ダエーワの巣
旅路の途上、放棄された集落の廃墟に遭遇した。
かつてはヴァラだったのだろう。城壁の残骸が砂に半ば埋もれ、日干し煉瓦の家々が崩れかけている。門の跡には、かつて善悪を示す紋章が彫られていた形跡があった。今は風化して何の紋様かもわからない。聖火が消えた後に放棄された集落──人々がここを捨てた理由は、近づけばすぐにわかった。黒紫の霧が廃墟を覆い、穢れの濃度が段違いだった。空気そのものが重い。呼吸するたびに甘い腐臭が肺の奥に染み込み、吐き出しても匂いが残る。
キアンの真実視が反応した。廃墟全体が黒紫の色彩に沈んでいる。嘘の赤でも真実の白でもない──穢れそのものの色だった。善悪の判定を超えた、もっと原初的な汚染。色の密度が濃すぎて、個々の嘘や真実を識別できない。すべてが混濁している。
アタルが足を止めた。老人の赤みがかった瞳が廃墟を見渡し、眉間に皺が刻まれる。
「ダエーワの巣じゃ。中位が複数──迂回するか」
だが迂回路はなかった。街道がこの廃墟を貫いており、左右は岩場と砂丘に阻まれている。越えるには半日以上の迂回が必要だった。アナヒドが銀壺を胸に抱き、キアンを見た。深い青の瞳に決意がある。「通りましょう」と静かに言った。
中位の魔神が複数体、廃墟の中に巣食っていた。
人型に近い影。歪んだ四肢を持ち、顔に相当する部分が黒い穴になっている。下級より明らかに大きく、知性を感じさせる動きをしていた。壁の陰に身を潜め、三人の動きを窺っている。キアンの真実視で見ると、ダエーワの内部に黒い核が脈動しているのが視えた。穢れが凝縮した部位──弱点であり、同時に力の源。三人を見つけると、素早く散開して包囲を試みた。言葉を持たないが、連携の意思がある。本能ではなく、戦術だった。
アタルの火が壁となって三人を守った。乾いた空気の中で炎が爆ぜ、黒紫の霧を一瞬だけ押し返す。だが中位ダエーワは下級より賢い。火の壁を迂回し、崩れた壁の隙間を縫って接近してくる。一体が壁の上から跳躍し、もう一体が地面を這うように回り込む。挟撃の構え。
アナヒドが浄化の水を放った。銀壺から伸びた水流が穢れの霧を切り裂き、ダエーワの動きを鈍らせる。だが効きが悪い。以前なら浄化の光が穢れを焼き尽くしていたのに、今は弱める程度にしかならない。水の色が薄い。力が衰えている。アナヒドの表情が一瞬だけ歪んだ。自分の力の限界を感じている顔だった。
「右の一体、腹の中に核がある!」
キアンが叫んだ。真実視で弱点──穢れが凝縮した部位──を視抜く。黒い核が脈動する位置を、正確に指し示す。
アナヒドの浄化が右のダエーワの穢れを弱め、核の周囲の防壁が薄くなった瞬間を、アタルの火が直撃する。ダエーワが獣のような咆哮を上げて崩壊し、黒い霧となって散った。霧は風に乗って上空に消えていく。
「左の二体、核は胸と頭!」
残りの二体も同様に連携で仕留めた。キアンが視、アナヒドが弱め、アタルが焼く。三者の役割が噛み合った戦闘だった。キアン自身に戦う力はない。だが視ることができる。嘘を視る目が、穢れの急所を暴く目として機能する。真実視の力が戦場で意味を持つ。その手応えが、キアンの中に新しい感覚を残した。
だがアナヒドの消耗が激しかった。戦闘が終わった後、アナヒドは膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。銀壺の水が目に見えて減っている。水の力の衰退が、確実に戦闘能力を蝕んでいる。三体の中位ダエーワを倒すのに、以前の倍以上の力を使わなければならなかった。
アタルが静かにアナヒドの肩に手を置いた。老人の目に、憂いの色が浮かんでいた。言葉はなかった。だがその手の重みに、アナヒドは少しだけ目を伏せた。自分の力の衰退を、三人とも認識している。だが誰も口にしない。口にすれば事実が重くなる。それもまた、一種の嘘かもしれなかった。
戦闘後、廃墟を調べた。
かつての住民の持ち物が散乱していた。割れた陶器、錆びた鍋、子どもの玩具。日常の痕跡が、穢れの霧の中に埋もれている。家の入口には靴が揃えて置かれていた。帰ってくるつもりで出て行ったのだろう。だが持ち主は戻らなかった。
キアンの真実視が、物に刻まれた記憶の色を視た。
陶器に温かい白──家族で食事をした記憶の残像。使い込まれた表面に、何度も手が触れた痕跡が白く光っている。子どもの玩具に柔らかい光──母親が手作りした痕跡。木を削って作った馬の人形に、小さな指が何度も握った跡が残っている。壁に掛かった布切れに、褪せた色──誰かの笑顔の残像。織り込まれた模様は祝いの意匠だった。婚礼か、子の誕生か。
人々がここで普通の生活を送っていた。朝起きて、水を汲み、食事を作り、子どもを育て、夜になれば眠る。聖火に祈り、善き行いを心がけ、時には小さな嘘をつき、時には真実を語る。嘘も真実もある、ただの日常。それが聖火の消滅とともにドゥルジの穢れに呑まれた。善悪の秩序が崩壊し、穢れが染み出し、人々は逃げ出すしかなかった。
廃墟の奥、崩れかけた壁に、子どもが描いた壁画が残っていた。
稚拙な筆致で描かれた聖火と、その前に立つ家族の絵。火の光が家族を照らし、笑顔が並んでいる。父と母と、三人の子ども。一番小さな子どもが、聖火に手を伸ばしている。火に触れたいのか、火を掴みたいのか。無邪気な筆致が壁に刻まれ、穢れの霧の中でもなお消えずに残っている。
キアンはその壁画を長く見つめた。
かつてここにいた家族は、今どこにいるのか。無事に逃げ延びたのか。それとも穢れに呑まれたのか。壁画は答えない。ただ聖火の光と笑顔だけが、廃墟の壁に張りついている。
善き生活があった。善き信仰があった。それでも聖火は消え、穢れは来た。善悪の秩序は人々を守れなかった。
真実視が壁画の色を視た。稚拙な絵の具の下に、微かな白い光が残っている。描いた子どもの──幸福の記憶が、色として壁に焼きついている。穢れの霧に覆われてもなお消えない白。善悪の秩序が崩壊しても、この子どもが聖火の前で感じた温もりだけは──真実として残っている。
キアンは壁画から目を逸らし、廃墟を後にした。背後で黒紫の霧が、壁画を静かに覆い始めていた。




