第108話:いつものみんな
食事を終えた如月たちは、食堂に併設されたフリースペースで食後の休憩を取っていた。
腹を満たして満足したのか、カナレは眠たそうに目を細めると、隣に座っていた如月の肩へそのまま身体を預けた。
その様子を見たSAKEBIが、すぐさま声を上げる。
「カナレ!失礼ッスよ!それに如月さんは怪我してるんッスから!」
だが、カナレはSAKEBIをちらりと見ただけだった。
そして、注意されたことが気に入らなかったのか、今度は隣の研美へさらに身体を預けるようにして目を閉じた。
「まったく……」
SAKEBIが呆れたように息を吐く。
その一方で研美は、肩にもたれかかるカナレを咎めることなく、ただ優しげな笑みを浮かべて見つめていた。
すると、その隣にいた望月が思い出したように口を開いた。
「そういえばカナレ。あんた、昨日戻ってから如月にちゃんと『ただいま』って言ったの?」
研美と如月の試合が行われるまで、カナレは家出同然の形で如月のもとを離れ、SAKEBIや望月の部屋へ居候していた。
自分の身勝手な行動について、戻ったら如月へきちんと謝るように。
望月たちは、以前からそう言い聞かせていたのだ。
その問いに、カナレはゆっくりと目を開いた。
わずかに頬を赤くしながら、小さく頷く。
そして、それ以上は何も言わず、恥ずかしさを隠すように再び目を閉じた。
すると、SAKEBIがすかさず悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「カナレ!如月さんに『これからも、またご厄介をおかけします』って、三指立ててちゃんと言ったッスか!?」
その瞬間。
閉じられていたカナレの目が、勢いよく見開かれた。
「何なんだ、お前は!」
研美の肩から飛び起きると、そのままSAKEBIへ飛びかかる。
「何で、お前にそんなことまで言われなきゃいけないんだ!」
カナレは見事なタイミングでSAKEBIの背後へ回り込み、その首へ腕を巻きつけた。
「ぐえっ!」
完璧なチョークスリーパーだった。
「実際そうでしょって……ま、参ったッス!タップ!タップしてるッス!」
SAKEBIは慌ててカナレの腕を叩く。
だが、カナレは一向に技を解こうとしない。
「まだ言うかコイツ!」
「もう言わないッス!言わないから離してほしいッス!」
二人の騒ぎを、研美はやれやれといった表情で眺めていた。
周囲にいた選手たちも止める様子はなく、また始まったと言わんばかりに笑っている。
そのとき。
食堂の入り口から、新たな人影が姿を現した。
先頭に立っていたのは皇だった。
そして、その後ろには付き添うように、楓と正美の姿もある。
皇はカナレたちの騒ぎを目にすると、安堵したように笑みを浮かべた。
「いつものみんなに戻ってくれて、私は嬉しいよ」
そう言って、三人は如月たちの近くにある席へ腰を下ろした。
その途端、皇が大きく息を吐く。
どこか憔悴しきった表情だった。
疲労の色を濃くにじませながらも、その気だるげな横顔は妙に艶めかしい。
普段の皇からは想像もつかない姿に、如月たちは少し驚いたように顔を見合わせた。
すると楓が、拘束具に包まれた如月の姿へ目を向ける。
そして、半ば呆れたように眉を寄せた。
「如月。なんだい、その有様は……」
拘束具で上半身を固定された如月は、何も言わずに楓をじっと見つめている。
楓は深いため息をつくと、如月のもとへ歩み寄った。
そして、人差し指でその額をちょんとつつく。
「矢取さんの言うことは、ちゃんと聞かないと駄目だよ。あとが怖いんだから」
その恐ろしさを身をもって味わった如月は、何も言い返さなかった。
すると研美が、疲れ切った様子の皇へ声をかける。
「お疲れさま。大変だったね」
その言葉を聞いた途端、皇の表情が崩れた。
「そうなんですよ、先輩!」
まるで助けを求めるように研美へ抱きつき、その肩へ顔を埋める。
普段は常に落ち着き払い、他人へ隙を見せない皇。
そんな皇が研美へ甘える姿を目の当たりにして、周囲の若手たちは驚いたように目を見開いた。
だが、研美にとっては慣れた光景らしい。
