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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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巫女の涸れ

 旅の翌朝、アナヒドの浄化が失敗した。


 街道の脇に旅人が倒れていた。中年の男で、商人らしき身なりだったが衣服は砂埃にまみれ、左の脇腹に深い裂傷がある。盗賊にやられたのか、野獣に襲われたのか。血が砂に染みを作り、蠅が周囲を旋回していた。意識はあるが、顔は土気色で、唇が渇いて裂けている。


 アナヒドが駆け寄った。迷いのない動きだった。銀の水瓶──エワルの蓋を開け、掌に水を掬い、傷口に当てた。かつてなら、水は澄んだ光を放ち、傷口を包み込むように浸透していったはずだ。キアンはそれを何度も見てきた。アナーヒターの力が水を通じて流れ込み、血を止め、肉を塞ぎ、痛みを和らげる。巫女の力。神の恩寵。


 水は反応した。だが以前の半分ほどの効果しかない。


 傷口に当てた水が微かに光った。光は弱々しく、以前の澄んだ白ではなく、くすんだ乳白色だった。血は止まった。だが傷は完全には塞がらなかった。裂傷の縁がわずかに寄り合っただけで、深部はまだ開いている。アナヒドが両手で傷口を覆い、目を閉じ、唇が祈りの言葉を紡いだ。水がもう一度微かに光る。だがそれ以上は──何も起きなかった。


「すみません。これが……今の私の限界です」


 アナヒドの声は平静を装っていた。穏やかで、申し訳なさを含んでいて、だが崩れてはいない。巫女としての矜持がそうさせているのだろう。キアンの真実視には、その声の奥に灰色の影が視えた。平静は嘘ではない──だが、平静の下に恐怖を押し込めている。その構造は自己欺瞞に近い。


 手が微かに震えていた。


 旅人に応急の包帯を巻き、水と干し肉を渡して街道に戻した。男は礼を言い、足を引きずりながら去っていった。完全に治っていれば、歩ける程度には回復していたはずだ。以前のアナヒドなら、それができた。


 旅人が去った後、アナヒドはキアンとアタルから少し離れた場所に歩いていった。言葉はなかった。振り返りもしなかった。街道の脇の岩陰に座り、銀の水瓶の蓋を開けた。


 キアンは離れた場所からそれを見ていた。


 アナヒドが水瓶の中を覗き込んでいる。水位は確かに下がっていた。旅の初めに出会った頃、水瓶は常に満ちていた。水を使っても、翌朝には水位が戻っていた。アナーヒターの力が水を満たしていたからだ。だが今は、使った分だけ水位が下がり、戻りが遅くなっている。有限の水になりつつある。


 アナヒドが水面に手を近づけ、目を閉じた。指先が水面の数ミリ上で止まっている。触れていない。触れるのが怖いのかもしれない。触れて、何も感じなかったら。アナーヒターの声が、もう聞こえなかったら。


 かつては水に触れるだけで感じた神の力の脈動を、今は懸命に探さなければ感じ取れなくなっている。遠い場所から呼びかける声を、耳を澄ませて必死に拾おうとしている。その姿が、キアンには痛ましかった。


 キアンの真実視が、離れた場所からアナヒドの内面を視た。


 新しい恐怖の色が生まれていた。


 暗い紫に近い灰色。力が消えていくことへの根源的な恐怖。巫女として生まれ、巫女として育ち、アナーヒターの力が存在の核だった女にとって、力の喪失は自分自身が消えていくのと同じだ。力を失ったアナヒドは何者なのか。巫女でなければ、ただの娘だ。水の力がなければ、誰も救えない。誰も救えなければ、ここにいる意味は何なのか。


 その問いが、暗い紫の灰色として渦を巻いていた。


 キアンはアナヒドに声をかけようとした。一歩を踏み出しかけて、止まった。


 何と言えばいい。


「大丈夫だ」は嘘で灼ける。大丈夫ではないことをキアンの目は視ている。「巫女の力がなくなるかもしれない」は残酷すぎる。たとえ真実でも、今のアナヒドに投げつけていい言葉ではない。「俺がいる」は──何の慰めにもならない。キアンがいたところで水の力は戻らないし、聖火は灯らないし、アナーヒターの声は近づかない。


 嘘をつけば喉が灼ける。真実を言えば相手が灼ける。沈黙だけが、どちらも灼かない唯一の選択だった。


 結局、キアンはアナヒドの隣に座り、何も言わなかった。


 岩陰に並んで座った。街道を行く旅人の姿が遠くに見える。砂埃が低く舞い、陽光が白く照りつけている。アナヒドの三つ編みの端が風に揺れ、銀の水瓶が膝の上で鈍い光を放っていた。


 アナヒドもまた何も言わなかった。


 二人の沈黙が、奇妙に温かかった。言葉がなくても、そこにいるという事実だけで、何かが伝わっている。嘘をつけないキアンと、痛みを隠すアナヒド。二人とも言葉で自分を表現することが苦手な人間だった。キアンは嘘しか言えなかった過去と、嘘が言えなくなった現在の間で言葉を失い、アナヒドは他者の痛みを感じすぎるがゆえに自分の痛みを後回しにする癖がついていた。どちらも不器用だ。だが不器用同士の沈黙には、器用な言葉にはない種類の誠実さがあった。


 しばらくして、アナヒドが水瓶の蓋を閉じた。金属の蓋が石に当たる小さな音が、沈黙を区切った。アナヒドが顔を上げ、微かに笑った。唇の端がほんの少し上がっただけの、控えめな笑み。


「……水は、有限なのですね」


 キアンの真実視がその言葉を視た。嘘の色がなかった。白い光。純粋な真実。アナヒドは現実を受け入れ始めている。水は有限であり、力は衰えていく。その真実を、嘘で覆い隠すことをやめた。恐怖は消えていない。暗い紫の灰色はまだ彼女の中に渦巻いている。だがその上に、薄い白の層が被さった。恐怖を認めた上で、現実を受け入れるという選択。


 受け入れることの強さを、キアンはこの瞬間、初めて知った。


 嘘で自分を守ることしか知らなかった。真実から目を逸らすことしか知らなかった。だが目の前のこの女は、怖いと感じながらも真実を真実として認めている。それは嘘つきのキアンには持ち得ない種類の強さだった。


 キアンは何も言わなかった。言えることがなかったからではない。「強いな」と言いたかった。だがその言葉に嘘が混じらない自信がなかった。感嘆なのか、羨望なのか、あるいは自分への引け目なのか。感情の境界が曖昧で、言葉にすれば喉が灼けるかもしれなかった。


 だから黙って、隣にいた。


 陽光が傾き始め、岩陰の影が長く伸びていく。アナヒドが立ち上がり、水瓶を腰に提げ直した。その動作に迷いはなかった。有限の水を携えて、それでも歩く。巫女の矜持ではない。もっと静かな、個人的な覚悟だった。


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