第107話:先手
KDP社長室。
重厚な応接机を囲むように、藤沢、成田、そして南場の三人が顔をそろえていた。
話題となっているのは、一昨日、Queen Beeで行われたBHCシングル王座戦。
如月麗と研美が繰り広げた、あの凄絶な一戦だった。
「まあ……ワシの目で見ても、ありゃ相当な選手やで」
ソファへ深く腰を沈めた南場が、腕を組みながら言った。
その口調に、いつもの悪意や誇張はない。
如月に対する、忖度のない率直な評価だった。
「ワシは研美が勝って、カヲルの対戦相手になると思てたんやけどなぁ……」
南場は忌々しそうに壁をにらむ。
自分の予想が外れたこと。そして、研美以上に厄介な選手が姿を現したことを、内心では警戒しているようだった。
すると、向かいに座っていた成田が不機嫌そうに眉を寄せる。
「南場。お前、カヲルが負けるとでも言いたいんか?」
低い声で問い詰められ、南場も即座に言い返した。
「アホ!誰もそんなこと言ってないやろ!」
その返答に迷いはなかった。
だが、南場は一度、言葉を切った。
「せやけど……少し引っ掛かることがあるのも事実や……」
それまで黙って二人の会話を聞いていた藤沢の瞼が、わずかに動いた。
普段は閉じられているその目が、ほんの少しだけ反応を見せる。
「何や?」
成田が尋ねると南場は腕を組んだまま、試合を思い返すように天井を仰いだ。
「研美の強さは、ワシの予想以上やった」
なでしこ相撲の横綱として培った圧倒的な足腰。
相手を逃がさない組みの強さ。
そして、BHCシングル王者として積み上げてきた経験。
南場の目から見ても、研美の実力は本物だった。
「……それ以上に予想外やったんは如月の方や」
藤沢の表情は変わらない。それでも、南場の言葉をひとつも聞き逃してはいなかった。
「あの娘、まだ19歳やろ?」
南場の声が、わずかに低くなる。
「それが、あそこまでの駆け引きと胆力を持っとる。技術だけ見ても、若手の域やない。下手なベテランより、よっぽど場数を踏んどる動きや」
相手の呼吸を読む。
技を受ける瞬間に損傷を最小限へ抑える。
両腕を折られながらも、最後まで勝つための手順を組み立て続ける。
どれも、デビューから数か月の新人が身につけられるものではない。
「何より……最後や」
南場はそこで、ゆっくりと身を乗り出した。
「研美に見舞った、あの妙な技」
社長室の空気が、わずかに変わった。
藤沢の閉じられた目が、再び小さく動く。
「あれは……プロレスや格闘技の技とちゃうで」
南場は険しい顔で続けた。
「打撃とも違う。見た目だけで言えば抜き手に近いけど……」
研美の身体を破壊するための一撃ではなかった。
その内側にある何かへ、直接手を伸ばすような技。
南場には、そう見えていた。
「なんや……体系的な解釈で言えば古武術に近いんとちゃうかあれは……」
藤沢は何も答えない。
ただ、静かに南場の言葉を聞いていた。
南場の説明を聞き終えた成田は、ため息をつき、やや不機嫌そうに眉を寄せていた。
如月を警戒するような物言いが、気に入らないのだ。
しかし、それでも南場の意見を軽んじることはなかった。
南場は、目の前で起きた攻防を一瞬で分析し、わずかな動作や違和感から、必要な情報を正確に拾い上げる。
さらに、古今東西の格闘技や武術にも異常なまでに精通していた。
人間性には大いに問題がある。だが、その観察眼と知識だけは、誰もが認める超一流だった。
成田も、そのことだけは誰よりも理解していた。だからこそ、なおさら気に入らなかった。
すると、それまで一言も発しなかった藤沢が、静かに口を開いた。
「つまり……対研美戦用にウチらが考えてたプランは、意味がなくなったってことやね」
淡々とした口調だった。
声を荒らげたり、表情を崩しりもしない。
それでも、その一言は妙に冷たく響き、成田と南場の胸へ言い知れぬ不安を残した。
