第43話:吸い込まれる理
昼食を終えて関係者入り口のロビーでくつろぐ如月一行。
大きな窓から差し込む午後の光が、磨かれた床に反射して柔らかく広がっている。道場での喧騒が嘘のように、ここは落ち着いた空気が漂っていた。ソファに腰を下ろしたり、壁際に寄りかかったり、それぞれが思い思いの姿勢で休んでいる。
望月が興味津々で先ほどの攻防について聞く。彼女は背もたれから身を起こし、目を丸くして如月の顔を覗き込んだ。
「ねえ、さっきのあれどうやったの?」
声には抑えきれない高揚がにじみ、まるで子どもが秘密を知りたがるような純粋さがあった。
SAKEBIも興味津々だ。足をバタつかせ、前のめりになって如月に食いつく。
「僕も知りたいッス!」
その勢いにロビーの空気がぱっと賑やかになる。
島村も知りたそうに、懇願の表情で如月を見つめている。
口元をきゅっと結び、両手を膝に置いたまま、目だけで「教えてください」と訴えかける。無言の圧に、如月は思わず視線を逸らした。
如月はみんなに、「ほかのやつらには内緒だぞ」と念を押して、先ほどの楓を自分の方向へと吸い込まれる仕組みを説明する。
声は低く抑えているが、その響きには確かな自信があった。三人は食い入るように耳を傾け、息づかいさえ止めてしまいそうだった。
それは今では廃れてしまい、継承されることなく時代とともに消滅したとある流派、所謂古武術に該当する技。
武道の歴史の隙間に埋もれ、今では文献にすら断片的にしか残らない幻の系譜。その一端を如月が実際に体得していると知り、彼女たちの胸はさらに高鳴った。
如月が使った技は相手が力を込めたときに「呼吸・間」で“空振り”させることに特化した術。
相手が攻撃を仕掛けてくる瞬間――呼吸が詰まり、力の流れが一点に凝縮される刹那を狙う。視線、肩の沈み、わずかな息遣いまで感じ取って、あたかも吸い込むように身を運ぶ。
吸い込まれる瞬間に、自分もわざと一歩「前」に吸い込まれる。
だがその一歩は単なる前進ではなく、寸分の狂いもない呼吸の合わせ。あえて危険に踏み込むその動作は、見ている者には不可思議でさえある。
ただし腰と背骨を立てたままなので、相手は「引いたはずなのに、自分の間合いが潰れてしまった」と感じてしまう。
腰骨の芯を微動だに揺らさず、背骨を矢のように立てる――その軸があるからこそ、相手にはまるで自分の空間が押し潰されたような錯覚に陥る。
結果、相手が一瞬“居着き”になるので、それを利用して手首や肘の角度をほんの数度ずらし、さらに足の踏み込み線を半足ずらす。
わずか数度、半歩という差。それだけで人間の体は信じられないほど脆く、動きの流れを奪われる。
それにより、相手の“力の通り道”が変わり、自分にとっての引きの流れが逆転する形になる。
まるで川の流れが一瞬で逆巻くように、相手の力が自らを縛る鎖に変わる――それこそが如月の技の真骨頂だった。
――言い終えたとき、皆は茫然としていた。
望月はSAKEBIに「わかった?」と尋ねるが、SAKEBIは首を横に振り理解できていないようだった。
そして如月が付け加える。口調はあくまで淡々としているが、そこには長い歳月を費やした者にしか出せない重みがあった。
「術式が理解できても、すぐ模倣できるわけでもないしな」
如月はその技の原点を教えてくれた師匠アルフォンスの顔を浮かべながら笑っている。
異国で、厳しくも温かい眼差しを向けてくれたあの師――その声や背中が一瞬よみがえり、口元に自然と柔らかな笑みが宿った。
そしてもう一言付け加えた。
「俺も10年以上かかったからな」
言葉の端々には誇示よりもむしろ謙遜がにじむ。その苦労を思えば、簡単に語れるものではないはずだった。
そんな如月の言葉に望月は突っかかるように言った。
彼女は椅子から半ば身を乗り出し、からかうような笑みを浮かべながらも、どこか驚きを隠せない表情だった。
「それじゃあ、あんた、小学生の頃からそんなことやってたの?」
望月は冗談めかして問いかけたが、その声音には素直な好奇心と尊敬が入り混じっていた。
だが如月は一瞬言葉に詰まる。
――今の自分の姿は十九歳の女性。けれど中身は四十半ばの親父、そんな説明ができるはずもない。
年齢の矛盾を突かれたような気まずさが胸をよぎり、思わず目を逸らす。
「ま、まあ……それは置いといてさ」
曖昧に笑いながら話題を切り替える如月。その仕草は、照れというよりも、何かを誤魔化そうとする大人の苦みを帯びていた。
