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第102話:俺はまだ、ギブアップしてねえぞ!

 会場のボルテージは、ゆっくりと戻りつつあった。


 研美の内側から溢れ出した“何か”に支配され、呼吸さえ封じられていた観客たちが、ようやく自分の意思で声を発し始めている。


 それは歓声とは呼べなかった。


 悲鳴。怒号。どよめき。


 恐怖に凍りついていた観客たちが、再び生の感情を取り戻そうとする音だった。


 リング下へ転落した羽鳥も、エプロンに片腕を掛け、必死に身体を起こそうとしている。


 だが、リング上に横たわる如月は動かない。


 仰向けのまま、長い髪を顔に張りつかせ、胸が上下しているのかさえ遠目にはわからなかった。


 その傍らに、研美が立っている。


 表情は消えていた。


 先ほどまで浮かべていた空洞の笑みも、獲物を仕留めようとする高揚もない。


 あるのは、ただ目の前に横たわる存在を壊すという、純粋な破壊の意思だけだった。


 研美は如月の頭部を見下ろすと、ゆっくりと右脚を持ち上げた。


 膝が胸の高さを越える。


 さらに脚が上がる。


 踵が天井を指し、研美の身体が一本の柱のごとく垂直に伸びた。


 その構えを目にした瞬間、会場の一部から押し殺した悲鳴が上がった。


「ま、まさか……!」


 実況の声が震える。


「研美選手、この構えは――きっ……鬼断です!」


 鬼断。


 高く振り上げた脚を、相手の頭部から胸部へ向けて垂直に振り下ろす、研美最大の必殺技。


 技の形だけを見れば、単純な踵落としにすぎない。


 だが、一騎当千によって極限まで増幅された脚力と、異常なまでの殺意に支配された今の研美が放てば、それは人間の肉体を縦に断つ断頭台へと変貌する。


 かつて、この一撃を受けたミチルは、辛うじて命こそ取り留めたが、二度とリングに戻ることはかなわなかったと聞く。


 断ち切られたのは、肉体だけではない。


 幾度となく倒され、そのたびに立ち上がり、血と汗の果てに築き上げてきた技術。レスラーとして歩むはずだった未来さえ、あの一撃によって断ち切られた。


 ゆえに、鬼断。


 肉体を破壊するだけでは終わらない。


 選手生命そのものを断つ技。


「止めろ!」


「もう試合じゃない!」


 かつてのミチル戦を知る観客席から、悲鳴にも似た怒号が飛び交った。


 脳裏に蘇るのは、鬼断を受け、リングの上で動かなくなったミチルの姿。その記憶が会場全体へ瞬く間に伝播し、先ほどまで戻りかけていた熱気を、再び凍りつかせていく。


 タイムキーパー席では、田辺が木槌を強く握りしめていた。


 振り下ろすべき瞬間を決して逃さぬよう、視線を研美から一瞬たりとも逸らさない。その腕にはすでに力が込められ、あとは試合終了を告げる合図を受けるだけだった。


 だが、羽鳥はリング外にいる。


 転落の衝撃に顔を歪めながらも、エプロンに片腕を掛け、必死に上体を起こした。全身を走る痛みを押し殺し、ロープ越しにリングを見上げる。


 その視線の先で、研美の脚はすでに頂点まで振り上げられていた。


「研美!」


 羽鳥が声を張り上げる。


 しかし、研美は反応しない。


 観客席から飛び交う怒号も、悲鳴も、試合を止めようとする羽鳥の声さえも、今の研美には届いていないようだった。


 このままでは間に合わない。


 羽鳥は咄嗟にタイムキーパー席へ顔を向けた。田辺はすでに木槌を握り、羽鳥の判断を待っている。


 二人の視線が交わった。


 羽鳥が片腕を上げ、試合終了の合図を送ろうとした、その刹那。


 振り上げられた研美の脚が、わずかに静止した。


 まるで、処刑の瞬間を待つ刃のように。


 そして――落ちた。


 研美の脚が、空気を引き裂きながら垂直に振り下ろされる。


 風を切る鋭い音がリングを走り、その踵が、倒れた如月の顔面へ向かって一直線に迫る。


 誰もが、鬼断が如月を捉える光景を予感した、その瞬間。


 如月の顔を覆っていた髪が、落下する踵の風圧に煽られ、わずかに揺れた。


 その隙間から――如月の左目が覗く。


 意識を失っていたはずの瞳は、すでに開いていた。


 恐怖や、動揺は一切ない。


 ただ、振り下ろされる研美の脚を、冷徹なまでの静けさで捉えている。


 ――神眼。


