第106話:王者の目覚め
早朝。
新聞を片手に、スーツ姿のサラリーマンたちが駅へ向かって歩いている。
折り畳まれた朝刊の一面には、大きな見出しが躍っていた。
『如月麗、研美を破り新王者に!』
昨夜行われたBHCシングル王座戦。
そこで如月が研美を破り、新たなチャンピオンとなったという知らせは、多くの者にとって衝撃的なものだった。
「これ、本当に如月が勝ったのかよ……」
「デビューして、まだ数か月だろ?」
興奮を抑えきれないサラリーマンたちが、新聞を覗き込みながら声を弾ませる。
通学途中の学生たちも、スマートフォンに表示された記事を見せ合いながら、昨夜の試合について口々に語っていた。
「最後の膝、やばかったよな!」
「両腕を折られてたのに、あそこから勝つなんてあり得る?」
街のいたるところで、如月と研美の名が飛び交っていた。
デビューからわずか数か月。
ハニーカースト最下層のラーブに属する新人が、団体最高峰の王者を破る大金星。
それは、女子プロレス界の歴史を塗り替えかねない出来事だった。
一方、業界内では早くも心ない声が上がっていた。
『Queen Beeによる話題作りではないのか』
『新人を売り出すため、あらかじめ勝敗が決められていたのではないか』
如月のあまりにも急激な躍進を疑い、八百長疑惑を唱える記者もいた。
だが、その主張に真っ向から反論する者も少なくない。
相手は、元なでしこ相撲の横綱。
数々の輝かしい実績を持ち、BHCシングル王者として君臨していた研美である。
その研美が、実績もない新人を売り出すためだけに、無抵抗で敗れるはずがない。
ましてや、昨夜の試合で二人が負った傷は、演技などという言葉で片づけられるものではなかった。
疑惑を唱える者。
それを否定する者。
議論は平行線をたどり、決着のつかない水掛け論となっていた。
それでも、目の肥えたファンたちは知っている。
あの戦いに、作られたものなど何ひとつなかった。
如月も。
研美も。
本当に相手を倒すため、持てるすべてをリングへ置いてきたのだ。
あの戦いは、本物だった。
Queen Beeの道場には、朝早くから選手たちの荒い呼吸が響いていた。
「腰を落とすな!身体を一直線に保て!」
斎藤の鋭い声が飛ぶ。
「そこで止まるな!あと10回!」
隣では安西が手を叩き、選手たちを鼓舞していた。
床へ一定の間隔で並んだ選手たちは、それぞれプッシュアップバーを握り、黙々と腕立て伏せを続けている。
汗が床へ滴る。
腕が震える。
それでも、誰一人として動きを止めない。
「九十八……!」
「九十九……!」
「百……!」
最後の1回を終えた選手たちが、力尽きたように床へ伏せる。
だが、その列の中に、如月の姿はなかった。
いつもなら誰よりも無茶な速度で身体を動かし、斎藤に止められてもなお続けようとする姿があるはずだった。
今日は、その場所だけが空いている。
誰も口にはしなかった。
それでも、道場にいる全員が、その空白を意識していた。
Queen Beeの医療施設。
白いカーテンで仕切られた静かな病室、如月はベッドに横たわっていた。
折れた両腕は厳重に固定され、胸元まで掛けられた白いシーツの上へ置かれている。
その傍らでは、矢取が机へ向かい、カルテへ細かな文字を書き込んでいた。
室内に響くのは、ペン先が紙の上を走る音だけ。
如月は、眠り続けている。
試合を終えてから、一度も目を覚ましていなかった。
やがて、わずかに開いた窓から、潮の匂いを含んだ風が吹き込んだ。
風に揺らされた白いカーテンが、静かに膨らむ。
その隙間を抜けた涼しい風が、如月の頬をそっと撫でた。
「……ん」
如月の指先が、わずかに動いた。
閉じられていた瞼が震える。
そして。
ゆっくりと、如月の目が開いた。
矢取のペン先が止まる。
「やあ。お目覚めかな、如月君」
声をかけられても、如月はすぐには反応しなかった。
白い天井を、ぼんやりと見つめている。
見慣れない天井。
鼻をつく消毒液の匂い。
身体へ取りつけられた器具の、規則正しい電子音。
