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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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どちらが悪だ

 夕暮れの荒野で、ドゥルジ・ナスが再び現れた。


 キアンが一人のときを狙ったかのように。焚き火の光が届かない場所で、赤紫の髪を風に流した女が立っていた。翡翠色の目が夕焼けを映し、甘い腐臭が微かに漂う。夕日が荒野を赤く染め、女の蒼白い肌にも赤い光が差している。だが彼女の足元には、やはり影がなかった。


 アタルとアナヒドは焚き火の傍にいる。キアンは水を汲みに少し離れた岩場に来ていた。偶然か、あるいはドゥルジ・ナスが仕組んだのか。どちらにせよ、二人きりだった。


「来たか」


 キアンは身構えた。だがドゥルジ・ナスに攻撃の意志はなさそうだった。翡翠色の目に戦意はない。むしろ穏やかな──教師が生徒に語りかけるような、あるいは姉が弟に話しかけるような──親しみがある。それが一番危険だと、キアンの直感が告げていた。


「話をしようよ」


 ドゥルジ・ナスが岩に腰を下ろした。脚を組み、顎に手を当てて、キアンを見上げる。夕日を背にした女の姿は、逆光で輪郭だけが赤く縁取られている。


「ある村でね、疫病が流行ったの」


 唐突に語り始めた。声は穏やかで、感情を抑えた語り口だった。だが言葉の一つ一つに、記憶の重みが込められている。


「人々は恐慌に陥りかけてた。死者が出て、次は自分かもしれないって。村長は逃げた。神官は祈るだけ。誰も何もできなかった。あたしはね、その村に行って言ったの。『すぐに終わる。この病はもう峠を越えた』って」


「嘘だったのか」


「嘘だよ。完全な嘘。峠なんか越えてなかった。死者はまだ増えるところだった」


 ドゥルジ・ナスが微笑んだ。だがその微笑みに、嘲りはなかった。


「でもね、あたしの嘘のおかげで人々はパニックに陥らなかった。逃げ出す者が減った。秩序を保って、互いに助け合って、病人の世話をして、水を煮沸して飲んで、結果的に多くが生き延びた。嘘が──人を救ったの」


 キアンは黙って聞いていた。反論する言葉が見つからなかった。あの父親の嘘を思い出していた。「すぐに治る」と娘に嘘をついた父親。あの嘘もまた、娘を守っていた。嘘が人を守る。その構造を、キアンは既に目撃している。神殿都市の神官たちの嘘も同じだ。「聖火は永遠なり」──あの嘘が都市の秩序を保っていた。嘘を暴けば混乱が起きる。嘘を維持すれば秩序が保たれる。真実が必ずしも善ではないという事実を、キアンは旅の中で何度も突きつけられてきた。


 ドゥルジ・ナスの声が鋭くなった。甘さが消え、刃のような硬さが現れた。


「あんたは真実で人を傷つけた。さっきの集落で何があったか知ってるよ。あんたの真実が人の嘘を壊して、あの人たちを傷つけた。夫婦が壊れ、隣人が裏切り合い、街が混乱した」


 事実だった。一言も反論できない。キアンの代償(c)が集落の人々の嘘を暴き、人々を傷つけた。意図していなかったとしても、結果は同じだ。壊れた関係は元に戻らない。知ってしまった真実は忘れられない。


「──ねえ、どちらが悪だ?」


 ドゥルジ・ナスの翡翠色の目が、夕焼けの中でキアンを射抜いた。夕日の赤と翡翠の緑が混ざり合い、異様な光を放っている。


「嘘で人を守ったあたしと、真実で人を壊したあんた。どちらが悪?」


 沈黙が落ちた。荒野の風が砂を巻き上げ、夕日が地平線に沈みかけている。キアンの影が長く伸び、ドゥルジ・ナスの影のない足元に触れている。


 キアンは答えられなかった。


 ドゥルジ・ナスの論理には反論できない。嘘が人を救った事例を、キアン自身が見てきた。老婆の嘘、父親の嘘、指導者の嘘──嘘が人を守る場面を何度も目撃した。嘘は「悪」の色をしていても、その内部に白い光を宿すことがある。善意の嘘。守りの嘘。それを「悪」と断じることが、本当に正しいのか。


 そして自分の真実が人を傷つけた場面も。集落の門が閉まる音が耳に蘇る。投げられた石が足元に転がる感触が蘇る。追い出された。真実によって。


「嘘は悪」という前提が揺らいでいた。善悪の二元論で世界を視ることが、キアンの力の基盤だった。嘘は赤、真実は白。赤は悪、白は善。単純な構図。だがその構図が──崩れかけている。赤の中に白がある。白の中に赤がある。善の中に悪がある。悪の中に善がある。ドゥルジ・ナスの色──赤と白の螺旋──が、その混在を体現している。


 ドゥルジ・ナスは答えを待たずに立ち上がった。赤紫の髪が風に流れ、翡翠色の目が微かに悲しみを帯びた。その悲しみが本物かどうか、キアンの真実視では判別できなかった。嘘と真実が螺旋を描く存在の感情を、二元的な色で判定することはできない。


「考えておきな」


 甘い腐臭が消え、女の姿が夕闇に溶けた。輪郭が薄れ、色が散り、甘い匂いだけが数秒残って、それも風に流された。


 一人残されたキアンが、焚き火の前に戻った。アタルが焚き火の番をしており、アナヒドが眠っている。老人がキアンを一瞥したが、何も問わなかった。何かを察しているのかもしれない。だがキアンも何も言わなかった。


 膝を抱えて座った。焚き火の炎が揺れている。橙色の光。善の色でも悪の色でもない、ただの火の色。


「どちらが悪だ」


 嗄れた声で呟いた。喉は灼けなかった。問いだから。嘘でも真実でもない、ただの問い。


 その問いが、頭から離れなかった。焚き火の炎が揺れるたびに、ドゥルジ・ナスの翡翠色の目が浮かぶ。あの目の中に宿っていた悲しみの色。あれが本物なら──穢れの女魔もまた、何かに苦しんでいる。キアンと同じように。


 夜が深まっていく。焚き火の炎が小さくなり、闇が近づいてくる。星が一つ、二つと現れ、荒野の暗い空を埋めていく。星の光は白い。だがキアンの目には、その白ささえも疑わしく映った。あの白は本物の白なのか。それとも、闇の中にいるから白く見えるだけなのか。


 アナヒドが寝返りを打ち、小さく呻いた。夢の中でも共感力が働いているのか、眉間に皺が寄っている。キアンは彼女を見つめた。アナヒドの傍にいること自体が、もう加害になりつつある。代償(c)が彼女の自己欺瞞を暴く可能性がある。アナヒドが自分に嘘をついているとすれば──その嘘が壊されるとすれば──キアンの責任だ。


 膝を抱え直した。焚き火の最後の炎が燃え尽き、灰になった。灰の中に火種はない。冷たい灰だけが残っている。


 キアンは膝を抱えたまま、答えのない問いを抱えて夜を過ごした。


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