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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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腐敗の痕跡

 献身の火が消えた大神殿は、巨大な空洞だった。


 石造りの壁が天を突いている。柱は六角形に配置され、天蓋を支える梁には善神と悪神の物語が彫り込まれていた。かつては壮麗だったのだろう。だが彫刻の表面は煤けて黒ずみ、善神の顔も悪神の顔も同じ灰色に沈んでいる。善悪の区別が消えた場所にふさわしい色だった。


 火壇は中央に据えられている。巨大な石の台座。聖火を受け止めるための窪みが穿たれ、窪みの縁には浄化の紋様が刻まれていた。だが火壇の上に炎はない。灰だけが厚く積もり、風が吹くたびに灰の粒子が舞い上がる。灰は白ではなく、濁った灰色だった。かつて聖火が燃えていた場所には、空虚だけが広がっていた。


 人の気配がほとんどなかった。神殿を守っていたマギたちは大半が去り、残った数名が虚ろな目で灰を見つめている。白い衣が汚れ、髭が伸び、祈祷の姿勢を取る者すらいない。聖火の消滅が、彼らの存在意義そのものを奪ったのだ。灰の前に座り込んだ老マギの一人が、ぶつぶつと何か呟いていた。キアンの耳には届かなかったが、祈りなのか嘆きなのか区別がつかない声だった。


 キアンの真実視が神殿の中を視た。


 何も視えなかった。


 嘘の色も真実の色もない。色がない。壁も床も天井も、何の色も発していない。人間がいる場所には必ず嘘と真実の色があるのに──ここには善悪の判定そのものが消失している。残った数名のマギにすら、色が薄い。彼らの内面にある嘘も真実も、聖火の消滅とともに意味を失ったかのようだ。灰の中に座る老マギを真実視で視ても、ぼんやりとした灰色の靄が揺れるだけだった。善でもなく悪でもなく、ただ空虚。


 色の洪水に苦しんできたキアンにとって、「何も視えない」ことは逆に恐ろしかった。自分の力が機能しない場所。真実と嘘の区別がつかない場所。善悪の二元論そのものが消滅した空間。ここにいると、自分の力の意味すら揺らぐ。真実を視る力は、真実が存在する場所でなければ働かない。善悪の判定基準が消えた場所では──キアンの目もまた、ただの目に戻る。


 アナヒドが小さく息を吐いた。銀の水瓶を胸に抱きしめ、火壇の灰を見つめている。共感力が何かを受信しているのか、目の縁に涙が光っていた。だが泣いているわけではない。この場所に染み込んだ喪失の感情を──聖火が消えた瞬間にここにいた人々の絶望の残響を、アナヒドの力が拾い上げているのだ。


「行こう」


 アタルが静かに促した。老人の声には、この場所を知っている者の重さがあった。かつてこの聖火が燃えていた頃を知っている。その炎の記憶と、今の灰の空虚との落差を、言葉にしない沈黙で受け止めている。


 神殿の外に出た。乾いた風が顔に当たり、陽光が目を刺した。内部の空虚に慣れかけた目には、外界の色彩が鮮烈だった。街道を行き交う旅人たちの赤い色が、久しぶりに視界を灼く。嘘の色。だが不思議なことに、空虚の後では嘘の色すら安堵をもたらした。色があるということは、善悪の判定がまだ機能しているということだから。


 神殿の周囲を調べた。


 不自然な腐敗の痕跡が散見された。神殿の庭に植えられた花が早く枯れている。花弁の端から茶色い染みが広がり、茎が黒ずんで折れている。果実が過熟して黒ずんで落ち、地面に潰れた果肉が広がっていた。甘く、だが不快な匂いが漂う。壁の隅に黒い蔓のような紋様が走り、石の表面に張りついている。蔓は生き物のように枝分かれし、壁の亀裂に沿って上へ伸びていた。触れると冷たく、湿っている。石に染み込んだ穢れそのものだった。


 アタルが顔をしかめた。老人の表情に、珍しく嫌悪に近いものが浮かんでいる。


「ドゥルジの気配じゃ。……しかも濃い」


 老人の声が低い。警告の響きがある。アタルの掌に微かな炎が灯り、黒い蔓に近づけると、蔓は炎を嫌うように縮んだ。だが消えはしない。聖火の力でも焼き尽くせないほどに、穢れが深く染み込んでいた。


 聖火が消えた場所に、虚偽の穢れが染み込んでいる。光が消えた場所に闇が侵入するように、聖火の消滅はドゥルジの力に門を開いていた。善悪を分ける火が消えれば、善悪の境界そのものが溶ける。溶けた境界の隙間に、穢れが流れ込む。


 アナヒドが銀の水瓶を手にし、庭の一角に浄化の水を注いだ。黒い蔓が触れた部分だけ白く浄化されたが、数秒後にはまた黒ずみ始めた。浄化の速度よりも穢れの浸食の速度が速い。アナヒドが眉を寄せ、唇を噛んだ。自分の力が通用しない現実を、静かに受け止めようとしていた。


 街道に戻ると、腐敗の痕跡は街道にも広がり始めていた。道端の草が不自然に伸び、不自然に枯れている。生と死のサイクルが加速している。数日前に通った同じ道のはずなのに、風景が変わっていた。路傍の木が傾き、幹に黒い筋が走っている。空気そのものが重い。息を吸うと、微かに甘い腐臭が混じっている。


 旅人たちが不安そうに語っていた。


「最近、嘘をつく人が増えた」


「約束を守らない者が多い」


「人の心が荒んでいる」


 キアンの真実視には、道行く人々の嘘の色が以前より濃く、多くなっているのが視えた。赤い色彩が人々の周囲にまとわりつき、言葉のひとつひとつに赤い染みが滲んでいる。聖火の消滅が嘘の浄化機能を奪い、嘘の蓄積が加速している。世界が嘘に傾いている。浄化の火がなければ、嘘はただ積み重なり、腐敗し、穢れと化す。


 街道の傍らに、一輪の花が咲いていた。


 美しい赤い花弁。五枚の花弁が完璧な対称を描き、茎は真っ直ぐに伸びている。だが見つめているうちに、花弁が一枚、また一枚と落ちていく。異常に早い。咲いたばかりの花が、数十秒のうちに枯れていく。花弁が地面に落ち、落ちた瞬間から茶色く変色し始めた。茎が萎れ、傾き、地面に伏す。


 変化の加速。崩壊の加速。


 キアンは枯れた花を見下ろした。花弁の残骸が、乾いた風に吹かれて散っていく。何の花だったのかすら、もうわからない。美しかったものが朽ちる速度が、この土地では常軌を逸している。


 アタルが足を止め、南の地平線を見つめた。老人の目が細まり、炎を灯した掌が微かに揺れている。


「急ぐぞ」


 老人の声に、これまでにない緊迫がにじんでいた。アナヒドがキアンの横に並び、無言で頷いた。三人は足を速め、腐臭の漂う街道を南に向かった。


 風の中に、何かの気配が混じっていた。甘い匂い。腐敗の匂いとは似ているが違う。もっと濃密で、もっと意志のある匂い。嗅いだ者の心に入り込み、警戒を解こうとするような匂い。キアンの真実視が、風の匂いに色を視た。紫と赤が入り混じった、見たことのない色彩の残滓が、風に乗って流れていた。


 何かが近づいている。


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