第103話:折れぬもの
「ここで止めたら、許さねえ!」
如月は羽鳥を睨みつけた。
激痛に顔を歪め、脂汗を浮かべながらも、その目に宿る光は死んでいない。
ただ目の前の敵と闘うことだけを求める、剥き出しの闘争本能。
両腕を折られようとも、如月という闘技者は、まだリングの上で生きていた。
羽鳥にも、それはわかった。
如月の肉体は深刻な損傷を負っている。これ以上試合を続ければ、両腕の骨折だけでは済まない。選手の意思を尊重することと、その生命を守ることは、決して同じではなかった。
羽鳥は苦悶の表情を浮かべた。
だが、迷っている時間はない。
如月の意思がどれほど強固であろうと、レフェリーとして試合を止めなければならない。
そのときだった。
「二人とも――!」
リング下から、悲痛な叫び声が響いた。
直後。
その声も、羽鳥の判断も、会場に生まれた一瞬の躊躇も、すべてを押し潰すような鈍い衝撃音が鳴り響く。
――ゴッ!
研美が閂を解くと同時に、身体を沈めた。
そして、解放した腕を下から上へと振り抜き、如月の顎へ強烈なかち上げを叩き込む。
折れた両腕の激痛に意識を奪われていた如月は、避けることも、防ぐこともできなかった。
研美の前腕が顎を真正面から撃ち抜く。
如月の頭部が大きく跳ね上がった。
噛み合った歯の隙間から血が弾け、鮮やかな飛沫となってリング上へ舞い上がる。
その一部はロープを越え、リングサイドにいたカナレの頬まで飛んだ。
カナレの白い肌を、如月の血が一筋伝う。
その赤い筋は、カナレの瞳から溢れ落ちた涙と頬の上で交差し、混ざり合いながら顎先へ流れていった。
「二人とも!もうやめろ!」
カナレが叫んだ。
喉が裂けるほどの声だった。
その声に、研美の身体がぴくりと反応する。
ほんの一瞬。
如月へ追撃を加えようとしていた動きが止まった。
カナレの声が届いたのか。
研美自身の意識が、内側から表へ浮かび上がろうとしたのか。
先ほどまでカナレの顔に張りついていた、二人の死闘に酔いしれるような危うい笑みは、すでに消えていた。
そこにいるのは、目の前で傷つけ合う二人を止めようと、涙を流して懇願する一人の少女だった。
「研美先輩……もう、やめて……!」
カナレの声が震える。
しかし、研美が動きを止めたのは、刹那にすぎなかった。
その表情には何の変化もない。
カナレの悲痛な訴えを振り切るように、研美は両腕をゆっくりと天高く掲げた。
頭上で両手を固く組み合わせる。
その姿は、天へ救いを求める祈りにも見えた。
だが、振り下ろされるものに慈悲はない。
研美は全身の力を両腕へ集約し、体重を乗せて一気に振り下ろした。
ダブルスレッジハンマー。
組み合わされた両拳が、立っていることさえままならない如月の背中へ叩き込まれる。
――ドン!
