第51話:ナンバーシステム
アリーナの大歓声。
観客席の四方八方から飛ぶ声援が、波のように押し寄せて天井に反響する。熱気に包まれた空気は揺らぎ、リングの上に立つ二人の体を押し上げるようだった。
実況にも自然と熱がこもる。
「これは開始早々から目が離せません!」
リング中央で対峙する楓とカナレ。二人はジリジリと間合いを測り合い、呼吸ひとつでさえ戦いの火蓋になりかねない緊張感が漂っていた。
楓は肩をわずかに揺らし、冷静な呼吸を刻む。一方のカナレは拳を固く握り、踏み出す足に力を込めて、今にも飛びかかりそうな気配を放つ。
実況が声を張る。
「おっと、楓選手が前に出る。得意の遠距離からの攻撃を捨てて、あえて組みに行くつもりか!?」
観客の歓声が一段と高まる。リングサイドでは身を乗り出す者、拳を振り上げる者が続出し、アリーナ全体の鼓動が一つになったかのようだ。
楓がスッと口を開く。
その声は熱狂の中でもはっきりとカナレの耳に届いた。
「ナンバーシステム……」
探りか、挑発か――観客の目が二人に吸い寄せられる。
カナレの肩がピクリと揺れ、瞳の奥にわずかな緊張が走った。
挑発にも、探るような問いにも聞こえるその言葉。観客席のざわめきが一瞬止まり、視線が二人に集中する。
図星と悟り、笑みを浮かべながら続けて楓が言った。
「如月が神眼で見た未来を元に指示を出してるの?」
リング外にいる如月は腕を組んだ状態で特に変わった様子はないが、握る手の力が少し強くなっている。
解説の北山が口を開いた。
「どうやら先ほどのナンバーシステムが、楓選手に見抜かれてしまったようですね」
リング下の解説席、古田がすかさず身を乗り出す。
「山北さん! そのナンバーシステムとは、一体なんなんですか? 」
その問いに対して、山北は落ち着いた口調で答えた。
「ええ、これはボクシングで古くから使われている指示法ですね」
そして山北は小気味よく語り始めた。
「たとえば“1が顔の右側、2が顔の左側、3が顔の正面”というように打つ箇所に番号を振って、トレーナーが数字を叫ぶことで即座にコンビネーションを組み立てるんです」
「なるほど!つまり数字がそのまま攻撃の合図になるわけですね!」
山北の的確でわかりやすい解説がアナウンサーの古田はもちろんのこと、視聴者や観客に浸透する。他に替えのきかない存在。それが山北という解説の力量でもあった。
「そうです。ただし如月選手とカナレ選手の間で、どの番号がどの箇所を意味しているのか――それは対戦相手からは絶対にわからない。俯瞰的指示、対戦相手にとっては非常に厄介なシステムです」
解説席後ろの観客から「なるほど!」と納得の声が漏れる。
リング上のカナレは、如月との連携によるナンバーシステムが見抜かれてしまったことで動揺しているのか、わずかに動きの精細さが欠け始めていた。拳の握りが強くなりすぎ、肩に力が入っているのが誰の目にもわかる。
そんな状況下でも楓は焦らない。すぐに飛びかかるのではなく、まるで網を広げる狩人のように、じりじりと間合いを詰めていく。
その歩みは一定のリズムを刻み、観客の鼓動までも支配するかのようだった。
そして――。
「じゃあ私も本領発揮ってことで」
楓の低い声が空気を震わせると同時に、彼女の体が一瞬で間合いを詰めた。観客席から息を呑む音が一斉に響き、まるで時間が跳ね飛んだかのような錯覚を与える。
ただ、不可解そうにコーナーで見守る正美の顔があった。
(ナンバーシステム……なぜこの場で……)
正美の小さな不安をよそに先ほどの展開とは逆に、楓の白い指先が鋭く伸び、カナレの腕をがっちりとつかんだ。
古田が声を張り上げる。
