第42話:老獪なる逆転
如月のヘッドロックがジワジワと楓の頭を締め付ける。腕が側頭部に食い込み、こめかみが軋むように痛む。顎が押し上げられ、頸椎の付け根に鈍い圧迫感が走る。耳の奥では血流が脈打ち、グワングワンと不快な音が響いた。
(……何が起こったの?まるで吸い込まれるように如月の方へと引っ張られた……)
楓は歯を食いしばりながら思考する。引っ張られたわけではない。あの動きは、力づくで引き寄せられたのでも、柔道のように体重を利用されたのでもない。確かに自分の重心が崩されたわけでもないのに――身体だけが如月の方へと吸い寄せられた。
ほんの数秒のためらい。
しかし、その短い間に如月の容赦ない締め付けがジワジワと強まり、頭蓋を万力で締め付けられるような痛みが広がっていく。呼吸が浅くなり、視界の端が暗く染まっていく。
そして、如月は間髪入れずに動いた。片足をずらし、楓の体勢を見極めると、すかさずその足を払う。わずかな重心の揺らぎを見逃さない、鋭い一撃。
その直後片脇に捕らえた状態で、そのまま後ろに倒れこむ。楓の頭部をキャンバスへと叩きつけるような衝撃が走った。
――DDT。
リング下に控えていた選手たちから、思わず息をのむ音が漏れる。緊張が一気に場内を張り詰め、数人は無意識に拳を握りしめていた。
しかし楓は、とっさの判断で身体をひねり、前方回転の要領で衝撃を逃す。背中から転がり込むようにして受け身を取ると、間一髪で頭部への直撃を回避した。キャンバスに長い髪がはらりと散り、息を荒げながらもすぐに姿勢を立て直す。
そして楓が興奮気味に如月を問い詰めた。
「ちょっと!スパーでそこまでやることないでしょ!」
声には怒りと安堵が入り混じり、場の空気を揺さぶった。リング下にいた選手たちも思わず顔を見合わせ、緊張が解けたようにざわめきが広がる。
そういうと如月は徐に立ち上がり、頭をかきながら苦笑交じりに謝る。汗で張りついた髪をかき上げる仕草に、どこか子どものような気安さがあった。
「悪い、あんたがあんまり強すぎるんでスパーってこと忘れてた」
そういうと楓は少しむすっとした顔で言う。頬をふくらませ、視線をそらすその態度は、年上らしからぬ拗ね方だった。
「まぁ、私が本番と同じって言ったけど、もう少し先輩を立ててくれてもいいじゃない……」
楓はむすっと言いながらも、心の奥では冷静に次の一手を探っていた。
彼女は昔から“勝ち”のためなら手段を選ばないタイプだ。平然と芝居を織り交ぜることをいとわない。観客や仲間の目を欺くことさえ、1つの戦術として使いこなしてきた。
そう言ったとたんに、楓の目に涙があふれ始めた。潤んだ瞳がリングライトを反射し、頬を伝う雫が一瞬だけ本物の涙のように見える。
勝つためなら、涙すらも迷わず利用する――それが楓のやり口だった。
そしてそのまましゃがみ込む。肩を小さく震わせ、嗚咽をこらえるような仕草まで加わり、周囲の選手たちをさらに驚かせた。
如月はそれを見ると、眼を大きくして慌てふためき楓のそばまでやってくる。リング下の選手たちも思わず息を呑み、誰もが「泣かせてしまったのか」と一瞬勘違いするほどだった。
しかし――。
如月が手を肩にかけようと身を屈めたその瞬間――隙だらけになった如月を狙い、楓はしなやかに飛びついた。肩口に腕を絡め、体を翻すと、前方回転の勢いで如月を巻き込みながらマットに転がり込む。
――腕挫十字固。
両脚で如月の腕をがっちりと挟み込み、肘関節に鋭いてこをかける。
如月の腕が締め上げられて、観念したように如月はタップする。指先がキャンバスを連打する音が、勝敗の明確な区切りとなった。
楓は即座に技を解いてそのままリングの上で座り込みながら言う。汗に濡れた頬、先ほどまでの涙の名残が光る。
「まぁ、年の功ってやつで、私の勝ち~!」
勝ち誇った笑みとともに、軽やかにピースサイン。リング下からは驚きの声が飛び交った。選手たちは思わず息を呑み、なかには苦笑を浮かべる者もいる。楓の老獪さと瞬発力に、誰もが一瞬あっけに取られていた。
にこりと笑ってピースをして如月を軽く挑発するような顔。リングライトに照らされたその笑顔は、勝利者の余裕に満ちていた。
スパー終了のゴングが鳴る。乾いた金属音が場内に響き、緊張と高揚の空気を締めくくった。
如月は極められた腕をかばうようにして無言でリングを降りる。唇を固く結び、表情に感情を出さぬまま静かに階段を下りていく。
