穢れの論理
翌朝、キアンの様子がおかしいことにアナヒドが気づいた。
朝の光が荒野に差し込み、焚き火の灰が白く冷えている。キアンは灰の前に座ったまま、目を開けていた。眠れなかったのか、あるいは眠ったが休まなかったのか。目の下に隈が浮き、視線が定まらない。真実視の焦点化が乱れているのか、ときおり視線が虚空を彷徨い、見えない何かを追っている。
「何かあったのですか」
アナヒドの声が穏やかに問いかけた。銀の水瓶を手に、キアンの横に腰を下ろす。近すぎず、遠すぎない距離。共感力がキアンの内面の動揺を捉えているはずだが、それを言葉にはしなかった。感じ取っていることと、それを指摘することは違う。アナヒドはその境界を知っている。
キアンは答えなかった。ドゥルジ・ナスとの対話をどう伝えればいいかわからなかった。「敵」の論理に揺さぶられたことを認めたくない。穢れの女魔に問いを投げかけられ、その問いに答えられなかったこと。それは弱さだ。敵の論理に反論できないのは、信念が弱いからだ。少なくとも、そう思いたかった。
だがアタルには伝えた。アナヒドが水を汲みに離れた隙に、キアンは老人の傍に寄った。
「あいつの言うことは正しいのか?」
嗄れた声が問うた。喉が灼けない。本心からの問いだった。
アタルは長い間黙った。焚き火の灰を棒で突き、冷えた灰の中から微かに赤い火種を探すように。老人の目は灰を見つめているが、視ているのは灰ではないのだろう。長い記憶の中の何かを──遠い過去の何かを反芻しているような、沈んだ目だった。
それから答えた。
「正しいかどうかは問題ではない。おまえがどう視るかじゃ」
中立的な回答だった。善の側にいるはずの老人としては異質な態度。ドゥルジ・ナスの論理を否定しなかった。「嘘は悪だ」と断じなかった。「嘘で人を守ることは間違いだ」とも言わなかった。善悪の判定を下さず、判断をキアンに委ねた。
キアンは戸惑った。アタルなら「嘘は虚偽であり、真実こそが正しい」と言うものだと思っていた。アタルは聖火の守護者であり、アシャ──真実と正義と秩序──の側に立つ老人だ。ドゥルジ──虚偽と混沌と穢れ──の論理を退け、キアンに善悪の確信を取り戻させてくれるはずだった。
だがアタルはそうは言わなかった。善悪を超えた場所から物事を見ているような、奇妙な中立性。聖火の守護者としてはあり得ない態度だった。善の側の人間が、悪の論理を否定しない。それは裏切りなのか、それとも──善悪を超えた何かを知っているのか。
キアンの中に、アタルに対する新たな疑問が芽生えた。この老人は何者なのか。善の側にいるなら、なぜ善を明言しない。聖火の力を持つなら、なぜ聖火の教えを説かない。この中立性は、知識の深さから来るものなのか。あるいは──
考えを遮るように、アナヒドが戻ってきた。水瓶に新しい水を満たし、三人分の朝食の準備を始める。だがアナヒドの動きにも、微かな変化があった。いつもより慎重に、いつもより静かに。キアンの異変を感じ取っているのだ。
キアンはアナヒドにもドゥルジ・ナスの名を告げた。隠し通す意味がなかった。三人で旅をしている以上、情報は共有すべきだ。
アナヒドの表情が曇った。銀の水瓶を持つ手が微かに震えた。巫女として、穢れの女魔の名は忌むべきものだ。ドゥルジ・ナス──屍の穢れ、腐敗の化身、虚偽の母。聖典に記された、最も忌まわしい存在の一つ。その名を聞いただけで、アナヒドの中の巫女としての本能が警鐘を鳴らしているのだろう。
だがアナヒドの反応はキアンの予想とは違っていた。嫌悪や恐怖ではなく──困惑。そして、その奥にある、静かな悲しみ。
「あの方の中に──痛みがありました」
キアンは眉をひそめた。
「痛み?」
「共感力で……感じたのです。昨日、あの方が街道に現れたとき。ドゥルジ・ナスと名乗った方の中に、深い悲しみがありました。怒りではなく……悲嘆。何かを失った者の痛み。長い時間をかけて積もった、古い古い悲しみ」
アナヒドの声が小さくなった。自分の言葉に戸惑っているように。
「穢れの存在にも……苦しみはあるのですね」
アナヒドの共感力は、キアンの真実視とは異なるアプローチで真実に到達していた。キアンは嘘と真実の「色」を視る。アナヒドは感情の「痛み」を感じる。キアンが視たドゥルジ・ナスは、赤と白の螺旋が絡み合う複雑な色だった。アナヒドが感じたドゥルジ・ナスは、深い悲しみを抱えた存在だった。
同じ存在に対して、異なる真実を掴んでいる。どちらも真実だ。だがどちらか一方だけでは、全体は見えない。
キアンは昨夜のドゥルジ・ナスの翡翠色の目を思い出した。去り際に浮かんだ悲しみの色。あれが本物だったのだとすれば──アナヒドの共感力はそれを裏付けている。穢れの女魔は、怒りで動いているのではない。悲しみで動いている。悲しみが動機なら──何を悲しんでいるのか。何を失ったのか。
「あの人は……怒っているのではなく、悲しんでいる」
アナヒドの呟きが、朝の風に乗って消えた。風が荒野の砂を巻き上げ、焚き火の灰が舞う。灰の中に、微かに赤い粒が混じっていた。まだ完全には冷えていない火種。
キアンはアナヒドを見た。彼女の共感力が、キアンの真実視とは別の真実を掴んでいる。嘘と真実の色だけでは見えないものがある。感情の層。痛みの層。悲しみの層。真実視は事実を暴くが、感情は暴かない。共感力は感情を掴むが、事実は掴まない。
二つの異なる真実への到達方法。「視る」と「感じる」。どちらか一方では世界の全体像は見えない。
キアンは立ち上がり、荒野を見渡した。朝日が地平線から昇り、赤い光が大地を染めている。ドゥルジ・ナスの赤紫の髪と同じ色だった。甘い腐臭はもう漂っていない。だが問いは残っている。「どちらが悪だ」──その問いが、朝の光の中でも消えずに、キアンの頭の中で反響し続けていた。
アタルが荷をまとめ始めた。旅は続く。答えが出ようが出まいが、足を止めるわけにはいかない。南へ。次の聖火を目指して。
キアンは歩き始めた。だが昨日までとは、視界が少しだけ変わっていた。道行く草の赤と白が、以前ほどはっきり分かれて見えない。色の境界が滲んでいる。善と悪の境界が──キアンの内側で、少しだけ溶け始めていた。