 ギフトの発動と同時に、如月の充血した赤い視界へ、幾千もの未来視の映像が流れ込む。


 そのすべてが、如月にはすでに起こった結果として見えていた。


 如月の上体が跳ね上がる。


 鬼断が頭部を砕く寸前、如月は身体を横へずらしながら、振り下ろされた研美の脚へ両腕を絡ませた。


 一本は腿の外側。


 もう一本は股下から深く差し込む。


 落下する力に逆らわない。


 受け止めるのではなく、その勢いごと自分の身体へ引き寄せる。


 如月は背中を反らし、腰を研美の脇へ滑り込ませた。


「おおおおっ!?」


 観客席と実況席から、驚愕の声が一斉に上がった。


 研美の身体が宙に浮いた。


 鬼断と如月の投げ。


 2つの技が、互いを貫こうと同時に交差する。


 奇跡じみたクロスカウンターが成立した一瞬だった。


「だああああっ!」


 如月は研美の脚を抱えたまま、全身を捻り上げた。


 変形サイドスープレックス。


 研美の巨体が斜めに回転し、肩口からリングマットへ叩きつけられる。


 ――ドォン!


 リングが大きく沈んだ。


 衝撃でロープが波打ち、四方の鉄柱が低く唸る。


 絶望に呑み込まれていた会場が、一拍遅れて爆発した。


「返したああああっ!如月選手、研美選手の一撃必殺の鬼断を投げ技で切り返しました!」


「信じられません!完全に意識を失っていたように見えましたが、山北さん、これは如月選手が誘っていたんですか!?」


 山北が身を乗り出す。


 だが、すぐに首を振った。


「いや……違う。貫寄を受けたダメージは甚大。意識は完全に失っていたが、おそらくギリギリで意識を取り戻したんでしょう」


 如月は追撃に移らなかった。


 否――移れなかった。


 研美を投げ切った反動で身体の均衡が崩れ、その場に片膝をつく。咄嗟にマットへ手をついたものの、腕には体重を支え切るだけの力さえ残っていなかった。


 喉の奥から込み上げてきた血が口端を伝う。如月はそれを手の甲で乱暴に拭い、浅く、途切れがちな呼吸を繰り返した。


 先ほど腹部へ打ち込まれた貫寄の衝撃は、いまだ体内に留まり続けている。


 息を吸うたびに、内臓を内側から掴まれ、捻り上げられるような激痛が走った。全身から冷たい汗が噴き出し、わずかに気を緩めれば、そのまま意識を手放してしまいそうになる。


 それでも如月は、震える脚に力を込めた。崩れかけた膝を押さえ、歯を食いしばり、再び踏ん張る。


 そして如月は、己の身体を無理やり引き上げるようにして立ち上がった。普段の華麗で鋭い動きとは程遠い、ひどく泥臭い所作だった。


 そこから、如月はステップを踏み始めた。


 右へ。


 左へ。


 軽やかに跳ね、倒れた研美を中心に円を描く。


 それは、いつもの如月の動きだった。


 何ものにも縛られず、リングの上を自由に舞う、華麗で挑発的なステップ。


 如月はステップを踏みながら、研美を挑発し始めた。


「どうした、先輩!」


 声を張り上げる。


「まだ俺は終わってねえぞ!」


 観客たちの視線が、一斉に如月へ集まる。


「お前らもそんな湿気た顔で見てんじゃねえ!」


 如月は両手を叩き、さらに観客を煽る。


「お前ら腹から声出しやがれ!」


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、会場の至るところから声が上がった。


 如月を呼ぶ声。


 研美へ呼びかける声。


 恐怖を打ち消そうとする怒号。


 それぞれの感情が入り混じり、巨大なうねりとなってアリーナを満たしていく。


 如月は、ただ観客を煽っているのではない。


 リングを中心とした歓声を取り戻そうとしていた。


 そして、研美の内に巣食う“もの”によって奪われかけた、この空間を取り戻そうとしていた。


 人間の感情と、プロレスの熱とともに。


 自らを見つめる何千、何万という意思をぶつけることで、研美の中に残された人間性を呼び起こそうとしていた。


「来いよ、先輩!」


 如月はステップを踏みながら、低く言った。


「甘ったれてんじゃねえよ!あんた、プロレスラーだろ!」


 研美の指が動いた。


 爪がリングマットの表面を引っ掻き、ゆっくりと巨体が起き上がる。顔を上げた研美の表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。


