第109話:鍛え直すもの
カーン!
キィン!
カーン!
小気味よいリズムを刻みながら、金属を打ちつける甲高い音が工房に響き渡っていた。
薄暗い室内を照らしているのは、炉の中で燃え盛る炎だけ。
パチパチと松炭が弾け、舞い上がった火の粉が暗闇の中へ赤い軌跡を描いて消えていく。
鞴が動かされるたびに新たな空気が送り込まれ、弱まりかけた炎が唸りを上げて燃え盛った。
そのたびに、工房の壁も、吊るされた道具も、真紅の光に照らし出される。
鞴を操っているのは、一之進だった。
額から流れる汗を手の甲で拭いながら、炉の中にある鋼の色と沸された音を確かめ、一定の間隔で風を送り続けている。
その傍らでは、一人の人物が大槌を大きく振りかぶっていた。
炎に照らされた頬を汗が伝い、握り締めた柄へ雫となって落ちていく。
振り下ろされた槌が、金床に置かれた光り輝く鋼を正確に捉えた。
甲高い音とともに火花が弾け、彼女の顔を一瞬だけ鮮やかに照らし出す。
それでも動きは止まらない。
一之進の合図に合わせ、指定の箇所へ、寸分違わぬ一撃を重ねていく。
大槌を振るっていたのは、如月。
肌寒い季節だというのに、工房の中は炉の熱で息苦しいほどに温められていた。
燃え盛る炎は絶え間なく二人を照らし、汗で濡れた肌へ赤い光を映し出している。
その後方では、元が折り畳み椅子へ深く腰を下ろし、二人の作業を黙って見守っていた。
助言を口にすることもなければ、注意を飛ばすこともない。
ただ、一之進の鞴の間合いと、如月が振り下ろす槌の角度。
そして、鋼を打つたびに返ってくる音へ、じっと耳を澄ませていた。
「……よし!」
納得のいくところまで折り返し鍛錬を終えたのか、一之進が満足そうな笑みを浮かべる。
槌の音が止むと、それまで工房を満たしていた熱気の中へ、外から入り込む冷たい空気がわずかに混じった。
外には雪こそ降っていないものの、肌を刺すような寒さが広がっている。
金床の上で真っ赤に燃えていた鋼も、次第に光を失い、ゆっくりと熱を落としていった。
後ろで見守っていた元も、仕上がりには満足したらしい。
何も言わないまま、ただ小さく縦に一度だけ頷いた。
「ふぅ……」
如月は大槌の頭を床へ下ろすと、柄へ体重を預けるようにして一息ついた。
胸元に掛けていたタオルで顔の汗を拭い、荒くなった呼吸をゆっくりと整えていく。
「申し訳ないね、如月君。こんなことまで手伝ってもらって」
一之進が苦笑を浮かべながら声をかけた。
如月が研美の実家へ身を寄せるようになってから、すでに2週間が経っていた。
両腕の固定具が外れて以降、如月は矢取や斎藤の目を盗んでは、自室や人の少ないトレーニングルームへ足を運び、一人で汗を流していた。
腕を使わずに行うスクワット程度であれば、矢取や斎藤も黙認していた。
だが、それで如月が満足するはずもない。
やがてプッシュアップへ手を出し。
ロープ登りを始め。
挙げ句の果てには、カナレたちが青ざめて止めるなか、皇相手にスパーリングまで始める始末だった。
治療中の患者とは思えない暴走ぶりに、さすがの矢取も堪忍袋の緒が切れた。
トレーニング器具もなければ、相手になってくれる選手もいない場所。
そして何より、如月が無茶を始めても、感情的にならず、冷静に止められる人間がいる場所。
如月が勝手に身体を追い込むことのできない環境へ、半ば強制的に隔離する必要があると判断したのである。
そこで候補に挙がったのが、研美の実家だった。
研美自身も、傷が完全に癒えるまでは実家で静養したほうがいいと言う斎藤の提案に、誰も異論はなかった。
ただし。
その本当の目的が、研美の療養以上に如月の暴走を止めることにあったとは、研美も当初は思っていなかった。
「いや、横綱。こっちもいい鍛錬になって、ちょうどいいですよ」
タオルで顔の汗を拭いながら、満足そうに答えた。
如月が口にした鍛錬とは、鋼を鍛える作業のことではない。
大槌を正確に振り下ろし、狙った場所へ寸分違わず力を伝える。
足腰で身体を支えながら、全身の気力を一撃へ集約させる。
その一連の動作を、自らの身体を鍛え直すための修練として捉えていたのである。
