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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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壁画の記憶

 ヴァラの外れに、使われなくなった古い神殿があった。


 街の人間に聞いた話では、少なくとも三百年は前のものだという。現在の善悪二元論が確立される以前──あるいはその過渡期に建てられた神殿で、教義の変遷とともに忘れ去られた。今の信仰にそぐわない壁画があるとかで、歴代のマギが取り壊しを提案したが、「古すぎて危ない」という理由で放置されてきた。近づく者はいなかった。


 アタルがその神殿に興味を示した。


 朝食の席で、街の老人から神殿の話を聞いたとき、アタルの目が変わった。いつもの穏やかな赤みがかった茶色の瞳に、鋭い光が差した。一瞬のことだったが、キアンはそれを見逃さなかった。アタルはすぐにいつもの柔和な表情に戻り、「古い神殿か。見てみたいものじゃ」と穏やかに言った。だがその声に──切迫とは言わないまでも、静かな渇望のようなものが含まれていた。


 三人で神殿を訪れた。


 ヴァラの外れ、城壁から歩いて半刻ほどの場所。砂に半ば埋もれた石畳の道が、丘の斜面に沿って続いている。丘の頂に、石造りの建物が蹲っていた。遠くから見れば、ただの岩山の一部に見える。だが近づくと、石の表面に人の手が加えた痕跡が見えた。直線的な切り口、規則的な積み方。自然の産物ではない。


 石造りの入口は半ば崩れ、蔓草が壁を覆っている。入口の上部に彫られていたであろう紋様は風化して判読できず、石柱の一本が折れて入口の前に横たわっていた。折れた石柱を跨いで中に踏み込むと、埃の匂いと古い石の匂いが混じった空気が迎えた。乾燥した空気。湿気がない。だからこそ、内部の壁画が三百年以上残ったのだろう。


 天井が高かった。外から見た印象よりもずっと広い。柱が等間隔に並び、奥に向かって空間が伸びている。天井の一部が崩落し、そこから差し込む光が壁面を斜めに照らしていた。光の帯が空中の塵を浮かび上がらせ、金色の微粒子が静かに舞っている。


 壁画が残っていた。


 色褪せてはいるが、精緻な筆致で描かれた古い壁画。鉱物由来の顔料で描かれたのだろう。赤と青と金が褪せながらも壁面にしがみついている。三百年の時を経てなお、描かれた形は明確に読み取れた。


 キアンは壁画を見つめた。


 二柱の神が描かれていた。光と闇──善神と悪神。右に光を纏った翼を持つ存在、左に闇を纏った翼を持つ存在。二柱は向かい合い、対峙している。ここまでは現在の教義と同じだ。善と悪の対立。光と闇の戦い。アフラ・マズダーとアンラ・マンユ。


 だがその二柱の上に、もう一つの存在が描かれている。


 二柱を包み込むように広がる巨大な翼。光でも闇でもない──両方を含んだ翼。翼の中心に、無限を表す円環の紋様。尾を咬む蛇のような、始まりも終わりもない円。その円環の中に、小さな炎が描かれている。


 善と悪の上に在る、一なる存在。二柱が分かれる前の、根源。


 現在の善悪二元論では、善神と悪神は最初から別々の存在として描かれる。善は善として、悪は悪として、永遠の昔から対立している。だがこの壁画は──それ以前の世界を描いている。善と悪が分かれる前。一なるものが、まだ一であった時代。


 キアンの真実視が壁画を視た。壁画そのものは嘘も真実もない──ただの顔料と石だ。物質に嘘はない。だがその象徴に込められた意味が、真実視の端に引っかかった。善と悪が分かれる前。一なるもの。それは現在の教義が語らない──あるいは意図的に隠している──歴史の断片ではないのか。


 アタルが壁画の前で立ち止まった。


 老人はその絵を長い間見つめていた。動かなかった。呼吸すら止まっているかのように静かに立ち、赤みがかった茶色の瞳に壁画の色が映っている。光の帯が老人の顔を斜めに照らし、深い皺が影を作っていた。口元が微かに動き、独り言のように呟いた。


「……懐かしい」


 キアンはその言葉に引っかかった。


 懐かしい。この壁画は少なくとも三百年前のものだ。人間の寿命では「懐かしい」とは言えない。「興味深い」なら自然だ。「美しい」でも「珍しい」でもいい。だが「懐かしい」は──見たことがある者の言葉だ。三百年前のものを見て懐かしいと感じるのは、三百年前を知っている者だけだ。


 だがアタルへの信頼が、それ以上の追及を止めた。この老人は知りすぎている。それはもう何度も感じてきた。古い教義を知っている。消えた聖火の位置を知っている。街道の水場を知っている。どの都市にどんな神殿があるかを知っている。人間一人の生涯では蓄積しきれない量の知識を、この老人は持っている。だが知りすぎていることが危険だと思ったことはない。アタルの知識は常にキアンたちを守る方向に使われてきた。


 キアンの真実視でアタルを視ようとした。


 だが──やはり不透明だった。


 老人の内面が読めない。色が見えない。他の誰もが色を発しているのに、アタルだけは壁のように遮断されている。透明でも白でもない。不透明。色を視ることそのものが拒まれている。人間の嘘も真実も、感情も記憶も、すべてが色として視えるようになった今のキアンの目に、アタルだけが映らない。それは人間の内面の制御とは質が違う。嘘を隠しているのではない。存在の位相そのものが、キアンの真実視の射程外にある。


 壁画の片隅に、小さな炎の象徴が描かれていた。二柱の間に灯る、最初の火。善と悪が分かれる前に在った、根源の炎。壁画の中で最も小さく、だが最も丁寧に描かれた部分だった。金の顔料が三百年を経てもなお微かに光を反射し、差し込む陽光を受けて輝いている。


 アタルがその炎に、そっと指先を触れた。


 一瞬──壁画の炎が灯ったように見えた。


 指先に触れた部分が微かに赤く光り、石の表面に温もりが走った。光は壁画の炎の形に沿って広がり、三百年前の顔料が一瞬だけ塗りたてのように鮮やかに蘇った。赤と金が混じり合い、小さな炎が石壁の上で揺らめいた。


 キアンは瞬きした。


 光は消えていた。壁画は元の褪せた色に戻り、アタルの指先は何もない石の表面に触れているだけだった。気のせいだったのかもしれない。光の帯が角度を変え、顔料が一瞬だけ反射しただけかもしれない。


 だが指先の温もりは、アタルの周囲に漂う空気の揺らぎと同じ質のものだった。焚き火のそばにいるような温もり。だが火はない。老人の身体から発せられる、微かな熱。


 人間のものではない温もり。


 キアンはそれ以上追及しなかった。壁画の前に立つアタルの背中を見つめ、何も聞かなかった。聞けばアタルは何か答えるだろう。嘘でも真実でもない、透明な言葉で。だが今は聞かなくていい。この老人が何者であっても、キアンの師であることに変わりはない。


 神殿を出るとき、キアンは一度だけ振り返った。壁画の中の根源の炎は、褪せた顔料の中で静かに消えていた。だがその場所には──微かに温もりの残像が漂っているような気がした。


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