夜の約束
人混みを避けて城壁の外に出た。
アタルには告げてある。「少し歩いてくる」とだけ言った。嗄れた声で短く。老人は頷いただけで引き止めなかった。アナヒドが黙ってついてきた。言葉はなかった。ただ、半歩後ろを歩いている。
城門を抜けると、空気が変わった。城壁の中に充満していた人の気配──汗と煙と不安の匂い──が、乾いた風に洗い流されていく。門番が怪訝な顔をしたが、何も言わなかった。夜に城壁の外に出る物好きは多くない。
荒野の風が吹き、星空が広かった。
月が低い位置にあり、砂漠の大地を銀色に照らしている。遠くに砂丘の稜線が見え、風紋が月光を受けて波打っていた。砂の表面が微かに光り、地平線まで続く銀色の海のようだった。空には星が降るように散らばり、天の川が帯となって東西に架かっている。風は冷たく、乾いていて、何の匂いもしない。砂と夜気の匂いだけ。
人の気配がないだけで、キアンの真実視が静まった。
嘘の色がない。荒野には嘘がない。砂も岩も風も、嘘をつかない。自然の中には自己欺瞞も虚栄も後悔もない。ただ在るものが在るだけの、無色の世界。城壁の中では色の海に溺れていた真実視が、ここでは凪いだ水面のように静かだった。何も映さない。何も視ない。ただ、在る。
キアンは深く息をついた。
肺の奥まで乾いた空気を吸い込み、ゆっくりと吐く。身体の隅々に溜まっていた色彩の残響が、呼吸とともに薄れていく。肩の力が抜け、背筋の緊張が解ける。こめかみの鈍痛が和らぎ、視界が澄んでいく。人のいない場所の安堵が、身体の隅々に染み渡った。
「ここには嘘がないな」
嗄れた声で呟いた。喉は灼けなかった。事実だから。
アナヒドが隣を歩いていた。月光が彼女の褐色の肌を銀色に染め、三つ編みの端が風に揺れている。城壁の中では疲弊した顔色だったが、荒野に出てからは少しだけ血色が戻っていた。人の感情の洪水から離れたことで、彼女もまた楽になっているのだろう。
「嗄れた声でも──本音は聞き取れます」
アナヒドが微かに笑った。月光の中の笑顔は、焚き火の光の中の笑顔とは違う色をしていた。冷たい光の中の温かさ。
城壁から少し離れた岩に腰を下ろした。平たい岩で、二人が並んで座れるだけの幅がある。岩の表面は砂に覆われ、月光を受けて銀色に光っていた。砂を払って座る。岩はまだ昼の熱を残しており、冷えた身体に心地よかった。
二人並んで座り、星空を見上げる。アタルは城壁の中に残っている。二人きりの夜だった。
しばらく無言だった。風が砂を巻き上げ、遠くで何かの動物が鳴いた。夜の荒野は静かだが、死んだように静かではない。風の音、砂の擦れる音、虫の声。自然の音だけが夜を満たしている。嘘のない音。偽りのない音。
キアンが嗄れた声で言った。
「全部が視える。嘘が。みんなの内面が。……しんどい」
喉が灼けない。本当のことだから。声は嗄れて掠れて、風に混じれば聞き逃しそうなほど細い。だがアナヒドは聞き逃さなかった。隣に座る彼女の横顔が、微かに強張った。共感力が、キアンの疲弊の深さを感じ取ったのだろう。
「全部が流れ込むの。みんなの痛みが。……重い」
アナヒドが静かに言った。彼女の声もまた、いつもより低く、疲弊を含んでいた。目を伏せ、膝の上で指を組んでいる。月光が指先を白く照らしている。
似ているようで違った。キアンは「視る」苦しみ、アナヒドは「感じる」苦しみ。キアンの力は外界を色彩として解読し、アナヒドの力は外界を感情として受信する。入口は違う。だが「力の代償に苦しんでいる」という構造は同じだった。力が深化するほど、代償が重くなる。力を使わなくても、ただ人の近くにいるだけで消耗する。望んで得た力ではない。授かった力。選べなかった力。その力に蝕まれている。
長い沈黙が落ちた。星が瞬き、風が砂を巻き上げ、遠くで夜鳥が鳴いた。沈黙は重くなかった。言葉が要らない種類の沈黙だった。互いの苦しみを知っている者同士の沈黙。説明しなくても伝わっている。
キアンが言った。
「おまえの痛みは──俺には治せない」
嗄れた声。喉は灼けなかった。治せない。それは事実だ。共感力の代償を取り除く力はキアンにはない。真実視は嘘を暴くだけで、痛みを癒す力ではない。
アナヒドが応えた。
「あなたの苦しみも──私には消せません」
静かな声。嘘の色がない。消せない。水の力は身体の傷を癒すが、真実視の代償を洗い流すことはできない。共感力はキアンの色彩の洪水を鎮める力ではない。
沈黙。
治せない。消せない。互いの苦しみに対して、互いは無力だ。それは残酷な事実であり、同時に──正直な事実だった。慰めの嘘を言わない。「大丈夫」と言わない。「きっと良くなる」と言わない。ただ、治せない、消せない、と認める。
それからキアンが呟いた。
「……だが、ここにはいる」
喉が灼けなかった。
本当のことだから。ここにいる。傍にいる。痛みは治せないし苦しみは消せない。だが、ここにはいる。それだけのことが──真実だった。嘘つきのキアンが、灼けることなく口にできる、数少ない真実の一つ。
アナヒドが微かに笑んだ。月光に照らされた笑顔。頬の線が柔らかく、目元に優しさが宿っている。真実視に嘘の色がない。白い光が彼女の周囲にそっと灯っている。
「私も」
言葉にはしない約束だった。傍にいるという、ただそれだけの約束。何も解決しない。何も治らない。痛みは消えないし、苦しみは続く。力の代償は日ごとに重くなり、聖火は消え続け、世界は崩れていく。だがここにいることだけは、嘘ではない。
ここにいる。
その言葉が、嘘の色のない白として、夜の荒野に灯っていた。
二人のシルエットが、星空の下に並んでいた。岩の上に座る二人の影が、月光で長く荒野に伸びている。肩と肩の間に拳一つ分の隙間がある。触れてはいない。だがその距離が、約束の距離だった。近すぎず、遠すぎず。傍にいるという事実を、身体で示す距離。
星が一つ、弧を描いて落ちた。銀の線が夜空を横切り、一瞬の光を残して消える。
どちらかが小さく息を吐く音が、夜に溶けた。