再び、会場の底を震わせるような鈍い炸裂音が鳴り響いた。
如月の身体が押し潰されるように崩れ、胸からリングマットへ叩きつけられた。
そのままうつ伏せに倒れ込む。
だが如月は、両腕を使わず、爪先と膝だけで身体を引き寄せた。震える脚に力を込め、無理やり上体を起こして両膝立ちになる。
折れた両腕は力なく垂れ下がり、口元からは鮮血が流れ続けている。呼吸をするたびに肩が大きく上下し、今にも前のめりに崩れ落ちそうだった。
それでも、その目だけは死んでいなかった。
研美を見据える瞳には、なおも鋭い闘志が燃え続けていた。
「もうやめてくれ、如月っち!研美先輩!」
リングサイドから、カナレの悲痛な叫びが飛ぶ。
「もう……もう見たくないよ、こんなの!」
涙に濡れた声が、静まり返った会場を貫いた。
カナレの瞳から、次々と大粒の涙がこぼれ落ちる。頬についた如月の血と混ざり合い、赤く濁った雫となって顎先から落ちていった。
その背後から、斎藤がゆっくりと近づいてくる。
いつものトレーニング中に見せる、鬼教官のような威圧的な目ではなかった。
だが、その眼差しは厳しい。
目の前の現実から決して逃げることを許さない、重く真っ直ぐな視線だった。
斎藤はカナレの隣で足を止める。
そして、胸の奥にある悲しみを押し殺すような低い声で言った。
「カナレ、泣くな」
カナレの肩が震える。
「お前はプロだろ!」
その言葉に、カナレは袖で涙を拭いながら斎藤を見上げた。
どうして止めてはいけないのか。
なぜ、これほど傷つくまで闘わせなければならないのか。
受け入れがたい矛盾を訴えるような、悲しみに満ちた目だった。
しかし、斎藤の瞳には一切の揺らぎがなかった。
数え切れないほどの戦いを見届け、自らもその中で生き抜いてきた者だけが持つ、非情でありながら勇ましい眼差し。
それは、傷つくことを肯定する目ではない。
闘う者が何を懸けてリングに立っているのか、その覚悟から目を逸らさない者の目だった。
「よく見ろ、カナレ」
斎藤はリングへ視線を戻した。
膝をつき、両腕を折られ、全身を汗と血で濡らしながらも、なお研美を見据え続ける如月。
その姿を指し示すように、斎藤は強く言い放った。
「あれが、心の折れた目か?」
カナレは息を呑んだ。
「如月は、まだ闘っているぞ」
そして斎藤は、リング上でレフェリーストップを宣告しようとしていた羽鳥へ向かって声を張り上げた。
「羽鳥さん!」
羽鳥が振り返る。
「如月の言うとおりにしてやってください!」
その言葉を聞いた瞬間、羽鳥は耳を疑った。
斎藤は、誰よりも選手の安全を優先する人間だった。
試合中に危険な兆候を感じれば、たとえレフェリーの判断であっても躊躇なく異を唱える。選手生命を守るためなら、試合の流れや興行の都合など一切顧みない。
その斎藤が、試合を続けさせろと言っている。
羽鳥は斎藤を見た。
次に、如月を見る。
戦う意思を失っていない選手の覚悟は、可能な限り尊重されるべきだ。
それは、羽鳥自身も理解している。
だが、今の如月が負っているダメージは、あまりにも深刻だった。
両腕は折れている。
貫寄によって腹部と胸部へ深い損傷を受け、顎には研美のかち上げが直撃した。さらに、ダブルスレッジハンマーまでまともに受けている。
たとえ気力だけで立ち上がったとしても、まともに闘える状態ではない。
ましてや、ここから逆転するなどあり得ない。
羽鳥の経験は、そう告げていた。
ここで止めるべきだ、と。
その判断を見透かしたかのように、斎藤が再び口を開いた。
「私と夢路――あのときのリングでも、あなたは試合を止めなかった」
羽鳥の表情が強張る。
「……何?」
斎藤の言葉が、十年前の記憶を呼び起こした。
斎藤幸奈と本田夢路。
二人が極北のリングで繰り広げた、壮絶な死闘。
互いの意地も、誇りも、積み上げてきたすべてを剥き出しにして立っていることさえ不思議なほど傷つきながら、それでも一歩も退かなかった試合。
あのとき、斎藤の猛攻を受けた夢路は、満身創痍だった。
身体は限界を越え、足元は覚束ず、まともに構えることさえできていなかった。
それでも意識だけは失っていなかった。
倒されてもなお斎藤を睨み返し、再び立ち上がろうとしていた。
あの試合でも、レフェリーを務めていたのは羽鳥だった。
選手を守るため、羽鳥はレフェリーストップを宣告しようとした。
だが、その判断を夢路が止めた。
『止めないでください!』
十年前の夢路の声が、鮮明に蘇る。
『私は、まだ闘える!』
あのときの夢路もまた、今の如月と同じ目をしていた。
傷ついた身体の痛みに屈し、救いを求める者の目ではない。
