の瞳は一斉に二人の姿へと釘付けになっていた。
そのとき――。
如月の体がグラリと沈んだ。誰もが「決まった」と思ったその刹那、如月の全身が鮮やかに180度回転し、まるで磁石に引き寄せられるように正美の体をロックしたまま一気に立ち上がった。
「えっ……!?」
正美が思わず声を漏らす。観客も一様に息を呑み、会場全体が静止したかのような刹那――。
如月は相手を抱え込んだまま膝を沈め、全身のバネを解き放つように跳躍。
――ドンッ!
正美の頭部がマットに突き刺さった。リングが大きく揺れ、キャンバスを震わせる轟音が場内に響き渡る。
「ぐあっ!」
観客席から悲鳴と歓声が入り乱れ、熱気が爆発した。
「パイルドライバーだぁぁぁ!」
「危険な角度!正美選手の首に甚大なダメージが入ったかもしれません!」
正美の身体が弾かれたように跳ね、無防備にマットへと転がる。
その衝撃はまるで電流のように頭から首筋を抜け、足先にまで痺れを走らせていた。
リング上の如月は荒い呼吸を繰り返しながらも、なお獲物を狙う猛獣のような眼光を失わない。
が、その渦中でも楓の瞳は冷静に光を宿していた。如月の顔、その表情にすぐさま異変を見抜く。
左目――固く閉じられている。
「……神眼!」
鋭く吐き出された声。楓は即座に理解した。
如月が放つ“ギフト”、神眼。発動する時、必ず右目を閉じる――。
先ほどの異常な動き、間違いなく神眼での先読みから成立したものだと。
リングに倒れ込む正美へ視線を送り、楓は一歩前へ身を乗り出した。表情は冷ややかで揺らぎなく、声だけが凛として響き渡る。
「正美!」
その叫びは、観客の歓声を切り裂いて届いた。
赤コーナーの楓が手を伸ばす姿に、観客席から「いけぇ正美!」「タッチだ!」と新たな声援が巻き起こる。
マットに伏す正美の指先が、わずかに動いた――。
それでもリング上の如月は攻めの手を緩めない。荒い息を吐きながらも、倒れた正美に追い討ちを浴びせるべく、勢いよくロープへと走り込んだ。
――タッ、タッ、タッ!
軽快な足音がキャンバスに響き、中段ロープを駆け上がると同時に如月は身を反らせる。
スワンダイブの軌道から放たれるのは、しなやかで鋭いライオンサルト。大きな弧を描くその姿に、観客の目が釘付けになった。
「決まるか――!?」
実況の絶叫がアリーナ全体に響き渡る。観客席からも「おおおっ!」という悲鳴混じりの歓声が爆発した。
――だがその刹那。
正美は痺れる体を必死に回転させ、土壇場で転がるように身をかわした。
――ドンッ!
ライオンサルトが空を切り――だがその瞬間、如月の身体がさらに鋭く回転を高めた。
まるで正美が避けることを初めから知っていたかのように、空中で体をひねり切る。
――トンッ!
着弾の直前、如月はしなやかに脚を伸ばし、完璧なバランスでマットへと華麗に着地。
観客席から「おおおっ!」と驚愕の声が波紋のように広がった。
「読んでいた!?如月、正美の回避を完全に見切っていた!」
「神眼ですね!今の軌道修正は常人には不可能ですよ!」
リング上に立つ如月の左目は固く閉じられたまま。その姿を見て、楓の瞳がさらに細められる。
(やっぱり……神眼を使っている)
倒れ込む正美を見下ろし、如月はわずかに息を荒げながらも、次なる攻撃の構えを崩さなかった。
観客の熱狂はさらに加速し、アリーナ全体が揺れるほどの轟音に包まれていく。
倒れ込んでいた正美は、痺れる腕を必死に前へ伸ばし、赤コーナーへと這い寄っていく。
観客が総立ちになり、悲鳴混じりの声援が渦を巻いた。
「タッチだ!いけぇぇぇ!」
その大合唱に押されるように、正美の指先がついに楓の掌を叩いた。
――パシンッ!
乾いた音が響いた瞬間、場内が爆発するように沸き立つ。赤コーナーの戦力が交代する。その緊張は一気に最高潮へ。
リングへと躍り出た楓に、如月の視線が鋭く突き刺さった。
すでに深く腰をかがめ、低い姿勢で構えている如月。その身のこなしは、いつでも飛びかかれる猛獣の待機姿勢そのもの。
そして、口元には挑発を含んだ不敵な笑みが浮かんでいた。
「楓さん……あんたたちのギフト、見切らせてもらったよ」
その一言が投げかけられた瞬間、観客席がざわりと揺れる。驚きと期待が入り混じり、空気がさらに張り詰める。
楓の瞳が一瞬だけ細まり、その気配は冷ややかな静謐から、一気に戦闘の炎を帯びたものへと変貌していった――。
その変化を間近で見た正美の表情もまた強張る。同時に、楓自身の顔にも緊張が走り、瞳は鋭く細められた。
観客席からは「えっ!?」とざわめきが広がり、場内の空気がさらに張り詰めていく。
楓は静かに深呼吸をし、同じく腰を沈めて対峙の構えを取った。リング中央で二人の視線がぶつかり合い、会場の空気が一気に張り詰める。
如月は低く呟き、鋭い眼差しのまま唇を吊り上げた。
「……ここからは絡め技はなしだ。正攻法で行かせてもらうよ」
その声は挑発であり、同時に楓への宣戦布告でもあった。
アリーナの温度が一気に上がり、熱気が押し寄せるように広がっていく。
楓はその言葉を受け止め、静かに深く腰を沈めた。瞳は氷のように冷ややかで、だがその奥に燃える炎は誰の目にも明らかだった。
リング上には、互いの呼吸と心音さえ聞こえるような張り詰めた空気――。
まるで嵐の前の静けさのように、観客全員が次の瞬間を待ち構えていた。




