第105話:まずは、ひとつ
Queen Beeの多目的会場、その正面広場。
会場内へ入りきれなかったファンたちのために、急遽用意された巨大な特設スクリーンが設置されていた。
広場を埋め尽くした人々は、スクリーンに映し出される如月と研美の激闘を、固唾を呑んで見守っていた。
あまりにも壮絶な試合だった。
両者が繰り出す一撃。
飛び散る血。
何度倒れても立ち上がろうとする、異常なまでの執念。
その凄惨さに、試合中は誰もが声を失っていた。
しかし、決着の余韻が広場を包むにつれ、押し殺されていた熱が少しずつ人々の身体を突き動かし始める。
「最後の膝、見たかよ……!」
「こんな試合、今まで見たことねえよ……」
興奮を抑えきれないファンたちが、口々に先ほどの攻防を語り合う。
誰もが自分の目で見たものを確かめるように、如月と研美の名を繰り返していた。
それは、試合会場の中でも同じだった。
観客たちは席を立とうともせず、隣にいる者と激闘の一場面一場面を振り返っている。
如月の勝利を称える者。
最後まで立ち上がった如月と研美を称える者。
あまりにも危険な試合だったと憤る者。
反応はさまざまだった。
だが、誰もが確信していた。
今夜の試合は、簡単な言葉で語り尽くせるものではなかった。
そんな熱気が冷めやらぬなか、放送席では古田が番組を締めくくるため、手元のマイクを握り直していた。
「いやあ、山北さん……」
古田は一度言葉を切り、先ほどまで二人が死闘を繰り広げていたリングへ目を向ける。
「今回の一戦は、まさに『闘争』という言葉がふさわしい内容だったのではないでしょうか」
古田の問いかけを受け、山北は静かに頷いた。
「そうですね。試合内容だけを見れば、もはや通常のプロレスという範疇を逸脱した、凄絶な闘争だったと言ってもいいでしょう」
そして、付け加えるように言った。
「ですが、私はあの試合を、ただの闘争だったとは思いません」
古田が山北へ視線を向ける。
「激しく、どれほど危険な攻防になろうとも、二人は最後までリングの上で向かい合いました」
山北は、誰もいないリングを見つめた。
「研美選手は、自分を取り戻したあとも試合を投げ出さなかった。如月選手もまた、正面から受け止めた」
一度、静かに息を吐く。
「あれは間違いなく、プロレスリングです」
古田はしばらく言葉を失っていた。
やがて静かに頷く。
「だからこそ、これほど多くの人の心を揺さぶったのでしょうか」
少し間を置いて、締めくくるように続けた。
「新王者・如月麗、誕生。しかし、あまりにも壮絶な激闘の末、両者とも自らの足で立ち上がることはできません。ベルトの授与も後日に持ち越されることとなりました」
田辺は静かにマイクを握り直すと、粛々と締めの言葉を述べた。
「歴史に残る名勝負となりました。本日の『Fighting Night』この熱狂と感動を皆さまにお届けしたまま、お別れしたいと思います」
「それでは皆さま、また次のリングでお会いしましょう」
そのころ、試合会場の裏手にある通路では――。
――ガラガラガラ。
担架の車輪が、硬い床を転がる音が響いていた。
運ばれているのは、如月と研美。
二人の後ろから、カナレが心配そうな表情を浮かべながらついていく。
さらにその後方には、望月、島村、そしてSAKEBIの姿もあった。
誰も言葉を発しない。
聞こえてくるのは、慌ただしく床を蹴る足音と、担架の車輪が立てる乾いた音だけだった。
如月と研美は、そのまま会場内の医療室へと運ばれていく。
向かう先には、矢取が待っていた。
医療室へ到着すると、矢取が、必要な器具を処置台へ並べながら慌ただしく準備を進めていた。
「よし!如月君はこっちだ!」
矢取の指示を受け、スタッフたちが如月の担架を診察台の横へ移動させる。
続いて運び込まれた研美へ目を向けると、矢取は一瞬だけ状態を確認した。
「研美君は……とりあえず寝かせておけば大丈夫だろう」
「はぁ!?」
その場にいた全員が、呆れた声を上げた。
だが、矢取は意に介さない。
「研美君の場合、外傷や指の骨折はともかく、それ以外は極度の精神的疲労だ。意識もあるし、呼吸も安定している。今は身体を休ませることを優先したほうがいい」