自分が何を懸けてこのリングに立っているのかを理解し、たとえ肉体が限界を迎えようとも、最後まで己の意思で闘い抜こうとする、闘技者の目だった。
羽鳥は、現在のリングへ視線を戻す。
折れた両腕を垂らし、全身を血に染めながら、それでも研美を見据えている如月。
十年前の夢路と、その姿が重なった。
肉体は限界に達している。
だが、闘志は失われていない。
羽鳥は唇を強く噛んだ。
選手を守ることが、レフェリーの使命。
だが、闘う者の覚悟を一方的に奪うこともまた、正しいとは限らない。
羽鳥は一度だけ、タイムキーパー席へ視線を向けた。
木槌を構えた田辺と目が合う。
田辺は何も言わず、羽鳥の判断を待っていた。
数秒にも満たない沈黙。
やがて羽鳥は、ゆっくりと腕を下ろした。
そして、覚悟を決めたように小さく頷く。
「——ファイト!」
羽鳥の声が、静まり返った会場へ力強く響き渡った。
それは試合終了を告げる宣告ではない。
この死闘が、いまだ途切れることなく続行されるという合図だった。
一瞬の静寂。
直後、会場の至るところから悲鳴にも似た怒号が噴き上がった。
「ふざけるな、レフェリー!如月を殺す気か!」
「もうやめて!」
「試合を止めろ!」
観客たちの声が幾重にも重なり、巨大な濁流となってリングへ押し寄せる。
羽鳥は唇を固く結んだまま、そのすべてを受け止めていた。
自分の判断が正しいという確信などない。
それでも、如月の目に宿る闘志を見た以上、今ここでその意志を奪うこともできなかった。
三階の特別室にも、会場を揺らす怒号は届いていた。
だが、本田や一之進も微動だにしない。
二人は椅子に腰掛けたまま、厳しい眼差しをリングへ注ぎ続けていた。
ただ、この先に何が起こるのかを見届けようとしているだけだった。
如月が自ら選び取ろうとしている結末から、決して目を逸らさぬように。
リングサイドでは、斎藤がカナレへ向き直った。
そして、これが最後の言葉だとでもいうように、強く言い放った。
「お前が信じてやらなくてどうする!」
カナレの肩が震える。
「お前は、如月のタッグパートナーだろ!」
その言葉が、カナレの胸を深く貫いた。
カナレは、涙に滲む視界でもう一度リングを見た。
片膝をつき、折れた両腕を垂らしながらも、研美から目を逸らさない如月。
その姿を見た瞬間、記憶が堰を切ったように蘇った。
初めて如月と出会った日。
互いの意地をぶつけ合い、真正面から闘った試合。
そして、BHCタッグ王座を懸け、楓と正美を相手に二人で挑んだあの一戦。
どれほど追い詰められても、如月の目が揺らぐことはなかった。
勝てる根拠がなくとも、身体が限界を迎えていても、最後まで自分の信念を疑わなかった。
タッグを組んでからも、如月は常にカナレのそばにいた。
強くなりたいと願えば、どれほど遅い時間になろうとも練習に付き合ってくれた。
カナレが倒れれば手を差し伸べ、甘えれば容赦なく突き放し、それでも決して見捨てることはなかった。
天地合戦術。
プロレスの枠から大きく逸脱した、古の実戦武術。
如月がどこで学び、いつ身につけたのか、カナレは詳しく知らない。
それでも如月は隠そうとも、誇示しようともせず、まるで師が弟子へ技を継承するかのように、一つひとつ丁寧に教えた。
立ち方。
呼吸。
身体の使い方。
力ではなく、意志によって自分自身を制すること。
今目の前で起こっていることはカナレが思い描いていたものとは異なる、広く、深く、そして時に残酷なプロレスの世界。
そのすべてを、如月は言葉ではなく、自らの背中で見せてくれた。
——今もリングの上にいる如月も同じだった。
立っていることさえ困難な状態にありながら、それでも信念だけは微塵も揺らいでいない。
そして、この絶望的な状況すら覆してみせることを。
カナレは、頬を伝う涙を手の甲で強く拭った。
恐怖が消えたわけではない。
今すぐにでもリングへ飛び込み、二人を引き離したいという思いも消えてはいない。
それでも。
パートナーである自分まで如月を信じられなければ、如月はたった一人で闘うことになる。
カナレは震える唇を噛み締めた。
そして、リング上の如月を真っ直ぐに見据え、渾身の力を振り絞って叫んだ。
「いけぇぇ!如月っち――!」
カナレの声が、会場を埋め尽くしていた怒号を切り裂いた。
悲痛な叫びでありながら、そこには如月を疑わない強さがあった。
幾重にも重なっていた観客たちの声を一瞬で鎮め、荒れ狂う場を鎮撫するかのような、どこか神々しささえ帯びた声だった。
そのときだった。
如月が動いた。
膝をついていない左脚へ、残されたすべての力を集める。
そして、たった一本の脚でリングマットを蹴り抜いた。
――ダンッ!
