増幅する痛み
増幅回路に気づいたのは、次のヴァラの近郊を通過しようとしたときだった。
門前払いが続いていた。三つ目の集落を追い返されてから、四人は街に入ることを諦め始めていた。宿も市場も使えない。水は街道沿いの涸れかけた井戸から汲み、食料は野草と干し肉で凌いでいる。アタルは何も言わなかったが、スラオシャが時折、空の袋を不思議そうに覗き込んでいた。「人間は毎日食べるのですか」と訊かれたとき、キアンは「おまえは食わないのか」と返した。「必要はありませんが、味覚は興味深いので試してみたいです」。人間社会に不慣れな神格の言葉が、張り詰めた空気をわずかに緩めた。
そのヴァラは街道沿いの中規模の集落で、城壁の内側に数百人が暮らしている。門前払いを避けるため、四人はヴァラの外縁を迂回する道を選んだ。城壁から五百歩ほどの距離を保ち、畑地の畦道を静かに歩く。スラオシャの鈴の音が微かに鳴り、キアンの代償(c)を抑えようとしていた。だが五百歩の距離では──足りなかった。
キアンの真実視が、城壁の向こうの色彩を拾い始めた。赤い靄。数百人分の嘘が重なり合い、ヴァラ全体を覆う赤い霧のようなもの。制御できない。焦点化を試みたが、代償(b)が情報の奔流を押し込んでくる。商人の偽り、夫婦の隠し事、兵士の虚勢、子供の小さな嘘──すべてが色として視界に浮かぶ。キアンの存在が、城壁越しにすら人々の自己欺瞞に触れている。代償(c)が、距離を無視して広がり始めていた。
そしてその苦痛が──アナヒドに流れ込んだ。
キアンが周囲の嘘を自覚させる。人々が苦痛を感じる。アナヒドの共感力がその苦痛を吸収する。キアンの傍にいるほど、アナヒドが受ける痛みが増大する。構造として理解するのは簡単だった。だが理解と実感は違う。
アナヒドが突然膝をついた。
音もなく、崩れるように。一歩前を歩いていた足が止まり、膝が畦道の乾いた土に沈んだ。三つ編みが肩から滑り落ち、俯いた顔を隠した。
「アナヒド!」
キアンが振り向いた。蒼白な顔が視えた。血の気が完全に引いている。額に冷や汗が浮かび、唇が微かに震えている。深い青の瞳が焦点を失い、どこか遠くを──いや、どこにもない場所を見つめていた。共感力が住民たちの苦痛を一斉に拾い上げ、キアンの代償(c)がそれを増幅している。キアンの存在が人々の嘘を壊し、壊された人々の苦痛がアナヒドに流れ込む。増幅回路。キアンが近くにいるほど、回路は強く回る。
キアンは反射的にアナヒドに駆け寄ろうとして──足を止めた。
近づけば、悪化する。
その認識が、足を縫い止めた。駆け寄りたい。だが駆け寄れば、アナヒドの苦痛が増す。キアンの存在そのものが、アナヒドにとって毒になっている。
代わりに、後ずさった。一歩、二歩、三歩。背中を向けるようにして、アナヒドから距離を取った。五歩。十歩。畦道の上に、二人の間に空白が広がった。
アナヒドの表情が、少し和らいだ。呼吸が楽になったのが、離れた場所からもわかった。肩の強張りが解け、俯いていた顔がゆっくりと上がる。まだ蒼白だが、焦点が戻っている。
距離を取ると苦痛が和らぐ。近くにいると苦痛が増す。
単純な法則だった。残酷なほど単純な。
スラオシャが静かにアナヒドの傍に寄り、鈴の音で痛みを緩和しようとしていた。鈴の音には代償(c)を抑える効果がある。だがこの距離、この人数──城壁の向こうの数百人の苦痛を一度に受けたアナヒドには、鈴の音だけでは足りない。アタルが老いた手をアナヒドの背に当て、温かい火の気配で身体を支えている。
キアンだけが、離れた場所に立っていた。
畦道の上で、十歩の距離を隔てて、三人の背中を見つめている。アタルの温かい手がアナヒドを支え、スラオシャの鈴が苦痛を和らげている。二人がアナヒドを助けている。キアンだけが何もできない。近づくことが加害になる。手を伸ばすことが暴力になる。助けたい相手に触れることすら許されない。
助けに行けない。近づくほど、彼女を傷つける。この矛盾が、キアンの内臓を握り潰すようだった。城壁の向こうから、まだ赤い靄が漂ってくる。数百人分の嘘の残響が、キアンの視界を赤く染めている。その赤が、アナヒドに流れ込む苦痛の源だ。キアンがここにいる限り、赤は消えない。
自分の傍にいると──アナヒドが傷つく。
物理的に。構造的に。代償(c)とアナヒドの共感力の相性が最悪だった。キアンが周囲の嘘を自覚させ、人々が苦痛を感じ、アナヒドがその苦痛を吸収する──この連鎖が、アナヒドの身体を蝕んでいる。今までも傍にいるだけで微かな痛みを与えていたはずだ。街道の旅路で、小さなヴァラを通り過ぎるたびに。アナヒドはそれを一度も口にしなかった。微笑んで、「大丈夫です」と言い続けていた。
キアンの顔から血の気が引いた。
知っていたはずだ。アナヒドの共感力が、キアンの嘘に触れるたびに痛みを感じることは、旅の初めから分かっていた。だが代償(c)との増幅回路は──これほどまでに残酷な構造だとは、思っていなかった。いや、考えないようにしていた。考えれば、傍にいることが許されなくなるから。
それもまた、嘘だった。自分自身への。
アナヒドがゆっくりと立ち上がった。スラオシャの手を借りて。膝についた土を払い、乱れた三つ編みを肩に戻す。そしてキアンのほうを見た。
微笑んだ。
「大丈夫です」
キアンの真実視がその言葉を視た。
灰色に染まっていた。大丈夫ではない。身体にはまだ痛みの残響がある。額の汗は乾ききっていない。蒼白な顔色は戻りきっていない。それでもアナヒドは微笑んでいる。嘘を承知で。痛みを承知で。キアンを安心させるために、自分を偽っている。
キアンは何も言えなかった。十歩の距離を隔てて、アナヒドの灰色の微笑みを見つめることしかできなかった。
その十歩が、世界で最も長い距離に思えた。
城壁の向こうから、子供の笑い声が聞こえた。嘘のない笑い声だ。キアンの真実視に白く映る、純粋な音。だがその白い音すら、今のキアンには痛みの種に思えた。あの子供たちも、やがて嘘を覚える。嘘で自分を守ることを学ぶ。そしてキアンの傍を通れば──その守りを壊される。
四人はヴァラから離れた。アナヒドはスラオシャの隣を歩き、キアンは十歩後ろを歩いた。その十歩の空白を、乾いた風だけが埋めていた。