 空洞の笑みはない。


 代わりに、眉間へ深い皺が刻まれている。


 如月を見つめる瞳には、濁った怒りが宿っていた。


 自分の思いどおりにならないことへの苛立ち。


 圧倒的な力を持ちながら、目の前の小さな少女を仕留めきれない焦燥。それは、人間の感情にも見えた。


 だが、如月にはわかっていた。


 研美が怒っているのではない。


 研美を器としている“何か”が、自らの支配を妨げられたことに憤っている。


 如月は口角を上げた。


「おら!どうした、悪霊もどき!もっと来いよ。来ねえなら、俺が喰っちまうぞ!」


 研美が踏み込んだ。


 先ほどまでの静けさは、そこにはない。リングマットを蹴り砕くような一歩。


 一騎当千の出力が、さらに上昇している。研美の肩が如月の胸部へ突き刺さった。


 貫寄。


 二度目の衝撃が、如月の身体を貫く。


「がはっ……!」


 胸骨の奥で、何かが折れる音。衝撃が体を射抜き、あばらが何本か粉砕されて呼吸が止まる。


 だが、如月は倒れなかった。


 衝撃が通る瞬間に腰を切り、上体を捻る。


 完全には逃がせない。


 それでも、真正面から受けるはずだった破壊を、わずかに斜めへ流す。


 同時に、如月の左腕が研美の首へ巻きついた。


 腰を落とし、頭部を脇へ抱え込む。


 ヘッドロック。


「捕まえました!」


 実況が叫ぶ。


 研美は力任せに身体を起こそうとする。如月の足がマットから離れかけるほどの怪力。


 だが、如月は腕を緩めない。


 首を絞めるためではなかった。身体を密着させ、研美の呼吸と鼓動を読むため。


 そして何より、耳元へ言葉を届けるためだった。


「聞こえてんだろ、先輩!」


 如月は荒い息の合間に囁いた。


「いつまで、そいつに好き勝手やらせるつもりだ!?」


 研美の身体が大きく震えた。一瞬だけ、抵抗する力が弱まる。


 だが直後、研美は如月の腰を両腕で掴み、そのまま強引に持ち上げた。


 如月の身体が反転し、背中からマットへ叩きつけられる。


 激しい衝撃が走った。研美は間髪を入れず踏みつける。


 如月は転がってかわす。


 二発。


 三発。


 研美の踵がマットを抉るたび、重い音が響いた。


 力は上がっている。速度も上がっている。


 だが、精度は確実に落ちていた。


 先ほどまで、研美の動きには不気味なほどの無駄がなかった。


 如月の回避先を先回りし、逃げ道を削り、最小限の動きで致命傷を狙っていた。


 今は違う。


 出力だけが膨れ上がり、攻撃が直線的になっている。


 右。


 左。


 踏み込み。


 振り下ろす。


 避けられれば、さらに強い力を重ねる。


 動きが単調だった。


 怒りによって選択肢が狭まり、動きが一本の線へと収束していく。


 神眼にとって、それほど読みやすい相手はいない。如月の視界に無数に存在していた未来が消えていく。


 残された軌道は、わずか数本。研美が右腕を振り上げる。如月は低く沈んだ。


 拳が頭上を通過する。さらに腰を落とし、研美の懐へ潜り込む。


 横隔膜。


 右季と左季。


 その狭間に集まる神経節。


 如月の視界に、一本の細い光が浮かび上がった。


 幽穿へ至る、一筋の軌道。


 だが、まだ足りない。


 アルフォンスならば、フェイントなど必要としなかった。


 相手がどれほど動こうとも、呼吸、筋肉、骨格のすべてを読み切り、迷いなく正確に射抜く。


 英二が一度だけ受けた、あの完璧な幽穿。今の如月には、そこまでの技術はない。


 神眼が未来を示しても、身体が追いつかなければ意味はない。


 数ミリの誤差が、研美の命を奪う。


 だからこそ、如月は技術の不足を別の手段で補う。


 研美の両腕が、如月を掴もうと伸びる。


 その直前、如月は両足を踏ん張った。


 腰を深く落とす。


 そして研美の顔面すれすれで、両手を激しく打ち合わせた。


 ――パンッ!


