第45話:登竜門の扉
Queen Beeの上半期を彩る一大シリーズ「NEXT QUEEN’S GATE」――新たな時代の担い手となる若手が羽ばたくための登竜門。
本田から告げられた三週間の調整期間は、慌ただしさと緊張の中で瞬く間に過ぎ去り、ついに決戦の日が訪れた。舞台となるのはQueen Beeの施設内に併設されたもう1つの会場、ハニカムドーム。
六角形を意識した天井の鉄骨は蜂の巣を思わせ、照明が当たるたびに金属が鈍く光を返す。その中央に鎮座するリングは、白と黒のロープが張り巡らされ、観客を威圧しているようだった。
このアリーナで毎年行われる恒例の大舞台は、若手にとっては試練の場であり、ベテランにとっては伝統を守る檜舞台。中でも目玉となるのが、団体の威信をかけた「Bee Hive Championship」である。
シングルとタッグの両王座を擁するこのタイトル戦は、Queen Beeの象徴とも言える存在であり、勝者の名は必ず団体の歴史に刻まれる。その栄誉は選手の未来を大きく切り開き、後のキャリアを左右するほどの重みを持っていた。
如月とカナレは、その大会のメインイベントで挑むことになっていた。
カードはBHCタッグ王座戦。対峙するのは、王座を保持するチャンピオンチーム――十文字楓と宗像正美。
観客の誰もが認める強豪タッグに、若き二人が挑む。緊張と期待が渦を巻き、開演前からすでに会場全体を熱気で包み込んでいた。
如月とカナレは会場入りするまでの間、本館にあるスパーリング専用の道場で軽く汗を流し、その後いったん自室へと戻っていた。
シャワーを浴びると普段通りのラフな格好のままベッドへ仰向けになる如月。片腕を枕代わりに天井をぼんやりと眺めている。試合前だというのに、その姿からは焦燥の色は微塵も感じられず、むしろ退屈そうにすら見えた。
一方のカナレは、いつもなら豪快に笑ってみせる彼女らしさが影を潜め、落ち着かない様子で部屋を歩き回っていた。指先を無意識に握ったり開いたり、腰を落ち着けようと椅子に座ってもすぐに立ち上がり、所在なげにそわそわと動き続ける。
その様子を横目に見た如月が、わずかに口角を上げて、ぽつりとつぶやいた。
「ドッシリ構えてればいいんだよ」
だが、その言葉を受けてもカナレの緊張は解けない。口元を引きつらせながら無理に笑顔をつくり、勇ましげに親指を立てて見せる。
如月はゆっくりとベッドから身を起こした。特に励ますわけでもなく、心配している色を強く出すわけでもない。
ただ、不安げな相棒の様子を静かに受け止め、じっと視線を向ける。その眼差しには、どこか「大丈夫だ」という確信めいた落ち着きがあった。
カナレはその視線を正面から受け止められず、気まずそうに顔をそらす。視線は宙を泳ぎ、落ち着きのない呼吸が小さく漏れた。
「とりあえず、練習通りにやればいいんだ」
如月は何でもないことのように言い切る。
その言葉に込められた揺るぎない響きが、カナレの心を少しだけ支えた。彼女は小さく、しかし確かにうなずいた。
時計は16時を指している。軽い朝食をとって以来、如月は何も口にしていなかった。
試合当日は余計なものを体に入れず、朝食で整えた状態のままリングに上がる。
――それが如月のルーティンだった。腹が減ろうと関係ない。むしろその空腹感こそが集中を高め、神経を研ぎ澄ませると経験上理解していた。
一方のカナレは、普段なら試合当日でも豪快な食欲を見せつける。大盛りどころか“超”のつく特盛を平らげ、料理長の涼子をして「また限界に挑戦か」と笑わせるのが恒例だった。
だがこの日に限っては違った。箸の動きは鈍く、いつもの半分も食べぬうちに手を止めてしまった。彼女の異変に、周囲の者たちは思わず目を丸くしたほどである。
そんなカナレとは対照的に、皆はいつも通り試合前の通例、こってりメニューを気平らげていた。