爆発にも似た破裂音が響いた。
リングマットが大きく沈み込み、その衝撃が鉄柱からロープへ伝わっていく。
リングサイドにいた選手たちの鼓膜を、鋭い音圧が容赦なく打ち抜いた。
「くっ……!」
「何!?」
思わず耳を塞いだ者たちが、驚愕の表情でリングを見上げる。
如月の身体が宙に浮いていた。
助走はない。
両脚で踏み切ったわけでもない。
満身創痍の身体を、片脚一本の力だけで研美の頭上近くまで跳ね上げていた。
その姿には、獲物へ飛びかかる猛獣の野性があった。
同時に、人としての情念と、決して諦めようとしない執念があった。
それは、既存のプロレス技ではない。
長い研鑽によって完成された、洗練された技術ですらない。
肉体の限界を、魂の力だけで強引に踏み越える。
人の業が、人ならざる存在へ挑もうとする瞬間。
見る者の魂さえ切り裂くほどの異常な執念が、その場で生み出した一度限りの芸術だった。
如月は宙で身体を折り畳み、両脚を研美の肩口へ掛けた。
腿で研美の頭部を挟み込み、フランケンシュタイナーのように上体を大きく反らす。
「うおおおおっ!」
如月の雄叫びが、アリーナ全体へ轟いた。
そのまま腰を切り、空中で身体を百八十度捻る。
両脚に挟まれた研美の頭部が引かれ、体までもが如月の回転へ吸い込まれていく。
抵抗する暇すらなかった。
研美の身体が宙へ浮き、如月と同時に反転する。
背中をリングマットへ向けたまま、体が落下を始めた。
だが、如月は投げるだけでは終わらない。
研美の肩から両脚を解き、自らもその身体を追うように落下する。
二人の間に、わずかな距離が生まれた。
その刹那、如月は折れた両腕を引き寄せた。
関節は力を伝えられない。
両腕を動かそうとすれば、激痛によって身体が止まる。
それでも如月は、胸筋と背筋だけを強引に収縮させ、折れた両腕を胴体へ引きつけた。
両手の五指を揃える。
抜き手。
先ほど研美に封じられた、幽穿の構え。
落下する研美。
その身体を追って降下する如月。
重力。
回転。
そして、二人の体重。
すべての力が、神眼によって示された一本の軌道へと収束していく。
如月の指先が、研美の横隔膜へ迫る。
二人の身体が重なった。
――ドン!
凄まじい勢いで、研美の背中がリングマットへ叩きつけられる。
同時に。
如月の指先が、右季と左季の狭間を正確に貫いた。
派手な衝撃さえ、外側からは感じられなかった。
ただ、揃えられた如月の指先が、研美の身体へ沈み込んだように見えただけだった。
だが、次の瞬間。
研美の全身が弓なりに仰け反った。
「――――ッ!」
喉から漏れたのは、声にすらならない絶叫だった。
研美の口が大きく開き、鮮血が噴き出す。
赤い飛沫が、至近距離にいた如月の顔へ降り注いだ。
額。
鼻筋。
頬。
そして、唇。
如月の白い肌が、研美の血によって真紅に染め上げられていく。
研美の身体が激しく痙攣した。
指先が引きつり、両脚がリングマットを何度も蹴る。
目は大きく見開かれ、その瞳の奥で、黒い何かが激しく揺らめいていた。
まるで肉体の深部へ潜み続けていた異物が、己の居場所を直接貫かれたかのように。
逃げ場を失い、研美の内側で狂ったように暴れ回っている。
如月は両腕を引かなかった。
折れた両腕から伝わる激痛を押し殺し、研美の命を指先へ感じながら、神経の奔流へ意識を集中させる。
わずかに角度を誤れば、研美は死ぬ。
深く入りすぎれば、二度と意識が戻らない。
浅すぎれば、“それ”を断ち切ることはできない。
許される誤差は、ほんの数ミリ。
如月の額から、幾筋もの汗が流れ落ちる。
神眼を限界まで酷使した影響で、視界の端が赤黒く染まり始めていた。
意識が揺れる。
呼吸が途切れる。
折れた両腕の感覚が、徐々に失われていく。
それでも、如月の瞳は揺らがなかった。




