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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第104話:時間いっぱい

 二人の身体は、密着したままリングマットへ倒れ込んでいた。


 研美の上に覆いかぶさった如月は、そのまま相手の両肩をマットへ押さえ込んでいる。


 ピンフォールの体勢だった。


 だが、あまりにも異様な攻防に、羽鳥は一瞬その事実を見失っていた。


 リングサイドから試合を見つめていた藤堂が、羽鳥へ向かって声を張り上げる。


「カウント!」


 その声に、羽鳥ははっと我に返った。


 すぐさま二人のそばへ滑り込み、右手を大きく振り上げる。


「ワン!」


 掌がリングマットを叩いた。


「ツー!」


 二度目の音が響く。


 カウント2,999。


 羽鳥の手が三度目のマットへ触れようとした、その瞬間だった。


 研美の身体が、大きく跳ね上がった。


 痙攣ではない。


 研美は自らの意思で片方の肩をマットから浮かせ、如月のカバーを返したのだ。


 紛れもない、プロレスラーのキックアウトだった。


 研美の動きによって如月の身体が押し退けられ、そのすぐそばへ仰向けに倒れ込む。


 返り血を浴びた如月の顔に、殺意はなかった。


 静謐でもない。


 怒りを押し殺した、冷たい無音でもない。


 そこにあったのは、触れるものすべてを焼き尽くすような、凄絶な勝利への渇望。


 そして、研美の中に巣食う何者かに対する、激しい怒りだった。


 研美の奥深くへ潜み、その肉体を奪い、研美自身の覚悟さえ利用しようとする“何か”。


 人間の意思を踏みにじり、力に呑まれた者の心と肉体を次々に侵食しようとする、異質な存在。


 如月は、それだけは必ず封殺するつもりだった。


 リング下のカナレは何度も瞬きをした。


 リング。


 観客。


 血を吐き、リング中央で倒れている研美。


 そして、そのすぐそばで返り血に染まり、仰向けに横たわっている如月。


 目の前の光景を理解した瞬間、カナレの顔から血の気が引いた。


「研美……先輩?」


 掠れた声が漏れる。


 カナレは震える脚でロープへ縋りついた。


「研美先輩!」


 返事はない。


 研美はカバーを返したあと、マットに横たわったまま動こうとしなかった。


「なんだよ、これ……!」


 カナレの脳裏を、最悪の結末が過ぎる。


 その瞬間だった。


 研美の指先が、わずかに動いた。


「あっ……」


 カナレが小さく声を漏らす。


 研美はマットへ手をつき、ゆっくりと上体を起こした。


 呼吸は荒い。


 口元からは鮮血が流れ、身体は今にも崩れ落ちそうなほど大きく揺れている。


 それでも。


 顔を上げた研美の瞳には、先ほどまで宿っていた異様な光が消えていた。


 そこにあったのは、生気を取り戻した、いつもの研美の顔だった。


「研美先輩……!」


 カナレの目から、再び涙が溢れた。


 研美はふらつきながらも、必死に両脚へ力を込める。


 一度、膝が崩れかけた。


 それでも倒れず、ゆっくりと立ち上がる。


 そして、大の字になって横たわる如月を見下ろした。


「……ほら、如月……」


 声は小さく、聞き取りづらい。


 それでも、その口調には懐かしい響きがあった。


 研美は血に濡れた口元をわずかに緩め、如月へもう一度声をかける。


「何寝そべってんの……また、コチョコチョしてほしいのかい?」


 いつもの軽口だった。


 弱々しく、それでも間違いなく研美自身の笑顔だった。


 その声を聞いた如月の口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。


 そして如月もまた、折れた両腕を力なく垂らしたまま、ゆっくりとその場から立ち上がり始めた。


 あまりにも凄惨なリング上の光景に、思わず目を背ける観客もいた。


 そしてカナレもまた、研美の姿を目にした瞬間、言葉を失った。


 研美の身体を覆っていた純白の晒は、鮮血によって深紅に染め上げられている。


 幽穿を受けた箇所は大きく裂け、そこからも血が溢れ続けていた。


 研美の身体を伝った血が、指先や脇腹からリングマットへ滴り落ちる。


 ぽた、ぽた、と。


 赤い雫が落ちるたび、マットの上に新たな染みが広がっていった。


 傍目には、如月が研美へ致命傷を与えようとしているようにしか見えない。


 何が起きているのか理解できずにいるカナレへ、斎藤が静かに口を開いた。


「あれは、殺すための技じゃない」


 カナレが勢いよく振り向く。


 斎藤の視線は、リング上の如月から一瞬たりとも離れない。


「研美を縛りつけているもの」


「力を暴走させ、意志を沈め、その身体を乗っ取ろうとしている何かを滅ぼす技……」


 斎藤には、その存在が何であるのかわかっているかのように説明する。


 研美の精神へ入り込み、その心を弄んでいた“何か”。