特に今日デビュー戦を迎える島村と望月は、緊張を吹き飛ばすように揃って食欲を爆発させていた。頬を膨らませてご飯をかき込み、次々と皿を空けるその様子は、まるで嵐のような勢い。食堂の調理場の面々は苦笑するほどだった。
「島村と望月の試合、そろそろだな。見に行くか?」
如月の言葉に、カナレは小さくうなずき、ぎこちない足取りで部屋を出た。
二人は関係者専用の通路を抜け、IDゲートの前に立つ。無機質な金属製のフレームが通路を塞ぎ、赤いランプが冷たく点滅していた。ここを通過するには、選手専用のIDカードをかざすほかに方法はない。
如月はカードを取り出すと、わずかに息を止めて端末にかざした。短い電子音とともにランプが緑色に切り替わり、ゲートが開く。何でもない動作のはずが、この一枚に生活のすべてが縛られていると思うと、どこか背筋が冷える。
Queen Beeでは、このIDカードがなければ部屋に入ることもできず、買い物も不自由し、移動範囲さえ制限されてしまう。いわば「選手の命綱」だ。
なくしたら大変だ――。
如月は、カードをそっと胸ポケットにしまい込む。さらに落とさぬよう、ファスナーをきっちりと閉めて確かめた。気づけば指先に力が入り、服越しに何度もカードの感触を確かめてしまう。
トボトボと歩くカナレの背を横目で見ながら、如月は少しだけ眉を寄せた。緊張を隠しきれない相棒を気にかけつつも、二人は関係者入り口を抜け、会場の喧騒へと足を踏み入れていった。
そこは中規模アリーナとはいえ天井は高く、ライトが整然と並び、観客席もぐるりと取り囲むように設けられた、十分過ぎるほどの会場だった。コンクリートの壁には蜂の巣を模した装飾が施され、光を反射して鋭い輝きを放っている。
会場の袖へと進むと、既に中にはチケット争奪戦を勝ち抜いた観客たちがぎっしりと詰めかけていた。ざわめきは波のようにうねり、熱気が肌にまとわりつく。
やがて如月とカナレの姿に気づいた一部の観客がざわついた。最初は小さな囁きに過ぎなかったが、それはあっという間に周囲へ伝播し、歓声やどよめきとなって会場全体を包み込む。場内は一時、騒然とした空気に変わった。
しかし、その期待を一身に浴びながらも、カナレは普段の天真爛漫なファンサービスを見せる余裕を失っていた。笑顔もぎこちなく、視線は宙を泳ぐ。観客もその違和感を敏感に感じ取り、熱狂の中に微妙な戸惑いが混じる。
見かねた如月が、不意にカナレの尻を叩いた。
バシッ!
「ひゃい!」
カナレの情けない声が場内に響き、観客たちは一瞬静まり返った。
だが次の瞬間、抑えきれぬ笑いが小さな渦となり、波紋のように広がっていった。熱狂と笑いが混ざり合い、会場の空気はふっと柔らかくほぐれていく。
「俺がそんなに信用できないのか?俺はお前の光じゃなかったのか?」
如月は、かつて控室でカナレ自身が誇らしげに口にした言葉を逆手に取り、鋭い叱咤を飛ばした。
一瞬、カナレの表情が固まる。
だが次の瞬間、彼女は大きく息を吸い込み、肺いっぱいに空気を取り込んだ。胸を張り、両腕をぶんと振り上げ――いつもの豪快な笑顔とともに、力強くガッツポーズを決めて観客席へ向けて突き出す。
場内が揺れた。「カナレ!カナレ!」のコールが波のように広がり、やがてうねりとなって全方向から押し寄せてくる。その熱気に押されるように、「如月!如月!」の声援も重なり合い、場内は爆発するかのような歓声に包まれた。
如月は観客の視線を浴びて小さくため息をつき、仕方なくカナレにならって人差し指を高く天へ突き上げた。普段は決して見せぬその仕草に、歓声はさらに大きく膨れ上がり、まるで天井を突き破らんばかりに響き渡る。
熱狂の渦が最高潮へ達したその時、後方の選手入場口から声が飛んだ。
「お~い!」
観客の歓声でかき消されそうになりながらも、如月とカナレの耳にははっきりと届く。二人を呼び止めるような、その声だった。
振り向くと、そこにはリングコスチュームに身を包んだ望月と島村の姿があった。煌びやかなライトを反射する生地は、二人の初陣を飾るために仕立てられた特別な装いだ。
