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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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鏡の中の嘘

 荒野の夜営。焚き火の前で一人だった。


 炎が音もなく揺れている。乾いた灌木の薪が弾ける微かな音だけが、闇の底に響いていた。夜空には星が散らばり、月は稜線の向こうに沈みかけている。風はなく、砂の匂いと煙の匂いが動かない空気の中で混じり合っていた。


 アナヒドとアタルは少し離れた場所で休んでいる。アナヒドの寝息は微かで規則的だったが、キアンの真実視には彼女の周囲にうっすらと色が漂っているのが視えた。眠りの中でも、内面の灰色は消えない。自分の力の衰えを受け入れたと言いながら、その奥底では恐怖が脈打っている。アタルの方は──いつものように不透明だった。色がない。壁のような遮断。人間であれば眠っていても何かしらの色が滲む。老人の眠りにはそれすらなかった。


 焚き火の炎がキアンの影を長く伸ばしていた。影は背後の荒野に溶け、闇と一体になっている。キアン自身もまた、闇に溶けかけているような気がした。身体の輪郭が曖昧になり、自分がどこまでで、闇がどこからなのか、境界が薄れている。


 真実視が内側に向いた。


 自分自身を視ることは、修練の中で何度かあった。アタルの指導のもと、意図的に内面へ目を向ける訓練。だが今夜はそれが意図的ではなかった。焚き火を見つめているうちに、炎の色が内側の色と重なり、気づいたときには抗いがたい力で内面に引き込まれていた。視ることを選んだのではない。視ることから逃げられなくなった。


 自分の中に、色がある。


 今まで他者の内面を視るたびに感じてきた嘘の色──灰色、黒、濁った赤。それらが、自分の中にもある。いや、他者のそれよりもずっと濃く、ずっと深い場所に根を張っている。


「俺は一人でいい」


 その言葉が、灰色の色を帯びて浮かんだ。自己欺瞞。一人でいいと思いたいだけだ。本当は孤独が怖い。孤児院で一人だった夜の寒さを、身体が覚えている。薄い毛布を頭からかぶり、歯を食いしばって朝を待った夜。誰かの温もりが隣にあればと願いながら、願ったことすら認めなかった夜。一人でいいと自分に言い聞かせ、やがてそれを信じ込んだ。信じ込んだふりをした。嘘が習慣になり、習慣が性格になった。


「誰も信じなければ裏切られない」


 灰色の曇り。嘘ではなく自己欺瞞。信じないのは防衛だ。信じて裏切られるのが怖いから、最初から信じない選択をしている。孤児院で何度も裏切られた。食事を分けてやった子どもが翌日にはキアンの寝場所を奪い、名前を教えた相手が神官に密告した。人間とはそういうものだと学んだ。学んだのではない──そう思い込むことで、傷つくことを避けた。防衛としての不信。それは嘘ではなく、嘘に似た何か。自分を守るために作り上げた灰色の壁。


「アナヒドのことなんかどうでもいい」


 真っ黒だった。


 完全な嘘。どうでもいいわけがない。彼女の笑顔が白く輝いていたことを覚えている。干からびた革袋にそっと水を注いでくれた指先を覚えている。彼女が「視えてもいい」と言ったとき、声が震えていなかったことを覚えている。覚悟の白さを、真実視が忘れない。


 どうでもよくない。それは揺るがない事実だった。真実視が自分自身に向けられたとき、嘘は一切の猶予なく暴かれる。他者に対しては距離がある。色を視ても、それが何を意味するか解釈する余地がある。だが自分自身に対しては──解釈の余地がない。嘘は嘘だ。黒は黒だ。


 キアンは恐怖した。


 自分という人間が、どれだけの嘘で出来ているかを初めて直視していた。「一人でいい」「誰も必要ない」「何も怖くない」「痛くない」「大丈夫だ」──人生の大半を嘘で塗り固めてきた。嘘が性格の一部になり、嘘が自我の骨格を形成している。灰色と黒が層を成し、幾重にも積み重なって一人の人間の形をしている。その形は外から見れば確固としているように見えるだろう。嘘つきで、口が悪くて、誰にも懐かない少年。その輪郭は明確だ。だが内側から視れば──嘘の層を一枚ずつ剥がしていけば──


 嘘を剥がしていったら、何が残る。


 孤児院で殴られ、食事を奪われ、寝場所を追い出された少年。痛みを隠すために「痛くない」と嘘をつき、恐怖を隠すために「怖くない」と嘘をつき、孤独を隠すために「一人がいい」と嘘をついた。嘘が盾になり、嘘が鎧になり、やがて嘘が皮膚になった。盾を外せば傷が見え、鎧を脱げば痩せた身体が晒され、皮膚を剥げば──その下には何がある。肉か。骨か。それとも、空洞か。


 嘘を取ったら、何もない空っぽの少年がいるだけではないのか。


 震えていた。


 焚き火の前で膝を抱え、目を閉じても色が消えない。自分自身の灰色と黒が瞼の裏に焼きつき、どこにも逃げ場がない。外に視線を向ければ他者の嘘が視え、内に視線を向ければ自分の嘘が視える。目を開けても閉じても、嘘の色に囲まれている。牢獄だった。色彩の牢獄。鍵のない、壁のない、だが逃げ場のない獄。


 掌が汗ばんでいた。膝を抱える腕に力が入り、爪が二の腕に食い込んでいる。呼吸が浅い。吸っても吸っても肺の底まで空気が届かない。焚き火の炎が揺れ、影が伸び縮みする。影の形が歪んで見える。自分の影なのに、自分のものではないような。嘘で出来た自我が投げかける影は、本物の影なのか。


 足音がした。


 アナヒドが何も言わずに隣に座った。


「何か視えたのですか」とも聞かない。「大丈夫ですか」とも言わない。ただ、焚き火のそばに座った。膝を揃え、背筋を伸ばし、焚き火の炎を見つめている。彼女の横顔は穏やかで、何も求めていなかった。説明を求めていない。慰めを押しつけてもいない。ただ、ここにいる。


 キアンの真実視が、隣に座るアナヒドを視た。彼女の周囲に温かい白が灯っている。ここに来たのは嘘ではない。心配しているのも嘘ではない。ただ傍にいたいという、それだけの白。その白が、キアンの内面の灰色と黒の中に、小さな穴を開けた。光の差す穴。


 焚き火の炎が二人の影を揺らす。長い沈黙。言葉にならない時間が流れた。夜の空気が冷え、焚き火の熱が頬を温めている。薪が弾ける音。灰が崩れる音。それだけが沈黙を埋めていた。


 やがてキアンが嗄れた声で言った。


「……俺は嘘で出来ている」


 喉は灼けなかった。本当のことだから。声は嗄れて掠れて、風に掻き消されそうなほど細い。だがその言葉は、キアンがこれまで口にした中で最も正直な言葉の一つだった。


 アナヒドは応えなかった。


 ただ──手を、キアンの隣に置いた。触れてはいない。だが数センチの距離に、彼女の手がある。指先が砂の上に静かに置かれ、焚き火の光を受けて淡い影を作っている。


 触れていない。だがその距離が、答えの代わりだった。


 嘘で出来ていてもいい、と言っているのではない。嘘で出来ていることを否定もしない。ただ、嘘で出来ているキアンの隣に、いる。それだけのことが、灰色と黒の中にある唯一の白だった。


 焚き火が低くなっていく。薪が燃え尽き、炎が熾火に変わり、赤い光が二人の顔を照らしている。やがてそれも消えるだろう。だが今はまだ、微かな温もりが残っている。


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