戸惑う様子もなく皇の背中を優しく撫で、まるで子供をあやすように穏やかな声をかけていた。
本田の緊急記者会見は、最初からKDPへ喧嘩を売るかのような口調で進められていた。
これまでKDPから受けてきた数々の妨害。
目先の利益ばかりを優先する育成方針。
一部の主力選手へ依存した、選手層の薄さ。
そして挙げ句には、社長である藤沢の人間性にまで言及したのである。
KDPから受けた妨害への抗議ならば、まだ理解できる。
しかし、それ以降の発言は、業界最大手の団体へ向けられた明らかな挑発だった。
「斎藤さんは止めてくれないし、私は引きつりそうになる顔を、笑顔のまま保つので必死だったんですよ……」
皇は研美へ抱きついたまま、力なく言葉を続ける。
その憔悴しきった様子を見て、島村は慌てて席を立った。
そして、冷たい水を用意すると、皇へ差し出す。
「皇先輩、どうぞ」
皇は島村へ感謝するように片目を閉じた。
「ありがとう」
コップを受け取ると、そのまま当然のように如月の膝の上へ腰を下ろした。
「先輩……」
如月が困惑した声を漏らす。
「俺、重傷患者なんですけど……両腕、使い物にならないんですけど……」
だが、皇は聞こえないふりをして、まるで意に介さなかった。
如月の膝に深く腰を落ち着けると、冷たい水を一気に飲み干す。
「はぁ……生き返る……」
満足そうに息を吐く皇の下で、如月は何もできないまま黙って耐えていた。
その様子を横目に、望月が皇へ昼食のメニューを伝える。
「皇先輩、お昼は何にします?」
だが、皇は力なく首を横へ振った。
「まだ胃の痙攣が治まらなくてね……涼子さんに特製のスムージーを頼んであるから。それだけで大丈夫だよ」
どうやら、会見中に受けた精神的な負担は、想像以上に大きかったらしい。
食堂には、穏やかな時間が流れていた。
朝から続いていた慌ただしさも、今だけは影を潜めている。
選手たちは思い思いに身体を休めながら、束の間の静けさに身を委ねていた。
だが、その穏やかな空気を無視するように、如月が低い声で訴えた。
「人の膝の上でくつろぐな。重いから、降りろ……」
皇はその言葉にむっとしたように眉を寄せると、不満そうに頬を膨らませた。
それでも如月の膝からは素直に立ち上がると、今度はカナレと如月の間へ腰を下ろした。
すると、テレビ画面へ目を向けていた研美が感心したように口を開く。
「しかし、社長もやるねぇ。普段は無口なのに、まさかあそこまで言うとは思わなかったよ」
それを聞いた楓が、静かに頷いた。
「まあ……これで、後には引けなくなりましたね」
その言葉に続き、正美が小さな声で呟く。
「……最初から、引くつもりなんてない……」
皇、楓、正美。そして研美も。
本田の会見によって生じる苦労が、これから自分たちへ降りかかってくることは理解していた。
それでも、表情に迷いはない。
Queen Beeのロイヤルガード、クィーンとして。
そして、この団体の守護者として。
一度売った喧嘩から、退くつもりなど誰にもなかった。
くつろぐ若手や同期生たちも次第にその勢いへ飲み込まれていった。
そのとき、厨房の出入り口から、トレーを手にしたスタッフが姿を現す。
トレーの上には、大きなグラスに注がれたスムージーが載せられていた。
マスクと衛生キャップに隠れ、顔はほとんど見えない。
だが、如月にはその体つきだけですぐに分かった。
以前、厨房の片づけを手伝った際、最後まで残って働いていた、あのスタッフだった。
軽やかな足取りで如月たちのもとへ近づくと、その人物は爽やかさをそのまま声にしたような明るい調子で言った。
「皇、はい。涼子さん特製スムージー、大盛り~」
差し出されたグラスを受け取り、皇は嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます、先輩!」
皇はゆっくりとグラスへ口をつけた。
一口ずつ、冷たい液体を身体の隅々まで染み渡らせるように飲んでいく。
その姿は妙に絵になっていた。
そして、あまりにも美味しそうに飲む皇の姿を見て、隣で見ていた研美まで欲しくなったらしい。
両手を合わせ、厨房スタッフへ声をかける。
「ミチル。私にもスムージーお願い!」