 乾いた破裂音。


 猫騙し。


 あまりにも単純で、あまりにも原始的な虚を突く技。


 研美の瞼が反射的に閉じた。意識が、ほんの一瞬だけ音へ向く。


 筋肉が硬直し、呼吸が止まった。時間にすれば、刹那にも満たない。


 だが、如月には十分だった。


 神眼が描き出した光の軌道。その細い一本の線へ、如月は自らの指先を重ねる。


 五本の指を揃える。肩から肘、手首、指先までを一直線に繋ぐ。


 アルフォンスの姿が脳裏に浮かんだ。迷いのない踏み込み。相手を殺すためではなく、救うために伸ばされた手。英二の魂に刻みつけられた、あの重い衝撃。


 如月は踏み込んだ。


 幽穿――。


 揃えた指先が、研美の横隔膜付近へ向かって一直線に伸びる。肉体を傷つけるためではない。肉体と精神を繋ぎ止める、目には見えない境界へ触れるため。


 だが――。


 如月の抜き手が研美の身体へ届くよりも、わずかに早く、研美が前へ出た。


 退くのではない。


 突き出された腕を自らの懐へ迎え入れるように、一気に間合いを潰したのだ。


「――ッ!」


 研美の両腕が如月の脇を通り、背中側へ深く差し込まれる。


 相撲のもろ差しにも似た体勢。


 同時に研美は両脇を強く締め、伸びきる寸前だった如月の腕を上腕ごと挟み込んだ。


 如月の指先が、狙っていた一点を目前にして止まる。


 腕を引くことも、押し込むこともできない。


 幽穿へ至る軌道そのものが、研美の肉体によって完全に封じられていた。


 そのときだった。


 ――ボキッ!


 骨の内側まで軋ませるような、鈍く異様な音が響いた。


 決して大きな音ではない。


 それでも、その場にいた者の耳へ不自然なほど鮮明に突き刺さり、リングサイドを抜け、静まり返った会場の奥まで届いていく。


 研美が、差し込んだ両腕を外側へ押し広げたのだ。


 如月の上腕を両脇で挟み込んだまま、閂を極める要領で腕の自由を奪い、胸を突き出すようにして一気に力を加える。


 逃げ場を失った如月の腕が、肘を支点に、本来曲がるはずのない方向へ押し込まれた。


 抵抗は何の意味を返さない。一騎当千の膂力の前では何の意味も持たない。


 幽穿を放つために伸ばされていた腕は、研美の脇に挟まれたまま、無慈悲にへし折られた。


「ぐああああっ!」


 断末魔を思わせる如月の絶叫が、会場の空気を一変させた。


 つい先ほどまで戻りかけていた熱気が、まるで時間を巻き戻されたかのように消え失せる。


 代わって広がったのは、研美の異変が会場を支配していたときと同じ、重く湿った圧迫感だった。


 観客席の至るところから悲鳴が上がる。


「ひいいっ!」


「もう止めろ!ただの残酷ショーじゃねえか!」


 怒号と絶叫が入り混じり、リングへ降り注いだ。


 リング下にいた羽鳥は、痛む身体を押して即座にエプロンへ飛びついた。


 ロープの間からリングへ滑り込むと、ほとんど這うような勢いで二人へ近づいていく。


 そこで目に飛び込んできたのは、研美の脇へ挟み込まれたまま、不自然な角度に折れ曲がった如月の腕だった。


 如月の顔は苦痛に歪み、額には脂汗が浮かんでいる。


 食いしばった歯の隙間から荒い呼吸が漏れ、身体は痛みに耐え切れず細かく震えていた。


 確認するまでもなかった。


 これ以上の続行は危険だった。


 羽鳥は研美との間へ割って入ろうとしながら、タイムキーパー席の田辺へ向けて腕を振り上げる。


 レフェリーストップ。


 試合終了の合図を送ろうとした、そのとき。


「待て!」


 苦痛に掠れながらも鋭い如月の声が、羽鳥の動きを止めた。


 羽鳥が振り返る。


 如月は折れた腕を研美に封じられたまま、顔を上げていた。


「止めるんじゃねえ……!」


 激痛に声を震わせながら、それでも如月は羽鳥を真っ直ぐに睨みつける。


「俺はまだ、ギブアップしてねえぞ!」

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