その背中を見送り、リング下の選手たちの間に微妙なざわめきが走った。
別のリングの付近にいる島村と望月が動揺している。肩を寄せ合うようにして、目を丸くしていた。
「如月が負けちゃった……」
望月が言うと島村が言う。
「でも、スパーだし……最後のはプロレスっぽくなかった……」
島村の声は落ち着きを装っていたが、言葉の端に戸惑いがにじむ。プロのリングで叩き込まれたはずの常識が、今の光景で揺らいでいるようだった。
島村も自分で言っている言葉は間違っていると気づいていた。何でもあり、それがプロレス。
どんな状況下でも、どんなことをしてもリングの上では勝ったものが絶対だということを斎藤に叩き込まれていたからだ。
そして、カナレも島村や望月と同じような気持ちでいた。胸の奥がざわつき、試合を見届けた余韻がまだ抜けない。
リングを降りてカナレの方に来る如月の足取りは落ち着いており、その表情は悔しがるわけでもなく、落ち込んでいるわけでもない。
ただ静かに、何かを胸にしまい込んでいるような顔つきだった。
そして、カナレが神妙な趣で如月に言う。
「大丈夫か如月っち……」
声は低く抑えられていたが、パートナーを案じる色がにじんでいた。周囲のざわめきも一瞬遠のくほどに、その問いかけは真剣だった。
そういうと如月は少し笑うだけで何も言わない。口元にかすかな弧を描いただけで、言葉はなく、その沈黙がかえってカナレの胸をざわつかせ、気持ちを不安にさせた。
「無理するなよ……如月っち……」
心配そうにカナレは慰めると眉をひそめ、言葉を探すように視線を泳がせる。
しかし、いつのまにか如月の表情はどこか余裕のあるような顔だった。わずかに細められた眼差しには落ち着きがあり、痛みを隠しているというよりも、むしろ状況を見通しているような光が宿っていた。
「どうしたんだ?」
カナレが思わず問いかける。その声音には、心配と同時に好奇心もにじんでいた。
如月は小さな声で答えた。リング下のざわめきに紛れるほどの囁きで――。
「なんとなく掴めてきた。……けど、今はまだ確信がない。下手に動けば、向こうに感づかれる」
そういうと如月は表情を変えないで冷静な顔で淡々としている。さっきまでの余裕は消え、感情を削ぎ落としたかのような無機質な面持ちだった。
その変化が、逆に「何かを掴んだ」という確信をカナレは感じ取っていた。
カナレは不思議そうに感じるが、如月のことだから何かを理解したに違いないとそれ以上何も言わなかった。胸の奥に釈然としないものを抱えつつも、相棒の確信めいた表情を前にすると、それ以上問い詰められなかった。
「なぁ如月っち、さっき楓さんがまるで引き寄せられるみたいに動いたろ?あれって一体なんだ?」
カナレが問いかけると如月は周囲を一瞥し、手招きして耳打ちを始める。言葉は音にならず、唇の動きとごく小さな声だけがカナレの耳元に落ちていく。カナレは目を見開き、驚きと納得が入り混じったように小さくうなずいた。二人だけの秘密を共有した空気がそこに生まれる。
そんな様子を遠巻きで見ているのは正美だった。試合終了後、赤コーナー側のリング下に移動していた彼女は、タオルを肩にかけたまま、二人のやり取りをじっと観察している。視線は冷ややかで、ほんの一瞬も逸らさない。
楓もリングから降りて、正美のところに行くと、その表情は先ほどと変わって曇ったような表情だった。額には汗が残り、さっきまでの勝ち誇った余裕は影を潜めている。
正美は楓にタオルを渡すと、頭の上にかけて口元が見えないように正美に言う。楓の声は低く、ほとんど吐息に近かった。
「……あの子、意図的にワザと関節を取らせてたよ」
そういうと正美の眉毛がピクリとわずかに動いた。わずかな反応にすぎなかったが、普段滅多に感情を表に出さない彼女にとっては、それだけでも異例だった。
「なんか探ってるみたいだった……」
正美は表情を変えないが、じっと楓の方を見る。深く澄んだ眼差しが、言葉よりも雄弁に「続きを話せ」と促しているようだった。楓はその視線を正面から受け止め、思わず肩をすくめる。
「それに、あの吸い込まれるような感覚……アレの正体を掴めないのが一番厄介だよ……」
そういうと楓はタオルを手に取り、そのまま首にかけた。汗を拭った布がしっとりと肌に張り付き、試合の余韻をまだ残している。
