涸れる水
使者は馬を乗り潰して来た。
城門の手前で蹄鉄が砂利を弾き、馬が白い泡を吹きながら蹄をもつれさせた。乗り手は鞍にしがみつく力も残っていなかったのだろう、火壇の前の広場に差しかかったところで横倒しになった馬の背からずり落ち、砂塵にまみれた顔を地面に打ちつけた。旅装束は汗と砂で黒ずみ、剥き出しの腕には擦り傷がいくつも走っている。口の端から唾液と砂が混じった泥が垂れ、両目だけが恐怖に灼かれたように光っていた。何日も休まずに馬を走らせ続けた人間の、限界を超えた末の姿だった。周囲にいた住民たちが駆け寄り、水を運ぼうとしたが、使者はそれを振り払った。膝で這うようにして火壇に向かい、砂利で擦り剥けた掌を石畳に叩きつけ、残る力のすべてを声に込めた。
「第四の聖火が消えた! 完全性の火が──!」
声は掠れていたが、それでも広場の隅々まで届いた。四つ目だった。七つあった聖火のうち、四つが消えた。半分を超えたのだ。残りはもう三つしかない。使者の嗄れた叫びが乾いた空気を裂き、広場の石壁に反響して消えた。一瞬の沈黙が広場を支配した。数百の人間の呼吸が同時に止まり、その沈黙の中で恐怖だけが膨張し続け、やがて弾けた。
住民たちの恐怖が火壇の前で爆発した。女が悲鳴を上げ、男が拳を握りしめ、子どもが母親の腰にしがみついて泣き出した。火壇の前に人が雪崩のように押し寄せ、白衣のマギたちが両手を広げて群衆を制しようとするが、恐慌に陥った人間は理性の声を聴かない。誰かが転び、誰かに踏まれ、悲鳴がまた悲鳴を呼んだ。火壇の炎が風に煽られて大きく揺れ、その揺れが群衆の不安をさらに掻き立てる。老人が膝をつき、若い母親が泣き叫ぶ子どもを抱えて群衆の外へ逃げ出そうとし、商人が慌てて木戸を閉め始めた。広場全体が恐慌の渦に呑まれ、人間の声と足音と泣き声が分かちがたい一つの轟きになっていく。
キアンの視界に、住民たちの内面が色として溢れた。
恐怖。灰色の恐怖が全員の内面を覆っている。その上に「きっと大丈夫」「まだ三つ残っている」「善神が見捨てるはずがない」という自己欺瞞の膜が張られていた。灰色の恐怖を、さらに薄い灰色で覆い隠す二重の嘘だ。だがその膜は紙のように薄く、今にも破れそうだった。恐怖の灰色が膜の下でうごめき、一人、また一人と膜が裂けていく。裂けた場所から黒い絶望が噴き出し、周囲の人間の膜をさらに脆くする。感染するように広がっていく絶望の色。キアンの視界は灰と黒の渦に埋め尽くされ、こめかみの奥を鈍い痛みが締めつけた。焦点を絞ろうとしたが、人数が多すぎる。色の洪水が眼球の裏側まで沁み込んで、まばたきをしても退かなかった。
アナヒドが銀の水瓶を握りしめた。
キアンの視界の端で、水瓶の水位が目に見えて下がった。指一本分。いや、もう少し多い。聖火消滅の衝撃が距離を超えて水瓶に直接響いたかのように、銀色の容器の中で水面が沈んだ。つい先刻まで縁に近かった水位が、銀の内壁に痕跡を残して後退していく。以前はここまであった、という喪失の刻み目が水瓶の内側に薄く残されていた。アナヒドの褐色の指が水瓶の表面を白くなるほど握りしめ、爪の先が銀に食い込んでいる。
宿に戻った三人の前で、アナヒドが浄化の力を使おうとした。
水が反応しない。
