報告の喉
うっかりしていた。
目下の床から視線を離せない。一瞬体が硬直したまま、脳だけが動き出す。
靴の隣に飛び散る陶器の破片達。先程までそれは目の前のテーブルに置かれていたマスターのお気に入りのマグカップだったはずだ。この喫茶店で働き始めてから二ヶ月。自分含めてバイトはわずか三人という少ないシフトで回しているほどの規模感の店でも、ミスをすることはしょっちゅうだった。不注意。注文ミス。鈍感な味覚。初めてのバイトを家への近さだけで選んだのが失敗だった。僕はこの仕事に向いてない。そろそろやめようか、なんて考えていた矢先のこれ。肘にまだ陶器の冷たい感覚が微かに残っている。
今日の営業はもう終わっており、今は後片付け中のカウンターに僕が一人と、近くの休憩室にマスターが一人。事実の完全な隠蔽はまず無理だ。散らばる最小の破片まで片付けようと思ったら休憩室にある掃除用具を持ってこなくてはいけない。こうなったら、流石に彼に報告せざるを得ない。しかし、いつも些細な失態でも顔を赤くし、叱咤してくるマスターにこの事実を正直に言ったら僕はどうなるだろうか。思わず全身に鳥肌が立ち始める。一度唾をごくりと飲み、深呼吸をしてから覚悟を決めて、休憩室に入る。
「マスター」
「片付け終わったか?」
白髪と整えられた口髭を特徴とした渋い顔が目につく。唸るような重低音を零しつつ、マスターは立ち上がった。歩き出そうとする彼に、僕はすぐさま口に出す。
「……すいません。あの、マスターが大事にしてたマグカップ…………」
少し言い淀む。そんな僕を、彼は凝視する。
「おい」
「え、は、はい」
「報告の喉に戻せ」
「え……え?」
「今、嘘を吐く喉をしていただろ」
「あ、え、その……」
「俺は喉を見ただけで全て分かる」
言われて、エプロンをそっと握りしめる。そのまま。
「うっかり肘で押して、床に落として割っちゃいました……」
近づいてくるマスター。思わず身構える。
「怪我ないか?」
「えっ?」
「怪我」
「え、あ、は……はい。ないです」
「よかった。じゃあちょっとそこに座っとけ」
指で指された休憩室の二脚しかないパイプ椅子のうち一つに座る。硬い座面。腰から全身に冷気が伝わってくる。掃除用具を持ち、部屋を出ていったマスターは、しばらくしてから客に出す用のマグカップを二つ持って帰ってきた。その一つを、僕の目の前に置く。湯気が立っていた。マスターが向かいに座る。
音を立てて彼はそれを啜った。もちろん豆から挽いた、店自慢のドリップコーヒー。吸い込まれそうな黒い水面に映る自分の顔と視線を合わせながら、僕も口に運んでいく。
「今日の説教は、長くなりそうだからな」
マスターが二口目を飲んでから、言った。
その日は特に、容赦のない説教だった。だけど、バイトをやめたのは結局それから一年経った後のことであり、やめてからもなんだかあの日の時が止まったような空間がやけに記憶に残っていた。そのせいか、未だに課長に呼び出されると、つい喉を触ってしまう。この癖を直すつもりはないが、なるべくしないようにはしたいといつも思いつつ。




