穢れの女魔
翌日、街道に一人の女性が立っていた。
午後の光が斜めに差し込む街道の真ん中に、影のように佇んでいる。深い赤紫の長髪が風に流れ、翡翠色の目が午後の光を反射している。蒼白い肌は月光を纏ったように輝き、薄い唇に微笑みが浮かんでいた。衣は暗い紫で、裾が地面に触れているが、地面に影を落としていない。光があるのに影がない。その不自然さに気づいたとき、キアンの背筋に冷たいものが走った。
キアンの真実視が激しく反応した。
視界が揺れた。女性の周囲の色が──見たことのない密度で渦巻いている。だが予想とは違った。「嘘の色で満ちている」のではない。嘘と真実が入り混じった、見たことのない複雑な色だった。赤と白が螺旋のように絡み合い、その間を灰色の帯が貫いている。赤が白を侵食し、白が赤を浄化し、灰色がその両方を繋いでいる。善にも悪にも分類できない。どの色にも還元できない。これまでキアンが視てきたどんな人間の色よりも、どんなダエーワの色よりも、複雑で深い。
真実視が過負荷を起こしかけた。焦点化を維持しなければ、色の洪水に呑まれる。キアンは意識的に焦点を絞り、女性の輪郭だけを視るようにした。それでも色は溢れてくる。
アタルが足を止めた。老人の表情に緊張が走ったが、同時に──どこか懐かしさに似たものが浮かんでいる。敵と対峙する者の顔ではなかった。長い不在の後に旧友と再会した者の、複雑な感情が滲む顔だった。
「あたし、ドゥルジ・ナス。穢れの女魔ってやつ」
女性が微笑んだ。声は甘く、低く、耳の奥に染み込むような響きを持っていた。甘い腐臭が微かに漂う。花が腐る瞬間の匂い。美しさと崩壊が同居する匂い。
「──怖い?」
問いかけの口調は軽い。だが翡翠色の目の奥に、試すような光があった。キアンの反応を見定めている。恐怖するか、怒るか、逃げるか。どの反応を返すかで、キアンという人間の本質を測ろうとしている。
アタルが穏やかに、だが油断なく対峙した。炎を纏った手を下ろしたまま、静かに女を見据えている。攻撃の姿勢ではない。だが迎撃の準備は整えている。長い経験に裏打ちされた、無駄のない警戒。
「久しぶりだね、火の爺さん」
ドゥルジ・ナスが笑った。古い知り合い同士のような、馴れ馴れしい口調。親しみと皮肉が混ざった、独特の距離感。アタルとドゥルジ・ナスの間に、長い歴史が横たわっていることが伝わってきた。何十年、あるいはそれ以上の──人間の時間では測れないほどの歴史。
アタルは答えなかった。ただ目を細め、ドゥルジ・ナスを見つめている。老人の真実視──もし持っているなら──が、何を視ているのか、キアンにはわからなかった。
ドゥルジ・ナスの翡翠色の目がキアンに移った。じっと見つめる。品定めをするように、だが同時に興味深いものを見つけた子どものように。
「嘘つきがアシャの目を持ってるんだって? 面白い矛盾だね」
嘘つきが真実を視る力を持つ。その矛盾を、初対面の相手に正確に指摘された。ドゥルジ・ナスの情報力か、あるいは直感か。どちらにせよ、キアンの本質を一言で射抜いている。
キアンは軽口で返そうとした。
「矛盾は得意だ」
喉が灼けた。嘘だった。矛盾が得意なわけがない。自分の中の矛盾に日々苦しんでいる。嘘をつきたい人間が嘘をつけない力を持つ。その矛盾を抱えて生きることに、慣れたことなど一度もない。
嗄れた声が途切れ、キアンは咳き込んだ。喉の灼けが痛みとして残る。ドゥルジ・ナスの前で嘘をついた──そのこと自体が、屈辱だった。嘘つきの武器が通じない相手。いや、通じないのではない。嘘をつけば代償で自分が灼ける。自縄自縛。
ドゥルジ・ナスが笑った。嘲笑ではなかった。むしろ共感に近い笑い。
「嘘をつけないの? あんたの力、あんた自身を一番苦しめてるじゃない」
的確だった。初対面の相手に、核心を突かれた。嘘つきが真実を視る力を持ち、嘘をつくたびに代償を払う。力が最も苦しめているのは、敵でも味方でもなく、キアン自身だ。その構造を、ドゥルジ・ナスは一目で見抜いている。
アナヒドが一歩前に出た。銀の水瓶を構え、浄化の姿勢を取る。水の光が微かに揺れ、アナヒドの手が震えている。恐怖ではない。ドゥルジ・ナスから伝わってくる感情の波に、共感力が反応しているのだ。穢れの女魔の内面から流れ込んでくる感情が、アナヒドの心を揺さぶっている。
だがドゥルジ・ナスは戦う気配を見せなかった。アナヒドの浄化の光を一瞥し、微かに目を細めただけだった。むしろ面白がっているようにも見えた。水の巫女が穢れの女魔に浄化を向ける──その構図を、どこか滑稽だと思っているかのように。
「あんたの水、前より薄くなってない?」
ドゥルジ・ナスがアナヒドに向けて呟いた。声に悪意はない。ただ事実を指摘しただけだ。だがその一言で、アナヒドの手の震えが大きくなった。自分でも気づいている衰退を、敵に指摘される痛み。
アタルの掌に炎が燃え上がりかけた。だがドゥルジ・ナスが片手を挙げ、「やめなよ、火の爺さん。今日は喧嘩しに来たんじゃないんだから」と軽く制した。老人の炎が躊躇するように揺れ、小さくなった。力の問題ではない。ドゥルジ・ナスの態度が、本当に敵意を持っていないのだとアタルが判断したのだ。
去り際に、ドゥルジ・ナスが言った。
「また会おうよ。あんたにはね、聞かせたい話がある」
甘い腐臭が風に消えた。赤紫の髪が揺れ、女の姿が陽炎のように薄れていく。輪郭が溶け、色が散り、最後に翡翠色の目だけが一瞬だけ残って、それも消えた。
沈黙が落ちた。三人が街道に立ち尽くしている。風が砂利を転がす音だけが聞こえた。
キアンはドゥルジ・ナスの色を反芻していた。嘘と真実の螺旋。善悪に分類できない存在。今まで見たどの人間とも、どのダエーワとも違う色。人間は嘘と真実を持つが、両者は混じり合わない。赤は赤、白は白。だがドゥルジ・ナスの色は、赤と白が螺旋を描いて絡み合い、分離できなかった。嘘が真実を含み、真実が嘘を含んでいる。
あの女は──何者なのか。
キアンの問いに、答える者はいなかった。アタルは黙って歩き始め、アナヒドは水瓶を抱えたまま小さく息を吐いた。




