色の牢獄
疲弊が蓄積していた。
ヴァラを出発して街道を進む。朝から歩き続けているが、身体の疲れは大した問題ではなかった。旅に慣れた足は黙々と砂利を踏み、乾いた空気を肺が処理し、汗が額から顎を伝って砂に落ちる。身体は動く。街道の両側には低い灌木がまばらに生え、その向こうに砂色の大地が地平線まで広がっていた。太陽が高い位置から容赦なく照りつけ、三人の影が短く地面に張りついている。アタルが先導し、アナヒドが並び、キアンが半歩遅れて歩いていた。問題は、精神のほうだった。
キアンの足取りは日を追うごとに重くなっていた。身体ではなく、頭が重い。常に周囲の嘘が色として視える。目を開けている限り、人の内面が否応なく流れ込んでくる。旅人とすれ違うたびに、その人間が抱える自己欺瞞や虚栄や後悔が色として浮かび上がる。すれ違いざまの一瞬で、相手の人生の暗部が否応なく垣間見えてしまうのだ。向こうから歩いてくる商人の笑顔の下に、取引先を騙した後悔の暗い赤が沈んでいた。連れ立って歩く母娘の間に、言葉にならない不満の灰色が薄い壁のように挟まっていた。荷車を引く老人の背中に、失った誰かへの未練の淡い紫が纏わりついていた。隊商の護衛の兵士の肩に、恐怖を隠す虚勢の黒が光っていた。どれも知りたくなかった。どれも見たくなかった。しかし目を開けている限り、色は消えない。
人と話すたびに、相手の内面が覗けてしまう不快感が増している。会話の裏にある本音が視え、笑顔の下の疲労が視え、挨拶の中の無関心が視える。知りたくなかった。知らなければ、普通に話せたのに。「元気か」と問われて「ああ」と返す。その程度の会話ですら、相手の「元気か」に含まれる社交辞令の灰色と、自分の「ああ」に混じる虚偽の黒が二重写しになって視界を汚す。何気ない日常の言葉が、嘘の色で覆い尽くされている。以前は気にならなかった程度の嘘が、今は針のように目に刺さった。世界が色で埋め尽くされ、息が詰まるようだった。頭の中が常に色の残像で満たされ、眠っても色が夢の中まで追いかけてくる。
キアンは人を避け始めた。旅人とすれ違うとき、目を伏せる。声をかけられても短い返事だけで済ませ、足早に通り過ぎる。焦点を絞る修練のおかげで圧倒されることは減ったが、視ること自体が苦痛になっていた。色が常に薄くまとわりつく世界の中で、キアンは自分の殻に閉じこもろうとしていた。殻の中には嘘がない。自分自身の嘘は──視たくないから視ないことにしていた。それ自体が一つの自己欺瞞だった。
「何が視えるのですか?」
アナヒドが問うた。穏やかだが真摯な声だった。街道を並んで歩きながら、彼女がキアンの沈黙に気づかないはずがない。ここ数日のキアンの口数の減り方を、アナヒドは黙って見守っていたのだろう。共感力で苦しみの輪郭は感じ取っていたはずだが、キアンが自分から語るまで待っていた。押しつけるのではなく待つという、彼女なりの思いやりだった。
キアンは答えに窮した。何と言えばいい。「おまえの内面の灰色が視える」と言えば、アナヒドは傷つくだろう。彼女の自己犠牲を覆う膜も、痛みを隠す嘘も、キアンには視えている。それを伝えることは、彼女の鎧を剥ぐことに等しい。
「全部だ」
嗄れた声で答えた。喉が灼けない。真実だから。
「全部が視える。おまえの中も──」
口を閉じた。言いすぎた。砂を踏む足音が二人分、乾いた街道に響いている。乾燥した風が二人の間を通り抜け、砂粒を巻き上げた。空は青く、雲一つなく、その無慈悲な晴天が砂漠の過酷さを際立たせていた。
アナヒドの表情が一瞬硬くなった。深い青の瞳が揺れ、唇が微かに開きかけて閉じた。自分の内面が視えていると知ることの衝撃が、整った顔に一瞬だけ走った。誰だって心の奥底を覗かれたくはない。見られたくないものがある。隠しておきたい痛みがある。それを知らない間に見られ続けていたと知ったら──
だがアナヒドは言った。
「……視えてもいいですよ」
キアンの真実視がその言葉を視た。白く輝いている。真実だ。嘘の色が一切混じっていない、純粋な白い光だった。灰色と黒に塗りつぶされた世界の中で、彼女の言葉だけが澄んだ光を放っている。
視えてもいい。アナヒドは覚悟を決めて言っている。内面を見られることを受け入れている。嘘を暴かれることを、恐れていない。あるいは恐れていても、それでもなお──「視えてもいい」と言い切る強さを持っている。その勇気がどれほどのものか、キアンにはわかった。自分の内面を他者に晒す恐怖を、キアン自身がよく知っているから。嘘で全身を覆って生きてきた人間にとって、「視えてもいい」という言葉は、鎧を脱いで素肌を差し出すのと同じだ。
キアンは返事ができなかった。「ありがとう」と言いたかったが、その言葉を本気で口にした経験が少なすぎて、声にする方法がわからなかった。
夜営で焚き火を囲む三人。キアンが少し離れた場所に座った。焚き火の光が届くか届かないかの距離。炎の温もりが顔の左半分だけを照らし、右半分は夜の冷気に晒されている。荒野の夜は静かだった。遠くで虫が鳴き、風が砂丘の表面を撫でる音が低く響いている。焚き火の薪が爆ぜ、火の粉が夜空に散った。星が多い。砂漠の夜空は、どこよりも星が多い。
「人の近くにいると──しんどい」
嗄れた声で言った。本当のことだから灼けない。喉の嗄れ具合が日ごとに進んでいるのを感じる。代償が着実に声を蝕んでいる。
アタルは黙って火を見つめていた。老人の沈黙はいつも温かい。聴いている。言葉を受け止め、噛み砕き、必要なときだけ応える。アナヒドは距離を保ちつつも──立ち去らなかった。焚き火のそばに座ったまま、キアンの姿を視界の端に留めている。立ち去らないことが、彼女なりの答えだった。
離れた場所に座るキアンと、焚き火のそばのアナヒド。その距離は物理的なものだった。三歩ほどの、手を伸ばせば届かないが声は届く距離。だがいつの間にか、物理的な距離が心の距離を映し始めている。キアンが人から離れようとする動きと、アナヒドがそれでも留まろうとする動き。その二つが焚き火の光と影の中で静かに交差していた。
嘘ではない、本物の距離になりつつあった。