重くなった空気を振り払うように、成田が口を開く。
「まあ……そうやが、でも、興行的には盛り上がるんとちゃうか?」
取り繕うような言い方だった。
すると南場も、それに乗るように身を乗り出す。
「そ、そや!チャンピオンを倒した敵対勢力のホープとカヲルの一戦や!これは金になるで!うん!」
必死に明るさを取り戻そうとする二人。
だが、藤沢は何も答えなかった。
いつもの笑みを浮かべたまま、ただ静かに黙り込んでいる。
その沈黙が、かえって二人を落ち着かなくさせた。
やがて、息苦しいほどの緊張感が社長室を満たしていく。
その張り詰めた空気を破ったのは、室内に置かれたテレビだった。
最初に異変へ気づいたのは、南場だった。
「……ん?」
応接スペースでは、音量を絞った状態で経済情報番組が流されていた。
だが、番組が終了した直後。
画面が突然切り替わった。
赤い文字で大きく表示されたのは――。
『緊急記者会見』
その文字の下に映し出された人物を見て、南場が目を見開く。
壇上に立っていたのは、本田だった。
「なっ……なんじゃい、これは?」
成田が驚きの声を上げる。
藤沢もゆっくりとテレビ画面へ顔を向けた。
その瞬間。
先ほどまで崩れることのなかった表情が、わずかに変わった。
壇上の本田は、集まった報道陣を前に、淡々と言葉を続けていた。
会見の内容は、Queen BeeがKDPに対しての宣戦布告。
そして、両団体のシングル王者同士による一戦についてだった。
会見の内容を理解した瞬間、成田の顔が怒りに歪む。
「南場ぁ!」
怒号が、社長室を震わせた。
名を呼ばれた南場は、慌ててソファから身を起こした。
「どういうことや、これは!」
成田がテレビ画面を指さし、南場を怒鳴りつける。
南場をこの場へ引き入れたのは、豊富な情報網を使ってQueen Beeの動きを探らせるためだった。
興行計画や選手の動向。記者会見の準備など、わずかな兆候でも事前に掴み、Queen Beeに先手を取らせない。
それこそが、南場へ与えられていた役目だった。
南場の情報源は業界の内外へ幅広く張り巡らされている。
団体関係者はもちろん、会場、スポンサー、広告代理店、報道機関に至るまで、あらゆる場所から情報を得ることができた。
だが、今回は違った。
「ま、待ってくれや!」
南場も狼狽しながら、必死に言い返した。
「ワシの情報網にも、何ひとつ引っ掛からんかったんや!こんな会見、いつ準備したんかも分からへん!」
Queen Beeは、南場の情報網に察知されることなく、会見の準備を進めていた。
そしてKDPが動くよりも早く、頂上決戦を公の場へ突きつけたのである。
KDPもまた、水面下でQueen Beeとの頂上決戦を計画していた。
研美とカヲル。両団体の王者をぶつけることで、業界の主導権を一気に奪う。
子飼いの団体が持つベルトを研美が奪取したと言う名目で。
そのための興行計画を、藤沢たちは密かに進めていたのだ。
だが。
研美が如月に敗れたことで、すべての前提が崩れた。
そして、KDPが新たな対戦計画を練り直すよりも早く、本田が先に動いた。
KDPが仕掛けるはずだった頂上決戦を、Queen Beeの側から公に突きつけたのである。
完全に、先手を取られていた。
本来、Queen Beeが記者会見を開き、他団体への挑戦を表明することなど前代未聞だった。
他団体とはほとんど関わらず、興行、王座戦、すべてを団体内部で完結させてきたQueen Bee。
その代表である本田が、わざわざ報道陣を集め、自らKDPへ宣戦布告したのだ。
如月が研美を破り、新王者となった直後。
世間の注目が最高潮に達している、この瞬間に。
まさに、仕掛ける時機を完璧に見極めた会見だった。
成田が南場を厳しく叱責していると、藤沢が静かに立ち上がった。
