離れろと言えない
「俺から離れたほうがいい」と言うべきだった。
あのヴァラの近郊から半日が経っていた。四人は街道を外れ、人の少ない丘陵地帯を歩いている。集落を避けるためだ。キアンの代償(c)が届かない距離を保てば、アナヒドは痛みを受けずに済む。だがそれは同時に、人里から遠ざかることを意味していた。水も食料も補給できない。宿もない。荒野の風が乾いた土を舞い上げ、四人の旅装束を叩いていた。
キアンは列の最後尾を歩いていた。アナヒドとの距離を意識的に取っている。五歩では足りない。十歩でも不安だ。十五歩ほどの間隔を空けて、嗄れた息を吐きながら歩く。前方でアナヒドの三つ編みが風に揺れている。その背中を見つめながら、キアンは同じ言葉を何度も反芻していた。
俺から離れたほうがいい。
傍にいれば彼女を傷つける。物理的に。構造的に。キアンの存在そのものが、アナヒドにとって毒になっている。傍にいるだけで痛みを与え、人里に近づけば増幅回路が回り、アナヒドの身体を蝕む。解決策は簡単だ。離れればいい。キアンが一人で旅を続け、アナヒドは安全な場所に戻ればいい。合理的で、正しくて、誰も傷つかない選択だ。
だがその言葉が喉から出なかった。
代償(a)のせいではない。「離れたほうがいい」は嘘ではない。事実だ。だから灼けるはずがない。喉が灼けるのは嘘をついたときだけだ。事実を述べるなら、声は通る。
出ないのは──本心では離れてほしくないから。
言葉にすれば自分の嘘が壊れる。「アナヒドのことなんかどうでもいい」という嘘が。「一人でいい」という嘘が。「誰かに傍にいてほしいなんて思ったことはない」という嘘が。離れてほしくないと認めれば、それらすべてが崩壊する。十六年間かけて積み上げてきた嘘の城壁が、一言で瓦解する。
嘘つきにとって最も困難なのは、嘘をつくことではない。本音を認めることだ。
丘陵の頂で休憩を取った。アタルが小さな火を起こし、乾いた肉を炙っている。スラオシャが岩に座り、風の音を聴いている。アナヒドは水瓶を膝に置き、残り少ない水を見つめていた。キアンは少し離れた岩の上に腰を下ろし、三人から距離を保っていた。
スラオシャがキアンの沈黙を聴き取った。
肩の鈴が微かに鳴った。灰緑の目がキアンに向けられる。聴いている。キアンの言葉ではなく、キアンの沈黙の奥にある声を。
「あなたは今、『離れろ』と言いたいけど言えないのですね」
キアンは顔をしかめた。また聴かれた。言葉にしていない本音を、この青年は空気のように当然のこととして拾い上げる。嘘が通じないのはアタルも同じだ。だがアタルは見抜いても黙っている。スラオシャは聴き取ったものをそのまま返してくる。鏡のように。遠慮という概念が、この世間知らずの神格には備わっていない。
「言えないのは──離れてほしくないからです」
「黙れ」
嗄れた声で返した。喉は灼けなかった。「黙れ」は命令であって嘘ではない。だが声が震えていた。
スラオシャは黙った。言われた通りに。だが言葉は既に放たれていた。キアンの本音を、他者の口が言語化してしまった。離れてほしくない。認めたくなかった本音が、澄んだ声で丘陵の風に溶けていった。
アナヒドが立ち上がった。水瓶を腰帯に挟み、キアンのほうへ歩いてきた。キアンは身構えた。近づくな、と言うべきだ。距離を取れ。おまえが傷つく。だが声が出ない。喉が灼けるからではない。言いたくないからだ。
アナヒドがキアンの前に立った。五歩の距離。それ以上は近づかなかった。共感力が軋んでいることを、アナヒド自身が感じ取っているのだろう。だがその五歩の距離で、アナヒドは真っ直ぐにキアンを見つめた。
「離れません」
静かな声だった。声を張らず、だが揺るがない。深い青の瞳が、西日を受けて淡く光っている。風が三つ編みを揺らし、青い刺繍の帯がはためいた。
キアンの真実視がその言葉を視た。嘘の色がない。赤の欠片もない。純粋な白い光。真実だ。
「あなたの傍にいると痛いのは事実です」
白い光。
「でも、離れることのほうが──もっと辛い」
白い光。
「それは嘘ではありません」
白い光が、丘陵の西日よりも眩しかった。アナヒドは覚悟を決めている。痛みを知った上で、傍にいることを選んでいる。これは使命感ではなかった。神殿から命じられた監督任務の延長ではなかった。アナヒド自身の──個人としての──意志だった。
キアンは何か言おうとした。
喉が灼けた。
鋭い灼熱が喉を走り、声が途切れた。首筋の瘢痕が熱を持ち、痛みに顔が歪む。
言いたかったのは──「ありがとう」。
嘘であるはずがない。感謝は本音だ。アナヒドの言葉が嬉しかった。その白い光が、真実の輝きが、嘘で塗り固められたキアンの内面に差し込んで、凍えた場所を温めた。感謝は嘘ではない。なのになぜ灼けたのか。
代償ではなかった。嘘をついたから灼けたのではない。本音を声にする筋肉が、あまりにも錆びついていたのだ。「ありがとう」という言葉を、人生で一度も真剣に口にしたことがない。孤児院で、神殿で、旅路で──誰かに心からの感謝を伝えたことが、一度もない。本音を言う回路が、使われなさすぎて動かなくなっていた。錆びた蝶番を無理に開こうとして、軋んだのだ。
キアンは口を閉じた。言葉の代わりに、アナヒドの白い光を見つめた。
何も言えなかった。言葉は喉の奥で灼けて消えた。だが五歩の距離を隔てて、アナヒドの深い青の瞳がキアンを見つめていた。その目は、キアンの沈黙の意味を理解していた。共感力がなくとも──いや、共感力を使わずとも──わかっていた。
キアンの沈黙が、どんな言葉よりも正直であることを。
風が吹いた。丘陵の草が揺れ、二人の間の五歩の距離を、乾いた空気が通り過ぎていった。