「それに楓さん……多分あの人のバックボーンは柔道じゃないかな」
如月はその場で立ち上がり、背伸びをしながら言った。
肩甲骨が軽やかに鳴り、細身の体からは想像もつかないほどの張り詰めた空気が漂う。
「俺の技は柔術とかの崩しとは違うからな」
その声音は柔らかかったが、言葉の底には揺るぎない確信があった。
如月の言葉に皆黙ってしまった。返す言葉を探そうとしても、ただ口を閉ざし、目を見開くことしかできない。
いったいどれだけの技術をその体に内包しているのかと考える。
ただの若い身体に見えても、その背後に積み重ねられた歳月と経験は、目の前の自分たちとはまるで別次元のものだと直感してしまう。
そして考えれば考えるほど、自分と如月の差が途方もないと感じてしまう。
距離を測ろうとすればするほど、底の見えない深淵を覗き込むような感覚に襲われ、胸の奥に小さな焦燥と畏怖が同時に芽生えていった。
そんな彼女たちの不安と疑問とは裏腹に、カナレは腕を組んで意気揚々としている。
顎を少し上げ、胸を張り、まるで「全部見通している」とでも言いたげな得意顔。周囲の張り詰めた空気を気にも留めず、ただ一人だけ余裕たっぷりに見えた。
そんな姿を見てSAKEBIがカナレに問い詰めるように聞く。眉をひそめ、両手を広げて呆れたように。
「……カナレはわかってるスか?如月さんの技の仕組みについて」
問いかけには真剣さが滲んでいたが、カナレは気にする様子もなく、ぐっと親指を自分に向けて自信満々に言った。
「全然わかんない!」
その瞬間、場の空気が見事にひっくり返る。張り詰めていた緊張はあっけなく崩れ、三人は同時に脱力し、言葉を失った。
如月は自販機でミネラルウォーターを買うために一度その場から離れる。残った四人は先ほどの技の仕組みについてそれぞれの意見を出し合いながら色々と思案していた。
如月はそんな姿を見てふっと笑顔になり、自販機のある場所へと歩いて行く。
背後には仲間たちのざわめきが残っているが、廊下を数歩進むだけでその声は遠ざかり、静かな空気に切り替わる。蛍光灯の白い光と、自販機の規則的な駆動音だけが周囲を満たしていた。
自販機コーナーの場所にたどり着くと、そこには先客がいるようだった。正面の赤と青の機械に人影が寄り添い、ボタンを押す指がかすかに揺れる。
近づいて行くと、そこにいたのは正美だった。長い髪が肩越しに流れ、機械の光を受けて淡く照らされている。
正美は、お汁粉の缶を手に取り今まさに取り出そうとしていた。
その横顔はどこか物静かで、余計な音を立てない落ち着きがあった。
如月は会釈すると、正美も静かに会釈するだけで言葉はなかった。動作は控えめだが丁寧で、礼を欠かさぬ人柄がにじんでいた。
(……本当に何もしゃべらない人だな……)
如月は正美の隣の自販機でミネラルウォーターを買う。小銭を入れ、ボタンを押すと、内部の機械音が短く響いた。
しゃがんで取り出し口から商品を取ったその瞬間――意外にも正美が口を開いた。
「……調子は良さそうだね……」
透き通るようなか細い声だったが、その響きには気遣いの色が宿っていた。
普段ほとんど声を聞かない正美からの問いかけに、如月は思わずまばたきを繰り返す。小さな驚きと同時に、わざわざ声をかけてくれたことへの温かさが胸に広がった。
如月は正美の言葉に対して受け答えた。
「どうだろうな、体の調子はいいけど、やっぱり格上相手だとうまくいかないな」
率直そうに聞こえる言葉だったが、声にはどこか苦笑混じりの自嘲が滲んでいた。
――もっとも、それは表向きの答えにすぎない。本当の内情までは明かす気など毛頭なく、如月は意図的に軽く言い流したのだ。
正美は如月の言葉に、真剣に耳を傾けたあと、少し考えるように言い返した。
缶を両手で包み込み、目を伏せたまま、しかし迷いなく。
「……嘘はダメ……」
問いかける声音は責め立てるわけでもなく、ただ静かに核心を探ろうとする真摯さがにじんでいた。
まるで相手の言葉の裏を確かめるように――。
だが決して糾弾ではなく、理解しようとする眼差しだった。
その言葉に対して如月は特に気にせず、表情を変えることはなかった。あくまで平然と装い、心の内を悟らせぬまま、軽く受け流す。
自分の本心を隠すことには慣れている――その老練さが、若い外見との間に奇妙な違和感を生んでいた。
正美の表情は何かを射抜くような鋭い目ではあるが敵意はなかった。むしろ、誠実に相手を見極めようとする真面目さがあった。
正美は缶を胸元でそっと握り直し、小さく息を吐いた。