「おおっと!ここでカナレ選手、楓選手に腕を取られたぁ!」
山北の低い声が続く。
「ついに捕まってしまいましたね……。ここからカナレ選手はどう立ち回るのか、それが大きな分岐点になります」
その瞬間、観客席から落胆の声がどっと漏れる。拳を握りしめる者、頭を抱える者――まるで自分が捕まれたかのように、観客の体が同時に揺れた。
十文字楓のフェイバリットギフト《以心伝心》。
ギフト展開中に掴まれた相手は、その能力を無効化されてしまう――。
そんな情報は関係者やファンの間で広く知られ、既に常識のように語られていた。試合前の解説番組でも「楓に掴まれたら最後」とまで言われるほどだ。
そのキャッチフレーズのような説明が雑誌やネットに並んでいたが、如月はそこにどうしても不可解な要素を感じていた。もし本当にただの“相手の能力を無効化するだけ”なら、なぜ「以心伝心」という名前がつけられたのか。
「無効化」ではなく、「共鳴」や「模倣」に近いものなのではないか――。
如月の疑念はカナレにも共有され、二人は入念にその対策を練ってきた。準備は万端、掴まれることすら想定済みだった。
――急ごしらえの“ナンバーシステム”をこの大舞台で使用することも。
「よし!ここだ!」
そして、もう一つの“仕掛け”も、見事にハマった。
楓がカナレの方へ吸い込まれるように引き寄せられた。
「え!?」
観客から一斉にどよめきが起こる。まるで空気がひっくり返ったようにざわめきが広がり、視線が一斉に二人へ釘付けになった。
その瞬間、カナレの両腕が稲妻のように走る。楓の頭部を片腋にがっちり抱え込み、反対側の腕で素早く片腿をすくい上げる。流れるような一連の動作に、楓の身体はあっという間に宙へと持ち上げられた。
「うぉぉぉりゃッ!」
気合一発!掛け声が場内を震わせ、カナレの全身の筋肉が爆発的に収縮する。
――次の瞬間、轟音を伴って放たれる一撃。
――フィッシャーマンズ・バスター!
「うそ!」
楓は驚きのあまり声を漏らす。そのまま豪快にマットへと叩きつけられた。
ドォンッ!
リング全体が震えるほどの衝撃音。観客席から爆発するようなどよめきが巻き起こる。
赤コーナー側に控える正美の表情が変わった。わずかに見開いた瞳、その奥に緊張が走る。
カナレはそのまま覆いかぶさり、フォールへ!
レフリーが素早く滑り込み、手を振り下ろす。
「ワンッ!」
会場全体がカウントに合わせて声を張り上げる――が、楓は即座に肩を跳ね上げた。
フォール返し!
客席から「返したぁっ!」と大歓声。古田の実況がかき消されるほどの熱狂が、再びアリーナを揺さぶった。
カナレはすぐさま立ち上がり、追撃に行くことなく冷静に距離を取った。荒い息を整えながらも視線は決して外さず、マットに倒れている楓を鋭く見据える。そして両拳を高く構え直すと、再び戦闘態勢へ。
その緊張の中、背後から鋭い声が響いた。
「カナレ!」
青コーナーから飛ぶ如月の呼びかけ。
カナレは一瞬も目を離さずに楓の動きを注視したまま、ゆっくりと後退していく。マットを軋ませながら青コーナーポストの前まで下がり、後ろ手に如月へ合図を送った。
観客席から「交代だ!」「タッチだ!」と声が飛び、熱気がさらに高まる。
その間に楓も体を揺らしながら立ち上がり、ゆるやかに腕を構え直す。鋭い眼差しを崩さぬまま、しかし妨害に動く気配はない。
まるで「タッチしても構わない」と言わんばかりに、その場で静かに待ち構えていた。
カナレは如月に近づくと、後ろ向きのまま右手を大きく掲げ、タッチを要求する仕草を見せる。観客席から歓声が一斉に響き渡り、アリーナ全体の熱がさらに高まった。
コーナポストの外に立つ如月が、その手を力強く叩く。
――パァンッ!