その気配に気づき、二人が同時に藤沢へ顔を向ける。
そして、言葉を失った。
いつもなら、柔らかな笑みを浮かべたまま閉じられているはずの目が、今は大きく見開かれていた。
ただ、それだけだった。それにもかかわらず、先ほどまでとは明らかに何かが違っていた。
藤沢はテレビ画面に映る本田の姿を、瞬きもせずに見つめている。
やがて、静かに一言だけ呟いた。
「やってくれたなぁ……夢路……」
その声に、露骨な怒りは感じられなかった。
むしろ、あまりにも冷静だった。
だからこそ、成田と南場には、その言葉が怒鳴り声よりも恐ろしく聞こえた。
藤沢はテレビ画面から視線を外すと、ゆっくりと南場へ顔を向ける。
「南場さん……申し訳ないんやけど、1つ調べてほしいことがあるんですわ」
口調は、どこまでも穏やかだった。
だが、その静けさがかえって南場の背筋を冷たくする。
「な、何や……?」
額に冷たい汗を浮かべながら、南場は藤沢の言葉へ耳を傾けた。
Queen Beeの食堂では、朝の練習を終えた選手たちが、一斉に昼食をかき込んでいた。
食堂内に設置された大型テレビには、別館の会議室で行われている本田の緊急記者会見が映し出されている。
画面の中では、本田が壇上に立ち、集まった報道陣を前に言葉を続けていた。
その少し後方には、斎藤と皇の姿も見える。
これから始まるKDPとの頂上決戦。
それを見据え、選手たちは今朝から普段以上に、過酷なトレーニングを行っていた。
激しく消耗した身体へ栄養を流し込むように、誰もが大盛りの昼食を黙々と口へ運んでいる。
だが、視線だけはテレビ画面へ釘づけになっていた。
カナレたちも、いつもの席を囲みながら、会見の一部始終を見守っている。
食事の手を止める者はいない。
それでも、画面から本田の声が流れるたび、食堂の空気がわずかに引き締まっていった。
そのとき。
「なぁ……」
隣から聞こえた弱々しい声に、カナレたちが一斉に振り向いた。
そこには、申し訳なさそうな表情を浮かべた如月が座っていた。
「俺……どうやって食べればいいんだろうか……」
両腕には、研美戦で負った骨折を固定するための頑丈な固定具が取りつけられている。
それだけではない。
如月の上半身には、両腕を不用意に動かさないよう、身体ごと固定する拘束具のような装具まで装着されていた。
当然、箸を持つことなどできるはずもなかった。
自室での療養を許された如月は、カナレに付き添われて部屋へ戻っていた。
問題は、今朝だった。
目を覚ました如月は、何事もなかったかのように道場へ向かったのである。
カナレをはじめ、周囲の者たちが何度止めても聞く耳を持たなかった。
「腕が使えなくても、脚は動くだろ」
そう言い残し、如月は道場へ姿を現した。
そして到着するなり、いつものようにスクワットを始めたのである。
腕を固定具で覆われた如月が、無表情のまま黙々と屈伸を繰り返している。
その異様な光景に、道場にいた選手たちは揃って目を白黒させていた。
ほどなくして、斎藤が現れた。
如月の姿を目にした瞬間、その場の空気が凍りつく。
「如月……」
斎藤は地の底から響くような低い声で言った。
「お前は、何をやっている?」
如月は悪びれる様子もなく答えた。
「練習前のスクワットですけど何か?」
その返答を聞いた斎藤の眉間に、深い皺が刻まれる。
すると、斎藤の後ろから矢取が姿を現した。
如月の姿を見るなり目を見開き、次の瞬間にはスタッフを呼びつけていた。
「確保おぉぉ!」
如月はその場で取り押さえられ、医療室へ強制的に連行された。
そして、二度と勝手な真似ができないよう、現在のような厳重な固定具を追加されることになったのである。
「自業自得だよ」
事情を思い出したカナレが、腹を抱えてケラケラと笑う。
如月は何も言い返せず、目の前に置かれた朝食を恨めしそうに見つめていた。