そして口を開く。
「古武術……天地合戦術」
その言葉を聞いて如月の目が大きく見開く。正美の声音は静かだが、真っ直ぐに核心を突いていた。
「でも……天地合戦術は打撃主体の体術……奥が深い」
如月はその問いに答えることなく、話を切り替えた。軽く肩をすくめ、まるで本題を逸らすように笑みを浮かべる。
「正美さんって結構お喋りじゃん。声も可愛いし、もっと喋ったらいいのに」
そういわれると正美の顔は真っ赤になり、そのままうつむいてしまった。照れ隠しのように唇をかすかに噛みしめた。その仕草は優しさを帯びていた。
普段の寡黙さからは想像できない、年頃の少女らしい一面がふとこぼれ落ちる。
そのすきをついて、如月は「じゃあね」といってその場を後にするが、去り際に一言伝えた。
足取りは軽く、挑発にも似た余裕をにじませながら。
「そんなに知りたかったら、リングの上でいっぱい見せてあげるよ。そのナントカ術」
そういってその場を後にする如月。残った正美は胸の奥で静かに息を整え、冷静さを取り戻しながらも、如月への関心と警戒心を改めて深めていた。
だがその眼差しには、敵意よりも「正しく見極めたい」という誠実さが色濃かった。未知の存在を恐れるのではなく、真実を見届けようとする静かな決意に満ちていた。
如月がロビーに戻ると、残っていた四人は先ほどの如月の解説通りにその場で実践している。
ソファの前に立って向かい合い、真剣な顔で足を運ぶ者、手首の角度を確かめる者――皆、子どもが新しい遊びを覚えたときのように夢中になっていた。
その姿を見て如月は困った顔で言う。眉を下げ、苦笑を浮かべながらも声色には本気の心配が混じっていた。
「お姉さん方、どうせやるなら道場でやれば?こんなところで技の練習してたら危ないだろ」
軽口のように聞こえるが、視線はしっかりと足さばきや動作に向けられている。まるで事故を未然に防ごうとする指導者のようだった。
四人は如月の姿を見ると、ぱっと表情を明るくする。そのうちのひとり、望月が真っ先に駆け寄り、如月の手をぎゅっと掴んでみんなのところまで連れてくる。
掴む手には悪意などなく、頼もしさを求める温かさがあった。まるで「先生を捕まえた」とでも言いたげな必死さだった。
珍しく興味を持っている望月に少しの違和感を感じながら、如月はまた面倒に巻き込まれるのではと不安な気持ちで眉をわずかにひそめ心の中でため息をつく。
「如月っち、いいところに来た!」
カナレ意気揚々とした言葉が、その予感がさらに現実味を増していく。勢いに押され、如月の胸中には「嫌な予感しかしない」という警鐘が鳴り響く。
そして矢継ぎ早にカナレがいう。
「こうやるんだよな!」
腕まくりをしながら、期待に満ちた瞳をきらきらと輝かせて――。カナレは子どものような笑顔を浮かべ、何のためらいもなく如月の腕をつかむ。
その瞬間、ギフト《剛腕》が展開された。
ぶわりと盛り上がる筋肉。布の上からでもはっきりとわかる異様な質量に、空気さえ圧し潰されるような威圧感が走った。
「ちょっとまて!」
如月がそういったがすでに遅かった。カナレの《剛腕》の能力と持ち前の怪力を合わせ、容赦なく強引に如月を引っ張る。
楓に使った、静の力とは正反対の、爆発的な“動”の奔流。轟音を立てて空気が裂けるような一撃に近い引き。
すると、如月は残影を残すような形で強引に引っ張られ、その勢いのまま壁際にたたきつけられた。
ドガァン!
背中から突き刺さるような痛みが走り、壁面が小さく震える。粉じんがぱらりと舞い、床に乾いた響きが落ちていく。
硬質な衝撃音がロビーに響き渡り、場の空気が一瞬凍りつく。息を呑む気配だけが広がり、誰一人として声を発せなかった。
「あれ?」
間の抜けたカナレの声が、その沈黙を破った。
ぽかんとした表情で首をかしげる様子は、まるで自分が何をしでかしたのかまるで理解していない子どものようだ。
その場にいた全員が一斉にカナレを振り返り、次の瞬間――冷たい視線が集中する。
張り詰めた沈黙が、いっそう重くのしかかった。
カナレの間の抜けた言葉とは正反対の、SAKEBIの怒号がロビーに響き渡る。
「何やってるスか!そうじゃないって言ってるでしょうが!」
叱責というより怒鳴り声に近く、ガラス窓がびりつくほどの勢いだった。
その迫力に、カナレはさすがに肩をすくめる。
如月は薄れゆく意識の中で思う。視界が揺れ、頭に鈍痛が響きながらも、最後に浮かんだのは呆れきった結論だった。
「……もう……絶対になにも教えない……」