それらを確かめるように視線を巡らせたあと、如月は小さく呟いた。
「……戻るわけねえか」
一瞬だけ、思ってしまったのだ。
目を覚ませば、すべてが終わっているのではないか。
如月麗の身体ではなく。
Queen Beeの医療室でもなく。
元の世界へ戻り、新崎英二として目を覚ましているのではないかと。
だが、現実は何ひとつ変わっていなかった。
矢取は少し不思議そうな顔で如月を見つめていたが、すぐに椅子から立ち上がった。
如月のそばへ歩み寄り、メディカルディスプレイに表示されたバイタルを確認する。
矢取の指が画面へ触れるたび、表示される数値や波形が手早く切り替わっていく。
脈拍。
血圧。
呼吸数。
そして、レストアタイムの反応値。
矢取は一つひとつの項目へ目を通しながら、慎重に状態を確かめていた。
如月はベッドへ横たわったまま、その姿をじっと見つめている。
あまりにも長く視線を向けられていることに気づいたのか、矢取が顔を如月に向ける。
「どうしたのかな?何か気になることでも?」
如月は答えなかった。
ただ、再び目を閉じる。
身体を動かそうとはしない。
いや。動かせなかった。
全身が鉛のように重い。
呼吸をするたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。
そして何より、両腕から、ほとんど感覚が伝わってこない。
そこに腕があることも分かる。
だが、自分のものではないように、ひどく遠く感じられた。
如月は目を閉じたまま、静かに悟っていた。
自分の身体は、思っていた以上に深刻な状態であると。
だが、如月の不安を察したのか、矢取は安心させるように笑みを浮かべた。
「腕のことなら心配ないよ。この様子なら、1週間ほどで固定具は外せる。ただし、リングへ戻るまでには3か月は必要だからね」
その言葉を聞いた瞬間、如月は大きく目を見開いた。
「……1週間?」
「ああ。白血球数、血中酸素濃度ともに良好。止まっていたレストアタイムも、すでに動き始めている」
矢取はメディカルディスプレイへ表示された数値を確認すると、どこか嬉しそうな表情を浮かべながら、再びカルテへペンを走らせた。
規則正しく紙を擦る音が、静かな医療室へ響く。
「しかし、君はすごいな」
不意にそう言われ、如月は矢取へ視線を向けた。
「受けたダメージそのものは深刻だ。だが、骨の折れ方が非常にきれいなんだよ」
矢取はカルテを書き終えると、椅子から身を乗り出し、如月の顔を覗き込むようにして続けた。
「研美君が無意識に力を逃がしていた部分もあるだろう。だが、それだけじゃない」
矢取の視線が、厳重に固定された如月の両腕へ向けられる。
「君も、少しでも損傷を抑えられるように立ち回っていたね?」
如月は何も答えなかった。
だが、研美に両腕を取られた瞬間のことは覚えている。
逃げようと腕を引けば、関節へ加わる力が大きくなり、骨だけでなく筋肉や腱まで引き裂かれる。
だから如月は、あえて研美の身体へ密着した。
逃げるのではなく、技を受け入れるように距離を詰め、腕に加わる捻じれと角度を少しでも調整したのだ。
折られること自体は避けられない。
ならば、少しでもきれいに折られる。
あの一瞬で、如月はそう判断していた。
矢取は、如月の沈黙を肯定と受け取ったらしい。
「確かに、相手へ密着すれば、骨折による損傷や折れる位置をある程度は調整できる」
感心したように何度も頷く。
「理屈ではね。だが、実際に骨を折られようとしている瞬間にそれをやってのける人間なんて、まずいないよ」
矢取はまじまじと如月を見つめた。
「普通は恐怖と痛みで身体を引いてしまう。それを逆に踏み込んで、最小限の損傷へ抑えるなんて……いやあ、実に興味深い」
先ほどまで如月を診察していた医師の目ではない。
卓越した技術と攻防を目の前にし、好奇心を抑えきれなくなったプロレスマニアの目だった。
「しかも、両腕を折られたあとも、あれだけの動きを――」
矢取の顔が、さらに近づいてくる。