「はいよ!」
明るく返事をすると、ミチルと呼ばれたスタッフは空になったトレーを手に、足取り軽く再び厨房へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、カナレがふと首を傾げる。
「……ミチル……?」
その一言に、SAKEBIたちが一斉に顔を見合わせた。
何か思い当たるものがあったのか、周囲がざわつき始める。
最初に声を上げたのは望月だった。
「ミチルって……あの、与那……ミチル?」
その名を知らない者はいなかった。
かつて研美と死闘を繰り広げ、再起不能とも思えるほどの重傷を負った選手。
その与那ミチルが、今は涼子のもとで厨房スタッフとして働いている。
あまりにも予想外の事実に、カナレたちは驚きを隠せなかった。
「だって……ミチル先輩は……」
島村の脳裏に、以前、資料室で聞いた矢取の言葉がよみがえる。
『一応、対戦相手のミチル君は、私の応急処置で一命を取り留めたが……日常生活が困難な状態になった……』
その言葉と、先ほど軽やかな足取りで歩いていた姿が、どうしても結びつかなかった。
「何かお困りごとかね、君たち」
突然、背後から声が聞こえた。
如月たちが座るソファの反対側。
隣り合わせに置かれたもう一脚のソファから、矢取がむくりと顔を覗かせた。
カナレたちは、その姿を見るなり目を見開く。
「びっくりした!矢取さん!いつからそこにいたんだよ!?」
カナレの問いに、矢取は面倒そうに眉を寄せた。
「何を言っているんだね、カナレ君。ここは私の特等席だよ」
何かあれば、このソファで横になりながら資料をまとめる。
仕事に疲れれば、そのまま昼寝をする。
矢取にとっては、以前からそうして使っているお気に入りの場所らしい。
ゆっくりと身体を起こした矢取は、如月たちの前まで歩いてくると、電子タバコを咥えた。
深く吸い込むと、いつもの甘い香りが辺りへ広がっていく。
「カナレ君。君は、また妙な勘違いをしているようだね」
矢取は腕を組み、堂々と胸を張った。
「私は、こう言ったはずだよ。ミチル君は『日常生活が困難な状態になった』と」
カナレたちは、意味が分からないといった顔で矢取を見つめている。
その間にも、電子タバコの先端にあるLEDが赤く点滅し始めた。
「……む」
どうやら、バッテリーが切れたらしい。
矢取は説明を中断すると、スペアの電子タバコを探すべく、白衣のポケットを次々と探り始める。
もったいぶったところで話を止められ、カナレは苛立ったように声を上げた。
「矢取さん!だから、それがどういう意味なんだよ!」
矢取は動きを止め、カナレをじっと見つめた。
そして、理解の悪い生徒を相手にする教師のように、深いため息をつく。
「あのね、カナレ君」
ようやく内ポケットから予備の電子タバコを見つけ出すと、矢取はそれを咥えた。
「確かに私は、ミチル君が『日常生活が困難な状態になった』とは言った」
一度、言葉を区切る。
「だが、『今もその状態だ』とも、『完治する見込みがない』とも、一言も言っていないよ?」
「……は?」
カナレたちは、揃って間の抜けた声を漏らした。
矢取は予備の電子タバコを満足そうに吸い込み、甘い香りとともに煙を吐き出す。
つまり矢取が語っていたのは、あくまで負傷した直後の状態だった。
それを聞いたカナレたちが、勝手に現在も回復していないと思い込んでいただけなのである。
「何だよ、それ!あんな状況でそんなこと聞かされたら、普通勘違いするだろ!」
カナレが声を荒らげて猛抗議する。
だが、矢取はまるで気に留めた様子もなく、腕を組んだまま、ただ納得したように何度も頷いていた。
「なるほど。確かに、そう受け取ったとしても不思議ではないね」
あまりの矢取のいい加減さにカナレがさらに詰め寄ろうとした、そのときだった。
「お待ちどおさま~」
厨房のほうから、明るい声が聞こえてきた。
研美のスムージーを載せたトレーを手に、ミチルが軽やかな足取りで戻ってくる。
「はい、研美。涼子さん特製スムージー、お待ちどうさま」
「ありがと、ミチル」
研美はグラスを受け取ると、事情をすべて理解しているような笑みを浮かべた。