銀の水瓶から掌に掬った水に、アナヒドが意識を集中する。深い青の瞳を閉じ、唇が微かに動いた。アナーヒターの名を呼んでいるのだろう。額に薄く汗が滲み、三つ編みの先が肩から零れて揺れた。だが水は光を帯びなかった。以前のような澄んだ青白い輝きは現れず、ただの水として掌の上に留まっている。宿の薄暗い油灯の光を映すだけの、何の力も含まない透明な水。アナヒドの唇の動きが速くなり、眉根に深い皺が刻まれた。掌の上の水が指の隙間から零れ、石の床に小さな染みを作った。
何度か試みて、ようやく微かな光が水面に浮かんだ。だが弱い。以前の半分にも満たない輝きだ。蝋燭の灯りに紛れてしまうほどの、頼りない光だった。かつては意識を向けるだけで水が応え、触れた瞬間に青白い光が弾け、浄化の力が水から溢れ出したというのに。今は全身の力を振り絞ってようやくこの程度だ。
アナヒドの表情が一瞬歪んだ。恐怖と焦りが唇の端と眉の間を駆け抜け、すぐに穏やかな表情に戻った。その切り替えは見事に速く、注意していなければ見逃しただろう。だが──
キアンの真実視が、その変化を捉えていた。
アナヒドの内面に新しい色が生まれていた。暗い灰色。「大丈夫、まだ力はある」という自己欺瞞だ。力が衰えている事実を、自分自身に嘘をついて覆い隠している。これまでアナヒドの内面に浮かぶ色は、他者への共感から生まれる痛みの色が大半だった。だが今、初めて自分自身への嘘の色が浮かんでいる。巫女としての存在の根幹に関わる嘘だった。力を失いつつあるという事実から目を逸らすための、切実な自己防衛。キアンはそれを視て、胸の奥が軋むように痛んだ。彼女の嘘を暴いてはいけない。この嘘は彼女を守っている。
夜になって、キアンはアタルに問うた。
宿の一室で、壁に掛けられた油灯が弱い光を投げかけている。アタルは窓際の椅子に腰を下ろし、外の闇を見つめていた。皺の刻まれた横顔に深い影が落ち、赤みがかった茶色の瞳が油灯の光に揺れている。老人の呼吸はいつもと変わらず穏やかだった。四つ目の聖火が消えたという報せを受けてなお、この老人だけは揺らがない。
「聖火が消えるたびに、アナヒドの水瓶の水が減っている気がする」
アタルは答えなかった。
だが老人の目が、肯定を含んでいた。長い沈黙がキアンの問いに答えた。言葉にしないのは、答えを知っていて語れないのか、それとも語る必要がないと判断しているのか。キアンの真実視で老人を視ようとしたが、いつものように不透明だった。アタルの内面だけが色を返さない。壁のように遮断された、読めない内面。それ自体が一つの答えのようだった。
キアンは確信した。聖火の消滅とアナヒドの力の衰退は連動している。偶然ではない。構造的な繋がりがある。聖火が善悪の境界を照らす光であるなら、浄水もまたその秩序に組み込まれた力なのだ。聖火が消えるたびに秩序の一部が崩れ、水の女神の加護もまた薄れていく。四つ消えた。残りは三つ。すべてが消えたとき、アナヒドの水瓶には何が残るのか。
宿の窓から外を見ると、アナヒドが一人で夜の路地に座っていた。
銀の水瓶を両手で抱え、膝の上に載せている。月明かりに照らされた水瓶の中で、水面がかすかに揺れていた。黒髪の三つ編みが肩から流れ、褐色の肌が月光を受けて淡く光っている。穏やかな横顔だった。だがその穏やかさの下にあるものを、キアンは真実視を使わなくとも知っていた。
減っている。確実に。
水瓶を抱えるアナヒドの指先が、月光の下で白く見えた。手放せば壊れてしまうもののように、銀の水瓶を抱きしめている。それは巫女としての自分自身を、両手で必死に繋ぎ止めようとしている姿に見えた。