 斎藤は唇を固く結び、険しい表情を浮かべた。


 その瞳には、遠い記憶を懐かしむような色が、一瞬だけ宿っている。


 しかし、それは決して穏やかな郷愁ではなかった。


 むしろ、二度と思い出したくない過去を胸の奥へ押し戻し、振り切ろうとする者の目だった。


 そのとき、羽鳥が声を張り上げた。


「ファイト!」


 その宣告に呼応するように、観客席の一角から小さな声援が上がる。


「如月ぃぃ!」


「研美ぃぃ!」


 最初は、ほんのわずかな声だった。


 だが、その声は周囲の観客へ伝染するように、次々と広がっていく。


 やがて会場全体を巻き込み、二人の名を呼ぶ大歓声へと変わった。


 その熱狂の中心で、如月と研美は再び向かい合う。


 研美が如月へ言い放った。


「ここからは私らの戦いだよ!」


 その声を聞いた如月は、血に濡れた顔で笑った。


 そして。


 研美はゆっくりと腰を落とす。


 軸のぶれない両脚。


 無駄なく引き締められた肉体。


 その佇まいは美しく、鍛え抜かれた人体をかたどった古代ギリシャの彫像を思わせた。


「さあ……時間いっぱいだ……」


 研美がそう言い放った瞬間。


 先ほどまでの大歓声が嘘のように消え、会場は再び緊張にも似た静寂に支配された。


 如月もまた、研美へ正面から向き直る。


 折れた両腕は力なく垂れ下がり、もはや構えに使うことはできない。


 それでも足元だけは、リングマットへ深く食い込むように据えられていた。


 ノーガード。


 一見すれば、何の防御もない無防備な姿勢。


 しかし、そこに隙はない。


 長い鍛錬によって肉体へ刻み込まれた重心と呼吸。


 両腕が使えずとも崩れることのない、完成された構えだった。


 三階の特別室でその姿を見つめていた一之進が、小さく呟いた。


「堂に入っている……」


 隣に座る本田も、同じ感覚を抱いていた。


 弱冠十九歳。


 入団して一年にも満たない少女が、なぜこれほど珠玉の構えを身につけているのか。


 積み重ねた年月だけでは説明できない凄みがあった。


 如月と研美が向かい合った時間は、わずか数秒にすぎない。


 しかし、会場にいる誰もが、その膠着を何時間にも感じていた。


 先に動いたのは研美だった。


 一瞬で間合いを詰め、如月の眼前へ迫る。


 如月もまた、その踏み込みを読んでいたかのように後方へ下がった。


 しかし、研美は逃がさなかった。


 如月の動きへ即座に反応し、さらに一歩前へ出る。


 だが。


 研美の肉体には、もはやほとんど力が残されていなかった。


 先ほどまで何者かに身体を侵食されながらも、研美は精神だけで力の暴走を抑え続けていた。


 完全に支配されていたわけではない。


 奪われかけた手綱を、最後まで決して離さなかったのだ。


 霞んでいく意識の中で。


 如月を壊してしまわぬように。


 力を抑え、軌道を逸らし、自らの肉体を内側から制御し続けていた。


 その代償として、研美はすべてを使い果たしていた。


 本来ならば、立ち合うどころか、立っていることさえままならない。


 それでも、研美は気力だけで身体を前へ進めていた。


 決着をつけるなら、リングの上、そして、プロレスのルールで。


 その思いだけが、限界を越えた研美を動かし続けていた。


 そして。


 ほんの一瞬。


 研美の意識と肉体の間に、わずかな乖離が生まれた。


 如月は、その刹那を見逃さなかった。


 軸足でリングマットを踏み締め、全身を跳ね上げる。


 繰り出されたのは、必殺の膝蹴り。


 視穿みうがち。


 鋭く突き上げられた膝頭が、研美の顎を正確に捉えた。


 ――ゴッ!


 研美の頭部が跳ね上がる。


 踏み出そうとしていた脚から、ゆっくりと力が抜けていった。


 研美は膝から崩れ落ち、そのまま力なく仰向けでリングマットへ倒れ込んだ。


 研美が倒れた、その瞬間。


 如月は間髪を入れず、その場から跳び上がった。


 折れた両腕を使うことなく、身体を大きく反転させる。


 ダイビングセントーン。


 両腕の感覚を失った如月の背中が、研美の身体へ重雷のように落ちていく。


 ――ドン!


 身体が引きちぎれるほどの衝撃で、リングマットが大きく跳ね上がった。


 如月は垂れ下がったままの腕を顧みず、自らの胸と体幹の全てを研美の胴体へ力任せに預け、その体重だけで力強く両肩をマットへ押さえつけにいく。


 執念の体固め。


 羽鳥はすぐさま二人のそばへ滑り込み、右手を大きく振り上げた。


「ワン!」


 掌がマットを叩く。


 観客たちも羽鳥の声に呼応し、会場全体でカウントを数え始めた。


「ツー!」


 二度目の音が響く。


 羽鳥が三度目のカウントへ腕を振り下ろした、その瞬間。


 研美は笑っていた。


 その笑顔には一切の邪念はない。


 すべてを出し尽くし、ようやく自分自身の戦いを終えられた者の、穏やかな笑顔だった。


「スリー!」


 羽鳥の掌が、三度目のマットを叩いた。


 直後。


 ――カン、カン、カン!