そう説明しながらも、矢取の手は止まらない。
如月の呼吸や瞳孔を確認し、折れた両腕の状態を慎重に診ながら、スタッフへ次々と指示を飛ばしていく。
「固定具を用意!出血箇所を確認して、血圧も測ってくれ!」
普段の矢取が見せるのは、試合や肉体について熱く語る、ただのプロレスマニアのような一面ばかりだった。
だが今、目の前にいるのは違う。
一つひとつの状態を冷静に見極め、迷いなく処置を進める、医師としての矢取だった。
その姿は、いつになく頼もしく見えた。
「これはまた、派手にやられたね……」
如月の両腕を慎重に確認しながら、矢取が低く呟いた。
腫れ上がった腕は不自然な角度で固定され、皮膚の下には広範囲にわたって内出血が広がっている。
その言葉を聞いたカナレが、縋るように口を開いた。
「でも、レストアタイムが始まれば、その再生力で……」
矢取の手が止まった。
そして、カナレへ少し厳しい視線を向ける。
「カナレ君。ギフターの持つ能力を、万能だと思ってはいけないよ」
矢取は再び医療モニターへ視線を戻した。
表示される数値を1つずつ確認しながら、静かに説明を続ける。
「確かに、レストアタイムが始まれば肉体は急速に癒えていく。通常の人間では考えられないほどの再生力でね」
しかし、矢取は言葉を切った。
「ここまで深刻な損傷を受けてしまえば、治癒能力が正常に働くとは限らない」
淡々と告げられる言葉に、医療室の空気が重くなる。
カナレたちは声を失った。
如月の状態は、それほどまでに深刻なのか。
隣の担架に横たわる研美も、心配そうな目で如月を見つめている。
一方の如月は、担架へ乗せられてから一度も目を開けていなかった。
すべてを出し切ったように瞼を閉じ、身じろぎひとつせず横たわっている。
その姿は、ただ眠っているようにも見えた。
だが、今のカナレに冷静な判断などできなかった。
目に涙を浮かべながら如月のそばへ駆け寄り、震える声で叫ぶ。
「如月っち!死ぬな!」
医療室の空気が、一層重く沈んだ。
そのとき、矢取が静かに口を開いた。
「カナレ君……」
ごくり。
カナレが息を呑み、恐る恐る矢取へ顔を向ける。
矢取は真剣な表情のまま告げた。
「如月君は、寝ているだけだ」
「はぁ!?」
その場にいた全員が、一斉に身体をよろめかせた。
「なんだよ驚かせないでくれよ!」
カナレが涙目のまま声を荒らげる。
「君が勝手に勘違いしただけだろう……」
だが、矢取の表情はすぐに厳しいものへ戻った。
「ただし、命に関わる危険な状態ではないというだけで、決して良好な状態ではない」
矢取によれば、極限状態のまま試合を続けた如月は、肉体だけでなく、ギフターとしての力までも完全に使い果たしているという。
本来であれば負傷と同時に働き始めるはずのレストアタイムも、今はほとんど機能していない。
さらに、両腕を折られたあとも強引に動かし続けたことが、損傷を悪化させていた。
骨だけではない。
筋肉。
腱。
靱帯。
そして、神経。
両腕を構成するあらゆる組織が、深刻な損傷を負っている。
矢取は如月の腕から目を離さず、重い声で言った。
「まあ……何の後遺症もなく、以前とまったく同じ状態まで戻る可能性は、極めて低いだろうね」
医師として下されたその言葉に、カナレたちは再び声を失った。
カナレは俯き、唇を強く噛み締める。
自分が如月から逃げ出し、すべてを放棄してしまったからだ。
そのせいで如月は一人ですべてを背負い、無理を押してこの試合へ挑むことになった。
そう思うと、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
研美もまた、担架の上で沈黙していた。
自分の中で起きている異変を理解しながら、どこかで如月に委ねてしまっていた。
如月なら何とかしてくれる。
如月なら、自分を止めてくれる。
そう信じることで、自ら背負うべきものまで預けてしまったのではないか。
その結果、如月は両腕を失いかねないほどの傷を負った。
また、ミチルのときと同じ過ちを繰り返してしまった。
自分の力で、大切な選手の未来を奪いかけたのだ。
後悔と自責が、二人の胸へ重くのしかかる。