乾いた音が鳴り響いた瞬間、実況の古田が声を張り上げる。
「ここで!如月選手に交代ぃぃ!」
観客の歓声が一段と大きく弾け、まるで場内の空気そのものが震え、波打つように揺さぶられる。
如月はトップロープをしなやかに飛び越え、リングイン。着地の音はほとんど響かない。
まるで重さを消したかのような軽やかな身のこなしだった。
その反動を利用して、リングを縦横無尽に回り始める。靴底がマットを叩くリズムは一定で、得意のステップが円を描くように楓を中心へと絡め取っていく。
観客からどよめきが上がる。視線が如月の動きを追いきれず、リング上の空気が騒然とした。
そんな中、楓は先ほどの軽やかさを捨て、重心を深く沈めてどっしりと構えた。腰を据えた姿勢は、逃げず揺らがず、真正面から受け止めるという意思表示。
ここからが私の領域だという様な薄い笑みを浮かべながら低く言い放つ。
「何今の?もしかして奥の手をカナレに伝授した感じ?そんなに早く使っちゃって大丈夫?」
余裕の笑みを浮かべる楓。如月を揺さぶろうとする言葉を投げかけるが、実際に胸の奥をざわつかせているのは楓自身、そして赤コーナーで見守る正美だった。
如月は軽やかなステップを止めず、円を描くように肩をすくめる。
「本当によくしゃべるな。あんなの伝授するほどのモノでもないし、奥の手なんて大げさなもんじゃないよ」
飄々とした口調で挑発を軽く受け流す如月の姿に、楓の顔がむっと歪む。余裕を見せつけたつもりが、逆に自分が試されているような苛立ちがにじみ出る。
その瞬間――赤コーナーから鋭い声が飛んだ。
「楓!」
普段ほとんど口を開かない正美の一喝。その一言がアリーナ全体を震わせた。
観客席から「おぉっ!」とどよめきが広がり、実況の古田も思わず声を弾ませる。
「まっ、正美選手が叫んだぁ!これは本当に珍しい!滅多に言葉を発さない彼女が……!」
解説の山北も眉を上げる。
「ええ……これは驚きですね。正美選手が大声を発したとなれば、よほどの覚悟がある証拠でしょう」
その声に導かれるように、楓は素早く後退して正美とタッチ。
――パァンッ!
乾いた音が場内に響き、観客の熱がさらに膨れ上がる。楓がロープをくぐるのと入れ替わるように、正美が静かにリングへと足を踏み入れた。
深追いして冷静さを欠いた楓をたしなめる正美。その様子を見た如月の表情は、明らかに面白くなかった。
如月の前に立った正美は、重たい空気をまとうかのようにじっと相手を見据える。そして、ほとんど聞き取れないほどの小さな声でつぶやいた。
「……天地合戦術。見せてもらう」
低く、しかし確かに届くその言葉に、観客は一瞬息を呑んだ。
如月は正美の口から出た言葉にわずかに眉を動かすが、すぐに表情を戻し、今度は正美を中心に軽快なステップを刻む。リング上の空気が再び揺れ、観客も息を詰めて二人の駆け引きを見守った。
そんな中、赤コーナーに戻った楓が小さく声をかける。
「……ごめん、熱くなっちゃった」
控えめながらも真剣な響き。楓の視線は、リング上の背中をまっすぐに追っていた。
正美はそれに反応して、ほんのわずかに顔を横へ傾ける。観客には伝わらないほどの微細な仕草。
しかし楓には確かにわかるように、静かにコクリとうなずいた。
言葉はなくとも伝わる意思――それはタッグを組む者同士の絆の証のように感じられた。
バンッ!