そしてその目線は如月とカナレの方に向いていた。二人はまだ、何かを相談しているようなそぶりだった。身を寄せ合い、声を潜める姿は、周囲から見てもただならぬ秘密を共有しているように映った。
特に如月には警戒気味の楓だが、表情にはそれを出さない。口角を上げて微笑し、挑発とも冗談とも取れる軽さを装いながら、如月に言う。
「お~い如月、正美がいるけど、スパーの続きやるかい?」
その声音には明るさが混じっていたが、瞳の奥には鋭い探る色が隠されていた。
そういうと如月は手を横に振り、あっさりと断った。言葉を添えることもなく、ただ一度の仕草で。
楓は残念そうな顔をするが、正美は特に気にすることなく自分の練習メニューをこなすためにその場を離れた。まるで先ほどのやり取りなど些細なことに過ぎないと言わんばかりだ。
そして、楓も正美の後を追うように歩き始めて正美に言う。足取りは軽いが、その声色には刺すような鋭さが混じっていた。
「要注意だよあの子……何か感づいてる……」
楓の言葉に対して正美は何も言わない。だが視線はわずかに鋭さを帯び、心の奥では楓以上に如月を警戒している。沈黙は、楓の言葉を肯定する以上の重みを持っていた。
如月の周りにいつもの面々が集まってくる。リング下に自然と輪ができ、仲間たちの表情には安堵と心配が入り混じっていた。
「如月、大丈夫?」
望月が言うと、如月は片手を軽く上げて合図し、大丈夫と伝える。その仕草は淡々としていて、声を出すまでもないというような余裕さえ感じさせた。
「やっぱり楓姉さんは強いッスね……」
楓の強さを認めながらも、その言葉は、どこか如月に対して気を使っているように聞こえる。望月の表情は柔らかいが、その瞳には心配がにじんでいた。
如月はその場で立つと、特に何事もなかったようにその場でスクワットを始めた。腕を大きく振り、勢いをつけながら深く腰を下ろして、リズミカルに行う。足がマットを踏むたび、規則的な音が響き、まるで「問題ない」と周囲に示すかのようだった。
その様子を見て、島村が心配そうに言う。唇を噛み、視線を如月の腕に注ぎながら――。
「如月さん、腕大丈夫なんですか?」
島村の問いに如月は大げさに腕を動かしながら、腕の心配はないというようにアピールした。
肩から肘、手首までを大きく回し、わざと派手に振り回してみせる。見ている側が苦笑してしまうほど誇張された仕草だったが、それだけに「本当に平気なのか」と安心させる力もあった。
「向こうさんが仕掛けてきたから、のってやったまでよ」
如月の頼もしい言葉に触発されるかのように、カナレがすかさず胸を張り、誇らしげに。大きく背筋を伸ばし、両手を腰に当てて、まるで自分が勝者であるかのように堂々としゃべる。
「ちゃんと支点をずらしてたからノーダメージだ」
まるで自分のことのように誇らしく得意げな表情は、如月をかばうというよりも、あたかも自分が勝ち誇っているかのようで周囲の仲間たちを思わず笑わせた。
肩をすくめて苦笑する者もいれば、吹き出しそうになって口元を押さえる者もいる。その反応に気をよくしたカナレは、さらに胸を張り、ますます堂々とした態度を取った。
そうするとSAKEBIが言う。
「あれ?さっきまで心配そうだったのに、今は随分と余裕があるじゃないッスか」
揶揄いの笑みを浮かべながら肩をすくめ、声には煽りがにじむ。
SAKEBIの言葉に突っかかり、掴みかかるカナレを、SAKEBIはひらりとかわしてからかうように笑う。軽やかに身を引き、ほんの一瞬の間合いを遊ぶように。
まるでカラスがトンビをあしらうようなその仕草に、周囲の仲間たちから小さな笑いがこぼれた。
如月は二人のやり取りを横目に見ながら、すでに次の対戦を意識して気持ちを切り替えていた。視線はリングを漂い、頭の中ではすでに戦いのシミュレーションが始まっている。
さっきまでの勝敗はただの通過点。悔しさも、痛みも、全て次に繋げる燃料に変わっていた。
カナレという頼もしい相棒を味方にして。
その存在はただ隣に立つだけで、如月の心を大きく支えていた。豪快で単純、時に暴走気味な彼女だが、その明るさと底なしのパワーは、如月にとってこれ以上ない後ろ盾だった。勝負の場で背を預けられるという確信が、何よりの武器になる。
カナレがそばにいる限り、自分は折れない――。
如月の表情は静かだが、その奥に灯る闘志は、誰よりも強く燃えていた。