医療室には沈黙が広がり、息苦しいほどの空気が立ち込めていた。
そのとき。
矢取が突然、胸を張って言い放った。
「ただし!それはあくまでも、普通の医師が診た場合の話だ!」
カナレが、涙で真っ赤になった目を上げる。
「……え?」
矢取は医療モニターから顔を離し、如月の両腕を改めて見つめた。
その表情には、先ほどまでの深刻さとは異なる、確かな自信が浮かんでいる。
「この骨折と損傷の程度なら、全治3か月といったところだろう」
矢取は迷いなく言い切った。
「3か月後には後遺症も残さず、またリングへ上がれる状態にしてみせるよ」
一瞬、誰も言葉を発することができなかった。
「……本当に?」
カナレが震える声で尋ねる。
「ああ」
矢取は力強く頷いた。
「完璧に治す。医師として保証しよう」
その断言を聞いた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
カナレは胸元を押さえ、大きく息を吐く。
研美もまた安堵したように瞼を伏せた。
望月、島村、SAKEBIの表情にも、ようやく小さな安らぎが戻っていった。
そのとき、医療室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、本田、斎藤、そして一之進だった。
研美は父親である一之進の姿を見た瞬間、申し訳なさそうに目を伏せた。
心配をかけたこと。
自分を失い、多くの者を傷つけたこと。
何を言えばいいのかわからず、研美はただ唇を噛み締める。
だが、一之進は何も責めなかった。
娘の顔を見つめ、穏やかに笑いかける。
無事に戻ってきたのなら、それでいい。
その笑顔が、そう告げていた。
本田と斎藤もまた、研美へ向かって、無言のまま一度だけ頷いた。
誰も言葉にはしない。
それでも、その頷きには確かな労いと安堵が込められていた。
本田の手には、黄金に輝くBHCシングルベルトが抱えられていた。
本田は何も言わず、眠る如月のもとへ歩み寄る。
診察台の脇で静かに腰を落とすと、その腰元へベルトをそっと置いた。
如月は目を覚まさない。
勝利を喜ぶ声も、ベルトを掲げる腕もない。
それでも、黄金のベルトは確かに新たな主のもとへ渡った。
新たなBHCシングル王者が誕生した瞬間だった。
バックステージでは、取材のために集まっていた記者たちのため息が、あちこちから漏れていた。
勝者、敗者の二人が医療室へ運ばれ、予定されていた記者会見が開かれる気配はない。
インタビュー用のパネルが設置された会見スペースには、誰も立っていなかった。
並べられた空席だけが残され、机の上のマイクも使われることのないまま沈黙していた。
集まった記者たちは手帳やレコーダーを手にしたまま、その場に立ち尽くしている。
「これじゃあ、記事になんねえよ……」
週刊グラップルの記者が、書きかけの手帳を乱暴に閉じながらぼやいた。
試合の結果だけなら書ける。
だが、勝者の言葉も、敗者の言葉もない。
あの試合で何が起きていたのか、本人たちの口から確かめることもできない。
その言葉に、別の雑誌記者が苦笑を浮かべた。
「それだけの死闘だったってことなんだろうな……」
記者の視線は、医療室へ続く通路の先へ向けられていた。
誰もが、担架で運ばれていく二人の姿を見ている。
血に染まった身体。力なく垂れ下がった如月の両腕。
それでも最後まで互いに立ち上がろうとした、二人の執念。
あの光景を目にしたあとでは、安易な言葉で試合を語ることなどできなかった。
「フン!何が死闘じゃ!」
突然、重苦しい空気を切り裂くように、苛立ちを隠そうともしない大声が飛んだ。
記者たちの視線が、一斉に声の主へ集まる。
「KDPのカヲルが相手やったら、二人とも秒殺やで!」
声の主は、南場。
プロレス専門誌『リング王』の編集長にして、関西のプロレスメディアへ絶大な影響力を持つ男だった。
恰幅のよい身体を高価そうなスーツで包み、太い指には大ぶりな指輪が光っている。
頭頂部の髪は大きく薄れ、その周囲に残った長い髪だけが両脇から後頭部へ垂れていた。
まるで落ち武者を思わせるその髪形が、険しく歪んだ顔つきをいっそう異様なものに見せている。