如月は観客へ軽く一礼し、熱気に包まれた場を背にして会場を後にする。そのまま選手入場口の後方――バックヤードへと足早に歩みを進めた。
望月が真っ直ぐに如月を見据え、少し頬を膨らませてむくれた調子で口を開く。
「あのね、今日は私たちのデビュー戦なんですけど?何注目集めてんのよ!」
嫉妬とも照れともつかぬ声音。普段の快活さに加え、初舞台を前にした緊張が混じり合っていた。
如月は立ち止まり、手を合わせて軽く頭を下げ、「スマン」と苦笑をこぼす。
「よく似合ってるじゃないか、二人とも」
如月の言葉に望月は顔を赤らめ、恥じらうように目を逸らしながらも口元を緩ませた。照明に照らされた頬の赤みが、そのまま彼女の初々しさを際立たせている。
対照的に島村は、緊張のあまり固く表情をこわばらせ、視線を定めることすらできない。両手を落ち着きなく組んでは解き、心ここにあらずといった様子だった。衣装の光沢だけが、彼女の強張った顔とアンバランスに輝いていた。
望月は黒の光沢のあるレオタードタイプのコスチューム。肩と背中が大きく開いたデザインで、動きやすさと力強さを両立している。上半身にはハイネックの切り替えが入り、手首にはテーピングを巻き、闘志を感じさせる。全体的にスタイリッシュでアスリートらしい印象を与える。
一方の島村は光沢のある白のレオタードタイプのコスチューム。首元まであるハイネックデザインで、サイドが大胆に開いたシルエットが印象的。素材はリングライトを反射して輝き、鍛え上げられた肉体を強調されており、小さな体と相まって静かな闘志を内に秘めているようだった。
白と黒、対象的なリングコスチューム。新人の衣装にしては豪華だった。
(……皇さん達、気合入れたんだろうな……)
如月は夜な夜なコスチュームデザインに勤しむ選手たちの光景が頭なの中に広がっていた。
カナレは少し元気を取り戻したのか、腕を組みながら胸を張り、同期でありながらも先にデビューした立場を盾に、堂々と先輩風を吹かせてアドバイスを始めた。
「いいか二人とも、デビュー戦を終えたら、あとは惰性でなんとかなる!」
自信満々に言い切るその調子は、もはや確信というより豪語に近い。望月は眉をひそめて「また始まった」とでも言いたげに深いため息をつく。
しかし島村は緊張で表情を固くしながらも、真剣な眼差しでカナレの言葉を一語一句聞き漏らすまいとしていた。
カナレはさらに顎を上げ、声を張り上げる。
「でもな、初めてリングに立つと誰でも緊張する。だから――とっておきの方法を教えてやる!」
その言葉に、望月だけでなく如月までもが思わず反応した。二人は顔を見合わせ、半信半疑ながらも期待を隠せず、自然と身体を乗り出してしまう。場の空気が一瞬だけ「次は何を言い出すのか」という好奇心に満ちていった。
「いいか!もし緊張したら、掌に米って書いて飲み込め!そうすれば緊張は一瞬で吹っ飛ぶぞ!バアちゃんが言ってた!」
胸を張り、得意げに断言するカナレ。その真剣な顔つきと勢いに、一瞬は場の空気が凍りついた。
真面目に耳を傾けていた望月と如月は、思わず目を見合わせる。あまりのトンチンカンな方法に言葉を失い、呆れたように口を半開きにしたまま立ち尽くすしかなかった。
その沈黙を破ったのは、背後から飛んできた声だった。
「それを言うなら米じゃなくて人ッスよ!米はヒダル神対策ッス!」
勢いよく扉が開き、SAKEBIがひょいと顔をのぞかせる。肩をすくめ、苦笑いを浮かべながら訂正を叫んでいた。
「あっ、そうか!」
カナレは目を輝かせて即座に納得し、豪快に笑う。その調子に場が和む。
その様子を見ていた島村は、ついに堪えきれず、両手で口を押さえながら肩を震わせた。笑いをこらえようとする必死な仕草が、逆に初陣を前にした緊張をすっかり吹き飛ばしていた。
「まぁ、お前の訳の分からん民間療法も、結果的には役に立ったみたいだな……」