一瞬の虚を突くように、マットを蹴る轟音が会場に響き渡った。観客が息を呑む間もなく、如月の身体が弾丸のように宙を走る。
正美の頭上をかすめるように放たれた鋭い蹴り――。
だが正美は眉1つ動かさず、わずかに前傾姿勢を取ったまま静止していた。その沈着さは、嵐の中に立つ岩のようで、次の一撃をただ待ち受けているかのようだった。
如月は軽やかに着地すると同時に、すぐさま低い姿勢から水面蹴り! マットを擦る鋭い音が響き、リングの端から端まで走るように観客の耳を打つ。
実況の古田が声を張り上げる。
「如月の水面蹴り!一瞬の着地から切り返しての超高速コンビネーション!」
しかし正美はふわりと身体を浮かせ、軽やかにジャンプしてかわした。
その動作は、まるで既に来ることを知っていたかのように自然で、無駄な力を一切感じさせなかった。
解説の山北が低い声で続ける。
「すごい……完全に読んでいましたね。普通なら避けられない角度と速さですが、正美選手はまったく動じていません」
観客席からも驚きのどよめきが広がる。
着地と同時に如月は再び体をひねり、反動を利用して浴びせ蹴りを放つ!空気を裂く風音とともに、蹴りは正美の小さな体を正確にとらえた。
実況の古田が絶叫する。
「決まったぁぁっ!如月の浴びせ蹴りが突き刺さったぁ!」
解説の山北が身を乗り出す。
「速い……これは見事な連携ですね!水面蹴りから浴びせ蹴りへの流れ、完全に正美選手を捕らえましたよ!」
「決まったぁ!」観客席から歓声が弾ける。
だが――。
その瞬間、正美の両腕が鋼のように如月の脚を受け止めた。小柄な体からは想像もつかない膂力。蹴りを決めたはずの如月の身体が、逆にがっちりと捕らえられ、動きを封じられてしまう。
観客のどよめきが一斉に膨れ上がる。
「嘘だろ……止めた!?」
「決まったんじゃなかったのか!?」
リングサイドの古田が絶叫する。
「浴びせ蹴りを受け止めたぁ!正美選手、まったく揺らがない!」
解説の山北も目を見開く。
「とんでもない……あの体格差で如月選手の蹴りを止めるとは。完全に力でねじ伏せましたね」
脱出不可能な状態に追い込まれた如月。必死にもがくが、正美の両腕は鋼の枷のように微動だにしない。
そして――正美は静かな眼差しのまま、如月の体を軽々とリフトアップした。
リング全体が揺れるほどの歓声とどよめきが爆発し、アリーナが地鳴りのように震えた。
リフトアップされたままの如月が、余裕を装った笑みを浮かべて口を開く。
「……それが、正美さんのギフトの力かい?」
観客席からも一斉にどよめきが走る。
だが正美は一切反応を見せない。瞳の奥に冷たい光を宿したまま、抱え上げた如月の体を――勢いよくマットへと叩きつけた!
ドォンッ!
強烈な衝撃音が場内を震わせ、リング全体が大きく揺れる。
「うわぁぁぁっ!」観客が悲鳴混じりの歓声を上げる。
実況の古田が声を張り上げる。
「正美選手、豪快なリフトアップスラム!如月選手がまともに叩きつけられたぁ!」
解説の山北が唸る。
「静かな構えから一気に爆発……正美選手の真骨頂ですね。ギフトかどうかは不明ですが、あの怪力は常軌を逸しています」
マットに沈む如月。体を強打した衝撃で一瞬動きが止まる。
しかし正美は休むことなく追撃を開始した。仰向けで倒れる如月の横に立つと、背を向けて跳躍。
空中で両膝を抱え込み、屈伸のように身体を丸め――そこから一気に解き放つ。
滞空時間を稼ぎながら美しい弧を描くそのフォームは、会場を一瞬静寂に包み込むほど独特だった。
そして――。
ドシンッ!
如月の胸元に、正美の全体重が覆いかぶさるように着弾。
――スタンディング・ムーンサルト・プレス。
観客が爆発的に沸いた。
「すごいぞ!正美選手、完璧な着地!」
実況の古田も絶叫する。
青コーナー側、ロープの外からカナレが叫んだ。
「如月っち!」
レフリーが素早く滑り込み、カウントを叩く。
「ワンッ!」
場内の声援とカウントが重なり、緊張がさらに高まる。
その瞬間――カナレは心の中で苦しげに思った。
(……如月っち、本当にこれでいいのか?このまま抑え込まれてしまうんじゃ……)
だがリングに沈む如月の表情は苦悶ではなかった。むしろ、狙い通りにことが運んでいるかのように、どこか楽しげに口元を歪めていた。




