崩れる祈り
火壇の前で祈る人が減っていた。
第四の聖火消滅から数日が過ぎた。かつては夕刻ごとに人で溢れた火壇の広場が、閑散としている。石畳の上に砂が吹き溜まり、掃く者もいなくなった。火壇を囲む石の欄干に腰かけている老人が一人、目を閉じて何かを呟いていたが、その唇の動きに力はなく、祈りというよりは独り言に近かった。広場の隅にある井戸の傍で水汲みの女が祈りの姿勢を取っていたが、その目は開いたままで、形だけの所作を心が伴わないまま繰り返しているだけだった。火壇の炎に向けられていたはずの視線は、炎を通り越してその向こう側の虚空を見つめている。祈りが虚ろになった街。信仰が骨だけになった場所。空っぽの祈りの姿勢だけが残り、中身が抜け落ちていた。
代わりに酒場に人が集まっていた。怒鳴り声と嘆きが入り混じった喧騒が壁の向こうから漏れ聞こえてくる。酒で恐怖を紛らわせようとしている。男たちの声には怒りと悲嘆と諦めが泥のように混じり合い、時折割れた陶器の音や椅子を蹴り倒す音が響いた。女の泣き声が混じることもあった。恐怖は人を信仰に走らせることもあれば、信仰から引き離すこともある。この街では後者が勝っていた。聖火が守ってくれるという信頼が崩れた人間は、祈りの代わりに酒を選ぶ。酒もまた一つの嘘だ。痛みを忘れるための、液体の嘘。
キアンの真実視が、街全体の信仰の色を視た。
「聖火は必ず戻る」──その言葉が以前よりも黒く染まっている。信じている人が減った。かつては淡い灰色程度だった疑念の色が、今は暗い灰色に変わり、街全体を覆う低い霧のように濃くなっている。建物の壁にも、石畳にも、人々の肩にも、同じ色の霧が纏わりついていた。疑念が信仰を侵食し、信仰が疑念を隠し、隠し切れなくなった疑念がまた信仰を蝕む。螺旋のように深まっていく不信の色を、キアンは街角に立ったまま見つめていた。目を閉じても残像が瞼の裏側で薄く揺れている。この街そのものが一つの巨大な自己欺瞞を纏っているかのようだった。灰色が呼吸をするように脈打ち、街の輪郭がぼやけて見える。
火壇の炎は燃えている。だがその光が届かない場所が増えていた。路地の暗がりが以前より深く、壁の角が以前より陰っている。光そのものが弱まっているのか、それとも人々の心が暗くなったことで光がそう見えるのか。キアンには区別がつかなかった。あるいはその区別自体に意味がないのかもしれない。信仰と聖火は繋がっている。人の心と炎は、鏡のように互いを映し合っている。
マギがアタルを訪ねてきた。
五十過ぎの痩せた神官だった。白衣は清潔に保たれているが、生地が肘の辺りで薄くなり、何度も洗い直した跡がある。目の下に隈が濃く、頬がこけ、何日も眠れていない顔をしていた。口元の皺が深く刻まれ、かつてはもう少し恰幅のよい男だったのだろうと、細くなった顎の輪郭から推測できた。聖火消滅の危機が、この神官の肉体を日ごとに削っている。宿の戸口に立ち、アタルの姿を認めると、安堵とも懇願ともつかない表情を浮かべた。老人の前だけは、神官の仮面を外すことを自分に許しているのだろう。
「信者の心が離れていきます。何と言えばいいのか……」
マギの声が震えた。声だけではない。水の入った杯を持つ右手の指先も微かに揺れている。キアンの真実視がその内面を視た。マギ自身の信仰も揺らいでいた。「善神は本当に守ってくれるのか」──灰色の曇りがマギの内面を覆い、その上に「信じなければならない」という義務感の薄い膜が張られている。信仰ではなく、義務。信じたいから信じているのではなく、信じなければ立場を失い、街が崩壊するから信じているふりをしている。その構造が灰色の下に透けて視えた。膜の下では、信仰を失いつつある自分自身への恐怖が黒く渦巻いている。神に仕える者が神を疑うという矛盾が、この痩せた神官を蝕んでいるのだった。
キアンは黙っていた。「裁くな、受け止めろ」──アタルの教えを実践しようとしていた。マギの嘘を視抜いても、指摘しない。理解しようとする。なぜこの男は嘘をつくのか。信者に希望を語らなければならない立場にあるからだ。だが自分自身が希望を失っている。嘘をつかなければ職務を遂行できず、嘘をつかなければ人々が絶望に呑まれる。嘘が義務になった人間の苦しみが、灰色の色の奥に沈んでいた。キアンにはその苦しみが理解できた。かつての自分も似たようなものだったから。孤児院で毎日嘘をつき続けた少年は、嘘が呼吸と同じになる感覚を誰よりもよく知っている。
マギが去った後、キアンはアタルに言った。
「あの神官は嘘をついている。自分も信じていない祈りを、人に強いている」
アタルが頷いた。「そうじゃ」
そして続けた。焚き火に似た穏やかな声で。
「だがあの男が嘘をつくのは、嘘をつかなければ人々が絶望するからじゃ」
老人の赤みがかった茶色の瞳がキアンを見据えた。炎が映り込んだ瞳の奥に、途方もなく深い何かが横たわっている。この老人はいつもこうだ。善と悪をどちらも断じない。嘘を否定もしなければ、真実を押しつけもしない。まるで善悪の外側から物事を眺めているような、奇妙な中立性。
「おまえなら、何と言う?」
アタルが問うた。
キアンは答えられなかった。
真実を言えば絶望を加速させる。「聖火は戻らないかもしれない」──それは真実だろう。だがその真実を人々に突きつけたら、この街は崩壊する。残り少ない秩序が瓦解し、酒場の喧騒が暴動に変わるだろう。逃げ場のない城壁の中で、恐怖に狂った人間が何をするかわからない。かといって嘘をつけば喉が灼ける。「きっと大丈夫」と口にした瞬間に、代償が声を焼く。身体が嘘を許さない。
真実も嘘も選べない。
どちらを選んでも、誰かを傷つける。二つの刃に挟まれた場所で、キアンは沈黙するしかなかった。沈黙は嘘でも真実でもない。だが沈黙もまた、何かを選ばないという選択であり、問題を先送りにしているだけだと気づいていた。先送りにした問題は、いつか必ず突きつけられる。その日が来たとき、キアンは何を選ぶのか。答えは出なかった。
夜の火壇の前に立った。
誰もいなくなった広場だった。かつて人々の祈りで満ちていた場所が、空虚に沈んでいる。石畳の上を砂が風に押されてゆっくりと流れ、火壇の周囲に溜まっていく。夜風が冷たかった。昼間の灼熱が嘘のように、夜の砂漠は容赦なく冷える。外套の襟を立てても、寒さが骨の芯まで沁みた。火壇の炎が弱々しく揺れ、風に煽られて一瞬消えそうに傾いだ。炎が持ち直し、また揺れる。その繰り返し。以前はこの炎が街全体を照らし、人々の心を暖めていた。今は炎自身が風に怯え、縋るように揺れているだけだ。
聖火の光が衰えている。信仰が衰えている。どちらが原因で、どちらが結果なのか。あるいは、両方が同時に絡み合いながら崩れていくのか。
キアンは火壇の炎を見つめた。
揺れている。弱く、儚く。だがまだ消えてはいない。