療養のために遠ざけられた先ですら、鍛える手段を見つけてしまう。
そんな如月の、修練に対する尽きることのない情熱に、一之進は感服したように笑った。
一方の斎藤は、もはや止めても無駄だと悟ったのか、「もう知らん」と半ば諦めながら黙認していた。
「しかし、この鍛冶という仕事も、なかなか面白いですね」
如月は、ゆっくりと熱を失っていく鋼へ目を向けながら、興味深そうに呟いた。
一之進は、そんな如月を嬉しそうに見つめている。
「炎の中で熱せられて、叩かれて、少しずつ形を変えていく……」
如月は金床の上に置かれた鋼へ視線を落とした。
「そうやって最後には、一振りの刃になる。まるで、私たちみたいですね」
その言葉を聞き、一之進は静かに頷いた。
後ろで見守っていた元も、長く伸びた白い顎髭を撫でながら、感心したように目を細めている。
「我々と同じ、か……」
一之進はもう一度、熱の残る鋼へ目を向けた。
「確かに、そうかもしれないな」
熱に耐え。
何度も打たれ。
余分なものを削ぎ落としながら、より強い形へと変わっていく。
その過程は、日々の鍛錬を重ねる彼らの姿と、どこかよく似ていた。
工房には、先ほどまで響いていた槌の音が嘘のような静けさが訪れていた。
燃え残った松炭が、ときおり小さく弾ける。
三人が濃密な時間の余韻に浸っていると、母屋のほうから明るい声が飛んできた。
「とーちゃーん!爺ちゃーん!如月ー!ご飯できたよー!」
研美の声だった。
その瞬間、如月の表情がぱっと明るくなる。
「飯だ!」
先ほどまで鋼を見つめていた真剣な眼差しはどこへやら。
如月は大槌を片づけると、一之進たちを促すように母屋へ向かって歩き始めた。
一之進と元も顔を見合わせ、小さく笑う。
工房に残る熱気を背に、三人はそろって母屋へ戻っていった。
母屋の玄関へたどり着いた、そのときだった。
大きな長屋門のほうから、一人の少女が勢いよく駆け込んでくる。
「はぁ……はぁ……」
息を切らせながら走ってきたのは、カナレだった。
どうやら、朝のランニングを終えて戻ってきたらしい。
「カナレ君、ご苦労さま」
一之進が労うように声をかける。
カナレは肩で息をしながらも、ゆっくりと顔を上げた。
そして呼吸を整えつつ、嬉しそうに笑った。
如月が研美の実家で療養すると聞いた途端、カナレも一緒に行くと言って聞かなかった。
周囲がどれだけ止めても、一歩も引こうとはしない。
結局、斎藤が監督役として同行することを条件に、合宿という名目でカナレも鈴木家へ厄介になっている。
「腹減ったぁ……」
肩で息をしながら訴えるカナレの姿を見て、三人は思わず笑みをこぼした。
如月が母屋のほうへ顔を向ける。
「ちょうど昼飯ができたみたいだぞ」
その一言を聞いた途端、カナレの顔がぱっとほころんだ。
先ほどまでの憔悴しきった表情は、もうどこにも残っていなかった。
座敷へ入ると、卓上にはすでに料理が所狭しと並べられている。
研美と斎藤が、手際よく昼食の準備を整えていた。
「うわぁ~、うまそう!」
カナレは今にも料理へ飛びつきそうな勢いで身を乗り出した。
だが、その瞬間。
「カナレ」
斎藤の鋭い声が飛ぶ。
「先に手洗いと、うがいだ」
「……はーい」
注意されたカナレは渋々返事をすると、隣にいた如月の服の裾を掴んだ。
「ほら、如月っちも行くぞ」
「あいよ……」
如月は抵抗することもなく、カナレに引かれるまま、一緒に洗面所へ向かっていった。
一之進と元はすでに手を洗い席へ着き、そんな二人のやり取りを微笑ましそうに眺めていた。
ほどなくして如月とカナレも戻り、全員が席へそろう。
皆で手を合わせた。
「いただきます」
カナレは炊きたてのご飯が盛られた茶碗を手に取ると、待ちきれない様子で口いっぱいに頬張った。
噛むたびに、幸せそうに頬が緩んでいく。
食卓には、海の幸から山の幸まで、色とりどりの料理が所狭しと並んでいた。
カナレはその中からイクラの入った器を見つけると、スプーンですくい、白いご飯の上へたっぷりと載せる。
艶やかな粒が、湯気の立つご飯の上で鮮やかに輝いた。
それを豪快に頬張り、満足そうに目を細める。