如月はその異様な圧に押されながら、どう反応すればいいのか分からず、わずかに顔を背けた。
そのとき。
――ガチャリ。
医療室の扉が開いた。
入ってきたのは、朝の練習を終えたカナレたちだった。
その後ろには、本田と斎藤。
そして、すでに自分の足で歩けるまでに回復した研美の姿もあった。
「如月っち!」
大きな声が、医療室いっぱいに響いた。
「カナレ君!病室では静かに!」
矢取が人差し指を立て、口元へ当てる。
「あっ……」
カナレは慌てて両手で口を押さえた。
如月はまだ身体を起こすこともできない。
それでも枕の上で頭だけを動かし、カナレたちのほうへ顔を向けた。
「……心配かけたみたいで」
素っ気ない言い方だった。
だが、それがかえって如月らしかった。
カナレたちはベッドのそばまで歩み寄ると、如月の顔を心配そうに見つめた。
何人もの視線を一身に受け、如月は居心地が悪そうに目を伏せる。
すると、その後ろから本田と斎藤も如月の顔を覗き込んだ。
二人とも何も言わなかった。
だが、その表情には、如月が無事に目を覚ましたことへの安堵がはっきりと浮かんでいた。
どこか少しやつれて見える。
昨夜から、まともに休んでいないのかもしれない。
如月はそれに気づいたが、何も言わなかった。
そのとき。
研美が一歩、前へ出た。
申し訳なさそうに眉を下げ、如月を見つめる。
「如月……本当に、ごめんなさい」
そう言うと、研美は腰を折り、深く頭を下げた。
そして、示し合わせたかのように、本田と斎藤も同時に頭を下げる。
「……え?」
カナレたちは目を丸くした。
如月もまた、突然のことに言葉を失う。
あの本田や斎藤が、選手へ頭を下げている。
しばらくの沈黙のあと、本田が口を開いた。
「今回の件は、私と斎藤さんの責任です」
低く、重い声だった。
「私たちの判断で、貴方を危険な目に遭わせてしまいました」
続いて、斎藤が言う。
「本来ならば、私たちは選手を守る立場。それにもかかわらず、選手の身の安全より、団体の事情を優先してしまった」
本田は頭を下げたまま、さらに言葉を続ける。
「KDPの勢いに対抗しなければならない。その焦りに、私たち自身が呑まれていました」
団体の名誉。
BHCシングル王座。
目前に迫るKDPとの頂上決戦。
それらを意識するあまり、最も守るべき選手のことを見失っていた。
「結果として、貴方一人にすべてを背負わせてしまいました」
本田の声が、わずかに沈む。
「責任は、私たちにあります」
研美も頭を下げたまま、両手を強く握り締めていた。
誰も顔を上げようとしない。
その光景を見つめていた如月は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
そして、わずかに笑った。
「別に、謝らなくていいですよ」
本田たちの肩が、わずかに動く。
「これが俺たちの仕事なんですから」
如月は、いつもと変わらない口調で言った。
リングへ上がるり、相手と向き合う。
そして、勝つために、自分のすべてを懸ける。
それは誰かに強制されたからではない。如月自身が選んだことだった。
「それに……」
如月は少し困ったように目を逸らした。
「いつまでもそうやって頭を下げられてると、居心地悪いんで」
そして、ぶっきらぼうに付け加える。
「もう、頭を上げてください」
その言葉を受け、本田たちはゆっくりと顔を上げた。
すると斎藤が、ベッドのそばへ一歩近づき如月の頬へ、そっと手を添えた。
「私は……お前を張り倒してしまったな……」
斎藤は、これまで誰にも見せたことのないような、悲しげな表情を浮かべていた。
「こんなに綺麗な顔へ……本当に、申し訳ない」
普段の斎藤からは、想像もできない姿だった。
鬼のようなシゴキ。
容赦のない指導。
何があっても揺らぐことのない、鉄の女。
如月が知る斎藤は、常に厳しく、強い人間だった。
その斎藤が今、自分の頬へ優しく触れ、心から傷ついた顔をしている。
どう反応すればいいのか分からず、如月は落ち着かない様子で視線を逸らした。