 試合終了を告げるゴングが、会場いっぱいに鳴り響いた。


 田辺が立ち上がり、マイクを握る。


「19分21秒!体固めにより――如月麗の勝利!」


 勝者をたたえる入場曲が流れ始める。


 その瞬間、会場を揺るがすほどの大歓声が、リング上の二人へ降り注いだ。


 古田が興奮を抑えきれない声で叫ぶ。


「やりましたーっ!弱冠19歳!入団わずか一年未満での大金星です!現BHCシングル王者・鈴木研美を破り、新王者誕生!BHCシングル王座が、いま如月麗の腰へ移ります!これは歴史が動いた瞬間です!」


 先ほどまで会場を覆っていた、怨嗟にも似た重苦しい空気は、すでに消えていた。


 観客たちの歓声と熱狂が、リングに残る禍々しささえ洗い流し、その場の空気を浄化していくかのようだった。


 仰向けのまま天井のライトを見つめていた如月の耳へ、ようやく会場中の歓声が一気に流れ込んでくる。


 ようやく終わったのかとほっとした表情を浮かべる。

 

 如月は逃げなかった。


 研美の命を救うため、自らの命までも秤に載せて闘った。


 その姿に、迷いはなかった。


 研ぎ澄まされていた。


 純粋だった。


 そして、どこまでも誇り高かった。


 そこにいるのは、神の力を振るう化生ではない。


 人の身でありながら、人ならざるものの領域へ踏み込み、それでも人間を守るために立ち続ける存在。


 目の前の相手を見捨てることができず、リングの上で己のすべてを懸けた、一人のプロレスラーの姿だけがあった。


 そのとき。


 倒れた研美の身体から、黒い揺らぎが立ち昇った。


 輪郭すら定まらない影が、逃げ場を求めるように蠢き、如月の腕へ絡みつこうとする。


 如月は、血に濡れた顔をゆっくりと上げながら体を起こした。


 見開かれた神眼が、黒い影の中心を正確に射抜く。


 そして――。


 その威光を前にして、研美の奥底へ巣食っていた“もの”が、初めて明確な恐怖を見せた。


 先ほどまで勝利に沸き立っていた観客たちも、その異様な光景を目にした瞬間、声を失った。


 大歓声に包まれていた会場が、再び静寂へ沈んでいった。


「おい……いい加減にしろよ」


 如月の腹の底から響く、どすの利いた声が会場に轟く。


「さっさと消えろ……」


 その言葉に怯えたかのように、黒い影が大きく揺らめいた。


 そして如月の視線から逃れようと、倒れている研美の影へ紛れ込み、その奥へ姿を隠そうとする。


 だが、如月はそれを許さなかった。


 神眼を宿した左目が、逃げ込もうとする影を鋭く睨み据える。


 その瞬間。


 研美の影に混じっていた異質な黒が、内側から白く焼かれるように変色していった。


 黒と白が入り交じり、まだらに蠢く。


 やがて白く染まった異物だけが輪郭を失い、煙のように薄れていく。


 そして最後には、研美の足元へ伸びる、ごく普通の黒い影だけが残った。


 消えたのか――。


 誰もがそう思った、その直後。


「ぐっ……!」


 如月の全身を、堰を切ったような激痛が駆け巡った。


 試合中は闘志によって押さえ込まれていた痛みが、緊張の糸が切れたことで一気に押し寄せてきたのだ。


 如月の膝が崩れる。


 そのまま力を失い、リングマットへ倒れ込んだ。


 本来であれば、BHCシングル王座を奪取した如月へ、チャンピオンベルトとトロフィー、そして表彰状が授与されるはずだった。


 しかし、今の如月は、表彰式に臨めるような状態ではなかった。


 控えていたリングドクターとスタッフが慌ただしく駆け込み、如月と研美の状態を確認する。


 すぐさま二台の担架が用意され、二人はそれぞれ慎重に乗せられた。


 スタッフたちが担架を担ぎ上げ、リングをあとにしていく。


 その後ろを追うように、カナレも慌てて駆け出した。


 会場の観客たちも一斉に声を上げ、運び出されていく二人の名を何度も叫んでいる。


「如月ぃぃ!」


「研美ぃぃ!」


 二人とも意識はある。


 だが、担架に横たわるその姿は、あまりにも痛々しかった。


 三階の特別室では、本田と一之進が深いため息をついていた。


 二人は互いの顔を見合わせる。


 そして、示し合わせたかのように、同時に小さく会釈を交わした。


 しかし、その会釈は、今回の騒動が終焉を迎えたことを確認するものではない。


 むしろ、この先も同じような事態が起こり得ることを、互いに確かめ合うかのような仕草だった。


 人の知覚が及ばぬ、深く悠久の深淵。


 その底で眠り続ける“何か”が、こちらの世界へ干渉を始めている。


 二人には、そう感じられていた。


 本田と一之進は何も言葉を交わさないまま、静かに席を立った。


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