一之進は、そんなカナレの食べっぷりを嬉しそうに眺めていた。
「それだけ美味しそうに食べてもらえれば、鮭も成仏できるよ」
一之進の横で味噌汁をすする元も頷く。
この日の食卓に並んでいる食材は、すべて一之進の後援会から贈られてきた天然ものだった。
培養肉や人工的に生産された食材が一般的となったこの世界でも、相撲界には天然の食材を口にする文化が今なお残されている。
それは、ただ古い慣習へ固執しているからではない。
かつて生きていた命をいただき、その力を自らの血肉へ変える。
食事の前に手を合わせ、食材となった命と、それを届けてくれた者たちへ感謝する。
相撲界にとって天然の食材を口にすることは、命の重みを忘れないための大切な教えでもあった。
皆が思い思いに箸を動かしていると、一之進がふと思い出したように顔を上げる。
「そうだ、斎藤さん。如月君たちには、もう知らせたんですか?」
一之進の計らいにより、近いうちにQueen Beeの選手全員が鈴木家へ招かれることになっていた。
来たるKDPとの決戦を前に、選手たちを労い、英気を養ってもらうためだという。
斎藤がその話を説明していると、隣で食事をしていたカナレが如月へ顔を向けた。
「そういえば、如月っち。楓さんたちの試合結果、知ってるか?」
如月が首を横へ振ると、カナレは待ってましたとばかりに話し始める。
先日行われた、BHCタッグ選手権試合。
王者である楓、正美組に挑んだのは、山崎と藤堂。
楓と正美は、王者らしい隙のない連係と完璧な試合運びで、序盤から試合の主導権を握った。
だが、山崎と藤堂も簡単には崩れなかった。
これまでに見せたことのない粘りと根性で、何度追い込まれても立ち上がり、王者二人へ必死に食らいついていったという。
両チームの意地がぶつかり合い、観客の熱気が最高潮へ達した、そのとき。
最後は楓が得意とする関節技――大和蔓で、関節技の名手として知られる山崎から見事にタップを奪った。
如月と研美によるBHCシングル王座戦。
そして、楓と正美が山崎、藤堂を迎え撃ったBHCタッグ王座戦。
業界内では、どちらも今年のベストバウト候補ではないかと、早くも囁かれていた。
カナレの話を聞きながら、如月は黙々と箸を動かしていた。
だが、その表情にはどこか煮え切らないものが浮かんでいる。
楓たちの活躍が、素直に羨ましかった。
同時に、自分だけがリングから取り残されていくような不安もあった。
身体は、確実に回復していた。
まだ本調子とは言えないものの、長年リングに立ち続けてきた経験から、自分の身体の状態は誰よりもよく分かる。
このまま順調に回復すれば、あと数週間もあればリングへ戻れる。
如月自身は、そう感じていた。
しかし。
あの矢取が、それを許すはずもない。
最初に告げられたとおり、3か月間はリングへ上げてもらえないだろう。
すでに療養へ入ってから数週間が経っているとはいえ、復帰までには、まだ2か月以上も残されている。
その長さが、どうしても納得できなかった。
如月は不満を押し込めるように、目の前のたこと里芋の炊き合わせを豪快につまみ、そのまま口へ放り込んだ。
「……うまい」
気づけば箸は止まらず、不満などどこかへ吹き飛んでいた。
食事を終えると、如月たちは手分けして後片づけを始めた。
カナレと斎藤も食器をまとめ、広い調理場の洗い場へと運んでいく。
鈴木家の母屋は、かつては武家屋敷であり、築300年の古民家を改築したものだった。
敷地内に本格的な稽古場こそないものの、大勢の客を迎えても窮屈さを感じさせないほどの広さを備えている。
調理場も例外ではない。
古い梁や柱を残しながら、内部には最新式の調理器具が隙なく設置されていた。
大人数の食事を一度に用意できる設備は、Queen Beeの厨房にも引けを取らない。
「にしても、すげえな。研美先輩の家」
如月は感心したように辺りを見回しながら、研美の隣で食器を洗っていた。
「とーちゃんの知り合いとか、なでしこの子たちも、たまに泊まりに来るからね」
研美は慣れた手つきで皿を洗い、次々と如月へ渡していく。
如月は受け取った皿の水気を布巾で拭きながら、しみじみと息を吐いた。