如月が肩をすくめながらそう言うと、カナレは胸を張り、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。まるで自分の発言で全てが解決したと信じて疑わない様子である。
その姿に、望月とSAKEBIは顔を見合わせ、同時に首を横に振った。呆れ半分、苦笑半分。
そして――。
会場から田辺リングアナの声が響き渡った。低くも張りのある声はスピーカーを通じてホール全体を震わせ、空気を一変させる。
「今宵……このリングに集う者たちは、未来を切り拓く新たな乙女たち!女王への道、その門をくぐる資格をかけた登竜門――NEXT QUEEN’S GATE開幕!」
その荘厳な宣言に、客席が大きく沸いた。興奮した声が幾重にも重なり、地鳴りのように会場を揺らし、その振動は壁を伝い、胸の奥にまで響いてくる。
言い終えると同時に、アリーナの照明が一瞬だけ落ち、暗闇を切り裂くようにテーマ曲のイントロが鳴り響いた。低く重いビートが床を震わせ、続く高揚感あふれる旋律が観客の声と重なり合う。ライトが一斉に点滅し、蜂の巣を模した天井から黄金色のスポットがリングを照らし出す。
場内は一気に総立ちとなり、観客の拳がリズムに合わせて突き上げられる。音楽と歓声と光が渾然一体となって、NEXT QUEEN’S GATEの幕開けを告げていた。
望月と島村は、その圧倒的な熱気にのまれまいと顔を引き締めた。視線を前へ定め、唇をきゅっと結ぶ。二人の内側で緊張と決意がせめぎ合い、瞳には新たな闘志が宿る。
「それじゃ、俺たちはここで見てるからな。二人とも頑張れよ!」
如月が静かに声をかけると、二人は重々しくうなずいた。その動きには、先ほどまでの不安げな影はなく、これから自らの未来を切り拓こうとする覚悟がにじんでいた。
如月が後方へ移動しかけたとき、不意に鋭い声が飛んだ。
「如月!」
その呼びかけに足を止め、如月は振り返る。表情は崩さず、雑談の延長のような軽い調子で「どした?」と返した。
だが、声色の奥にはわずかな緊張が混じっていた。
望月は唇を噛み、わずかに俯いた。視線は定まらず、それでも必死に何かを伝えようとする気配が漂っている。
如月も胸の奥で同じ思いを抱いていたが、それを表に出すことはせず、静かに相手の言葉を待った。如月の瞳には「続きを聞く覚悟」が滲んでいた。
「……ごめん、何でもない」
絞り出すような声でそう告げると、望月は踵を返し、入場口へと歩みを進めていった。その背中はわずかに震えているようにも見えた。
島村は困惑したように眉を寄せ、望月の後ろ姿を追いかけるように見つめる。
カナレとSAKEBIは互いに顔を見合わせ、小首を傾ける。
如月はそんな二人を無言で促すように手を動かし、先導する形で歩き出す。後方のモニターが設置されたスペースまで、足取りはゆっくりだが確かなものだった。
その背中には、望月の言葉を飲み込んだ重さを受け止めるような影が差していた。
モニターを見上げる三人。しかし如月の表情だけは、どこか曇りを帯びていた。唇を引き結び、視線はスクリーンを追いながらも、心は別のところに置いているようだった。
やがて、場内の照明が一斉に落ち、闇が観客席を呑み込む。ざわめきが一瞬だけ凍りつき、その直後、リング中央に鋭いスポットライトが鋭く射し込んだ。まるで舞台の中心を示すかのように、白い光がマットを浮かび上がらせる。
暗闇と光のコントラストに観客が沸き立つ。歓声は割れんばかりの轟音となり、壁や床を震わせる。熱気は押し寄せる波のように一気に膨れ上がり、息をすることさえ忘れるほどだった。
その興奮の渦に重ねるように、再び田辺リングアナのコールがスピーカーから轟き渡る。低くも力強い声が会場全体を支配し、火をつけた。
「それでは、新たに生まれたラーブの面々をご紹介いたします!――選手入場!」
その瞬間、観客の声は爆発し、場内は揺れるような地鳴りに包まれた。会場の空気が一変し、そこにいる誰もが新たな物語の幕開けを直感していた。