だが、何も口にはせず、負傷した指を気にしながらスムージーを少しずつ味わうように飲み始める。
一方、カナレたちの視線はミチルへ集中していた。
先ほどまで、日常生活すら困難な状態にあると思い込んでいた人物が、目の前で何事もなかったかのように立っている。
あまりにも元気なその姿を、カナレたちは信じられないものを見るように見つめていた。
いくつもの視線を浴びたミチルが、不思議そうに首を傾げる。
「何?どしたの?あぁ……あんたたちもスムージー飲みたいの?」
カナレは勢いよく立ち上がると、ミチルの手を両手で握り締めた。
「良かった……本当に良かった!」
「えっ?何が?」
事情の分からないミチルは、困惑したように目を瞬かせている。
そんな一連のやり取りを、皇と正美は何も言わずに眺めていた。
だが、楓だけは我慢の限界だった。
「きゃははは!もう駄目!我慢できないよ!お腹がよじれるぅぅ!」
腹を抱え、目尻に涙を浮かべながら笑い始める。
カナレは訳が分からないといった顔で楓を見た。
「何がおかしいんだよ?」
すると、スムージーを飲んでいた研美が、ゆっくりとグラスから口を離した。
「矢取さん、昔からああなんだよ」
矢取は怪我の状態を説明するとき、必要以上に深刻に聞こえる言葉を選ぶことがある。
もちろん、嘘をついているわけではない。
むしろ、矢取が口にする最悪の可能性は、医学的に見ればどれも正しかった。
ミチルが負った傷も、決して軽いものではない。
一命を取り留めたこと自体が奇跡に近く、たとえ命が助かったとしても、通常の医師であれば日常生活への復帰すら困難と判断していた。
ただし。矢取は、並の医師ではなかった。
どれほど深刻な損傷であろうと、残された可能性を見つけ出し、常識では考えられない水準まで回復させる。
本人が絶望的な状態をそのまま口にできるのも、そこから治し切るだけの腕を持っているからだった。
矢取は、その時点で起きている症状や、考えられる最悪の事態を、あえて強く印象へ残るように伝える。
そうすることで、本人だけでなく周囲の人間にも、事態の重さを理解させる。
治療へ真剣に向き合わせ、二度と同じ失敗を繰り返させないために。
時には、落ち込んでいる選手たちの緊張感や闘志を呼び戻すため、あえて場を深刻な空気へ持ち込むことさえあった。
深刻な診断を突きつけておきながら、最後には何事もなかったかのように治してしまう。
それが、矢取という医師だった。
研美の説明を聞き、皇が呆れたように笑う。
「まんまとやられたね」
その言葉でようやく事情を察したのか、ミチルも納得したように頷いた。
「ああ、いつもの矢取さんのあれか」
だが、矢取は何事もなかったかのように電子タバコを吸いながら、満足そうに目を細めていた。
どうやら今回も、狙いどおりだったらしい。
如月も少し安心したのか、深く息を吐く。
「ったく……やってくれるぜ」
すると矢取は、如月へ視線を向けた。
「搦め手は、君だけの専売特許ではないということだよ」
そう言って、わずかに口元を緩める。
「だから君も、しばらくは大人しくしていたまえ」
如月は何も言い返せず、拘束具に固定されたまま、苦々しそうに矢取を見つめていた。
「だったらこれ、外して」
「駄目」
間髪を入れない返答だった。
矢取は如月の言葉を最後まで聞こうともせず、電子タバコを咥えたまま背を向ける。
「君の場合、少しでも自由を与えれば、次は固定具をつけたままブリッジでも始めかねないからね」
如月は不満そうな顔でうつむいた。
図星だったのか、その場にいた誰もが疑わしげな目を向けている。
「……何だよ、お前ら。その目は」
誰からともなく笑い声が漏れた。
それをきっかけに、フリースペース全体へ明るい笑いが広がっていく。
如月は納得がいかない様子で顔をしかめていたが、やがて諦めたように深く息を吐いた。
食堂のテレビでは、本田の記者会見が繰り返し報じられている。
Queen BeeとKDP。
両団体による大きな戦いは、すでに動き始めていた。
それでも今だけは。
食堂に響く仲間たちの笑い声が、これから訪れる激しい日々を忘れさせていた。