「やっぱり横綱ってのは、何もかもスケールが違うな。羨ましいよ」
その言葉に、研美が苦笑する。
「何言ってんだい。あんただって今じゃ、ウチのシングルチャンピオンじゃないか」
研美は皿をすすぎながら、何でもないことのように続けた。
「Queen Beeくらいの規模なら、シングル王者の待遇は大手企業の役員クラスだよ」
如月の手がぴたりと止まる。
「……役員?」
この世界では、国が主導してギフターを管理している。
ギフターが出場するプロレス興行には、公的な資金も投入されており、その注目度と経済規模は、如月がいた世界のプロレスとは比較にならなかった。
ましてや如月は、Queen Beeの頂点に立つBHCシングル王者である。
「だったら……俺も?」
恐る恐る尋ねる如月に、研美は当然のように頷いた。
「そうだよ。私が王者だったときで、月に800万円から900万円くらい、お給料があったからね」
「は……はっぴゃ!……」
如月の視界が、一瞬揺れた。
危うく手にしていた皿を落としかけ、慌てて布巾ごと抱え込む。
「ちょっと、大丈夫かい?」
研美は呆れたように笑った。
元の世界でプロレスラーをしていた頃、総合格闘技ブームの終焉とともに、プロレス人気は少しずつ回復し始めていた。
それでも、選手の収入が十分だったとは言い難い。
食べることに困ったり、アルバイトを掛け持ちしたりする必要はなく、本業に専念できた。
だが、危険と隣り合わせの仕事であることを考えれば、同年代と比べても決して多いとは言えなかった。
生活に治療費やトレーナー代。
身体の維持に必要な食事やコスチューム。
稼いだ金の多くは、レスラーとして生き続けるために消えていった。
その頃の苦労を思い出し、如月の目頭がわずかに熱くなる。
すると研美が、横目で如月の顔を見ながら言った。
「そんなにこの家が気に入ったなら、私と結婚するかい?」
「えっ?」
唐突に投げかけられた言葉に、如月は目を見開いた。
もちろん、研美にとっては軽い冗談だった。
しかし、まったく心構えのできていなかった如月は、顔を引きつらせる。
「あの……俺、今は一応女なんですけど……」
その言葉に、研美はわずかに眉を動かした。
特に引っかかったのは、「今は」という部分だった。
だが、深く追及することはせず、洗いかけの皿を手にしたまま、声を上げて笑った。
如月が顔を赤くしていると、少し離れたところに、食器を抱えたカナレが立っていることに気づく。
無言のまま、じっとこちらを見つめていた。
明らかに怒っている。
如月と目が合った途端、カナレは抱えていた食器を近くのシンクへ置き、そのまま調理場から出ていってしまった。
「……どうしたんだ、あいつ?」
突然の態度に、如月は訳が分からないという顔で首を傾げる。
すると研美が、呆れたように笑った。
「鈍感だねぇ。やきもち焼いてんだよ」
「やきもち?」
如月には、いまひとつ意味が理解できなかった。
研美戦を迎えるまで、如月とカナレの関係はひどくぎくしゃくしていた。
一時は離れ離れになりながらも、試合を経て、ようやく元の鞘へ収まった二人。
以前のような関係へ戻ったはずだった。
しかし、カナレの胸には、まだ完全には消化しきれていない感情が残っていたのだろう。
自分が如月のそばを離れていた間に、研美との間へ生まれた信頼。
そして今、二人が親しげに話している姿。
それが、どうにも面白くなかったらしい。
「難しい年頃だしね。それに、タッグってのは案外、絶妙な均衡の上に成り立ってるもんなんだよ」
研美は洗った皿を如月へ渡しながら、穏やかに続けた。
互いに信頼しているからこそ、些細なことで不安にもなる。
自分が相手にとって一番近い存在なのか、確かめたくなることもある。
研美の話を聞き、如月も何となく腑には落ちた。
だが、理由が分かったところで、どうすればいいのかまでは分からない。
如月は困ったように頭を掻いた。
「仕方ねえなぁ……」
渋々といった様子で呟く如月に、研美は顎で調理場の出口を示した。
「ほら、行ってきな」
如月は手にしていた布巾を置くと、カナレのあとを追って調理場を出ていった。