顔には不機嫌さが露骨に表れ、試合の内容そのものが気に入らないというより、自分の思いどおりにならなかったことへ腹を立てているように見えた。
だが、誰一人として言い返そうとはしなかった。
反論する価値がないと思ったのか。
あるいは、南場の権力を恐れたのか。
関西圏の興行情報や広告、雑誌への掲載枠に至るまで、南場の意向が影響することは少なくない。
下手に逆らえば、仕事そのものを失いかねない。
記者たちは無言のまま手元へ視線を落とし、聞こえなかったふりをした。
「おもろない興行やで!」
南場は吐き捨てるように言うと、肩を怒らせながらその場を立ち去った。
本来ならば、記者会見の場で得意の誘導尋問を仕掛けるつもりだった。
都合のいい言葉だけを引き出し、前後の文脈を切り捨て、読者の目を誤った方向へ導く。
そうして如月と研美を誌面の上でやり込める算段だったのだ。
だが、肝心の二人は医療室へ運ばれ、会見そのものが開かれない。
南場が苛立っていたのは、試合の内容よりも、自分の思惑が外れたことに対してだった。
革靴が床を強く打つ音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。
それを合図にしたかのように、残っていた記者たちも手帳やレコーダーを片づけ、次々とその場を離れていった。
南場が通り過ぎた先。
人の流れからわずかに外れた、薄暗い通路の片隅に、一人の小柄な老人が立っていた。
白魔洞窟の入り口で、如月たちが出会った元だった。
背を丸め、いつもの派手な衣服に身を包んだ姿だが、そこにいても誰の目にも留まらない。
まるで存在そのものが見えていないかのように、その脇を通り過ぎていった。
その足元で、小さな影の塊が蠢いている。
照明によって生まれた影ではない。
形を持たない黒い染みのようなものが、床の上を這いながら逃げ場を探していた。
縮んでは広がり。
細長く伸びては、すぐに形を崩す。
時折、何かの顔にも見える輪郭が表面へ浮かび上がる。
だが、それも一瞬で黒い塊の中へ沈んでいった。
元は、黙ったままそれを見下ろしていた。
鋭く目を細め、その正体を見定めるように、影の動きを静かに観察していた。
影は元の視線に気づいたのか突然、その動きを止めた。
そして次の瞬間、床を滑るようにして逃げ出そうとする。
だが、元は慌てなかった。
胸元へ手を差し入れ、白いスカーフのような薄布を取り出した。
長い年月を経たものなのか、布の端はわずかに擦り切れている。
それでも、その白さだけは不自然なほど失われていなかった。
元は薄布を広げる。
そして、逃げようと蠢く影の上へ静かにかぶせた。
次の瞬間。
影が大きく震えた。
布の下から、声にならない叫びが漏れたように空気が歪む。
黒い塊は激しく形を変え、布の隙間から這い出そうとする。
細い触手のような影が何本も伸び、床を掻きむしるように暴れ回った。
だが、すでに遅かった。
白い布が影へ触れた箇所から、黒い色がゆっくりと吸い上げられていく。
まるで乾いた布が水を吸い込むように。
黒い影は細い筋となって布の繊維へ吸い込まれ、見る間にその姿を失っていった。
最後に残った小さな塊が、抵抗するように一度だけ大きく膨らむ。
だが、それも布の中へ引きずり込まれた。
すべてを吸い込んだあと、純白だった布の一部が、墨を垂らしたように黒く染まっていた。
染みは布の上でわずかに蠢いている。
閉じ込められた内側から、外へ出ようとしているかのようだった。
元はその染みを見つめた。
その顔には、喜びや達成感はなかった。
むしろ、長い間忘れようとしていた古い記憶に、再び触れてしまったかのような、どこか寂しげな色が浮かんでいる。
元の目が、ほんのわずかに伏せられた。
「まずは、ひとつ……」
元は小さく呟いた。
その声音には安堵よりも、これから先に待ち受けるものへの重い覚悟が滲んでいた。
元は何事もなかったかのように布を拾い上げる。
黒く染まった部分へ指が触れないよう、慎重に折り畳んでいく。
そして、それを再び胸元へしまった。
元はゆっくりと歩き始める。
誰もその姿を呼び止めない。
誰も振り返らない。
小柄な背中は、やがて薄暗い通路の奥へ溶け込むように消えていった。