その様子を見た望月が、呆れたように口を開く。
「笑ってる場合じゃないでしょ。カナレが食べさせてあげなよ」
カナレは戸惑いながらも箸を手に取ると、ご飯をつまみ、如月の口元へ運んだ。
だが、慣れない手つきではうまくいかない。
ご飯は如月の口へ届く寸前で箸からこぼれ、そのまま膝の上へ落ちてしまった。
「……はぁ」
如月が深いため息をつく。
「何やってんだか」
望月は呆れたように言うと、何の悪びれもなく如月の皿から唐揚げをひとつつまみ、そのまま自分の口へ運んだ。
「あっ!お前、それ俺の唐揚げ!」
如月が抗議の声を上げる。
だが、望月は気にした様子もなく、満足そうに唐揚げを咀嚼していた。
すると、その背後から声が聞こえた。
「スプーン使いなよ、カナレ」
振り返ると、そこには研美が立っていた。
試合で負った傷は少しずつ癒え始めているようだったが、両手の指にはまだ包帯が巻かれている。
その痛々しい姿を見て、SAKEBIが心配そうに声をかけた。
「先輩、大丈夫ッスか?」
カナレや周囲の選手たちも、次々と研美へ視線を向ける。
「まだ休んでいたほうがいいんじゃないですか?」
「食事、持ってきましょうか?」
「椅子、こっち空いてますよ」
誰も試合のことを責めようとはしない。
いつもと変わらない様子で研美を迎え、当たり前のように世話を焼こうとしていた。
研美はそんな後輩たちを見渡すと、困ったように眉を下げた。
「あんたら、本当に優しいねぇ……」
試合が終わったあと、研美は覚悟していた。
自分を制御できず、如月へ深刻な傷を負わせた。
あれほど凄惨な姿を見せたのだから、軽蔑されても仕方がない。
後輩たちから恐れられ、距離を置かれるかもしれない。
そう思っていた。
だが、誰一人として研美を避けようとはしない。
傷を心配し、食事や席のことを気遣い、以前と変わらず声をかけてくれる。
まるで一昨日の出来事など関係ないとでもいうように。
研美は、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じていた。
「……ありがとね」
小さく呟くと、研美は後輩たちへ穏やかな笑みを向けた。
すると、ベッド代わりの椅子に座らされた如月が、不満そうに口を開く。
「俺のほうが重傷なんだけど……」
その言葉に、望月が呆れたような目を向けた。
「あんたは元気なんだから、心配する必要ないでしょ」
「……」
如月は何も言い返せず、力なく項垂れる。
その様子を見た研美が、くすりと笑った。
「ほら、如月。あーん」
研美はスプーンでご飯をすくい、如月の口元へ運ぶ。
如月は素直に口を開けると、それを満足そうに頬張った。
そして飲み込むなり、視線だけを唐揚げへ向ける。
「次、それ食べたい」
「はい、はい」
研美は慣れた手つきで唐揚げをスプーンの端を使って半分に割ると、如月の口元へ差し出した。
如月は再び口を開け、嬉しそうにそれを頬張る。
その様子を、カナレは黙ったまま見つめていた。
自分がうまく食べさせられなかったことに納得していなかった。
そして、研美が如月の世話を焼いている姿を見て嫉妬していた。
何も悪いことではない。
それでもカナレの頬は、わずかに膨らんでいた。
そんな一部始終を、厨房に立つ涼子が眺めていた。
如月へ甲斐甲斐しく食事を運ぶ研美。
それを面白くなさそうに頬を膨らませて見つめるカナレ。
周囲で笑い合う選手たち。
厨房で鍋を握る涼子は何も言わず、ただ優しく目を細めた。
ここしばらく、Queen Beeには重苦しい空気が流れていた。
選手たちはそれぞれに迷い、傷つき、互いの顔色をうかがうことが増えていた。
食堂には、以前と変わらない笑い声が響いている。
涼子は胸の奥で、そっと安堵した。
Queen Beeに、ようやく明るさが戻ってきたのだ。