「俺のことはいいですから!本当に……」
小さく、どこか恥ずかしそうに言う。
斎藤は如月の頬から手を離した。
それでも、しばらくの間、優しげな目で如月を見つめていた。
やがて、その視線が隣に立つカナレへ向けられる。
「カナレも……」
「え?」
カナレが目を丸くする。
斎藤が口にしているのは、カナレへ気合を入れるために行った、あのスパーリングのことだった。
倒れたカナレの腹を踏みつけ、容赦なく追い込んだ。
あのときのことを、斎藤は気に病んでいたのだ。
「申し訳なかった。痛かっただろう……」
寂しそうに告げる斎藤を前に、カナレは戸惑ったように如月へ視線を向けた。
如月は何も言わず、ただ小さく頷く。
カナレも斎藤へ向き直ると、気遣うように優しく笑った。
「斎藤さん……別に何ともないよ」
そして、自分の腹へ軽く手を当てる。
「普段から鍛えてるから、あれくらい平気だよ」
病室に、静かな時間が流れた。
誰も大きな声を出さない。
ただ、互いが無事であることを確かめ合うような、穏やかな空気が満ちていた。
如月は、その空気の中で不思議な感覚を覚えていた。
これまで、あまり味わったことのない感覚。
誰かに心配され、誰かが自分のために頭を下げ。
無事に目を覚ましたことを、心から喜ばれる。
なぜか、ひどく懐かしく感じられた。
ふと、如月は病室の机へ目を向けた。
そこには、黄金の光を放つ、BHCシングルベルトが置かれていた。
本田が静かに口を開く。
「これは、あなたのベルトですよ。如月麗」
如月は、何も言わずにベルトを見つめた。
自分が王者になった。頭では理解している。
だが、まだ実感はなかった。
歓声の中で掲げたわけでもリングの中央で腰に巻いたわけでもない。
こうしてベッドへ横たわったまま、少し離れた机の上に置かれたベルトを眺めているだけだった。
それでも、黄金に輝くそのベルトから、確かな重みが伝わってくるように感じられた。
如月は本田たちの後ろに立つ研美へ目を向けた。
研美は如月の視線に気づくと、穏やかに微笑んだ。
そして、何も言わずに小さくウインクをする。
それはまるで、そのベルトを託した。次はあんたの番だ。そう告げているようだった。
研美から如月へ。
BHCシングルベルトが、正式に受け継がれた瞬間でもあった。
静かな余韻が病室を包む。
矢取によれば、如月の容態はすでに安定している。
固定具をつけたままではあるものの、医療室へ入院し続ける必要はなく、今後は自室へ戻って療養することが許されるという。
矢取は念を押すように、如月へ告げた。
「3か月何もしてはいけないよ……」
それは医師としての絶対的な命令だった。
何とも形容しがたいプレッシャーの中その空気を破ったのは、やはりカナレだった。
「よし!」
突然の大声に、矢取の眉がぴくりと動く。
「これからは、如月っちの看病は私がするぞ!」
胸を張って宣言するカナレに、如月はわずかに目を見開いた。
その説明を聞いたSAKEBIが、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あれぇ?カナレはQueen Beeを辞めるんじゃなかったッスか?」
「なっ……!」
カナレの顔が、一瞬で赤くなる。
「それは……その……!」
SAKEBIはさらに口元を吊り上げた。
「荷物までまとめてたッスよね?」
「うるさい!」
カナレは恥ずかしさをごまかすようにSAKEBIへ飛びかかると、そのまま勢いよくヘッドロックを決めた。
「ちょっ、痛いッス!病人の前ッスよ!」
「誰のせいだ!」
「カナレ君!病室では静かにしたまえ!」
矢取の注意が、医療室いっぱいにこだまする。
如月は騒がしくじゃれ合う二人を眺めながら、わずかに口元を緩めた。
再び、開いた窓から潮の香りを含んだ風が吹き込んでくる。
白いカーテンが、柔らかく揺れた。
新たな王者が生まれ、止まりかけていた仲間たちの時間が、再び動き始める。
その風の向こうから、新しい時代へと動き出す音が確かに聞こえた。




