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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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色の洪水

 朝目を開けるだけで、色が視えた。


 天井の木目が視界に入ると同時に、壁の向こうから灰色の靄が滲んでくる。宿の主人がどこかで誰かに嘘をついている。「今朝は天気がいいですな」──本心では客の相手が面倒だと思っている。薄い灰色。日常の潤滑油としての嘘。悪意はない。だが色は視える。


 アナヒドの内面が色として浮かぶ。温かい白──巫女としての慈愛と、キアンへの穏やかな気遣い。朝の光の中で、彼女の内面は昨夜よりも明るく視えた。だがその内側に灰色の層がある。自分の感情を抑え込んでいる自己欺瞞の色。白の下に灰色が沈み、灰色の下にさらに深い層がある。層構造だ。アナヒドの内面は一枚岩ではなく、幾重にも重なった色の層で構成されている。表面は白い。だが掘れば掘るほど、違う色が現れる。


 アタルの周囲は奇妙に不透明だった。色が読めない。他の人間のように嘘も真実も浮かばず、ただ不透明な壁がアタルの内面を覆っている。灰色でも白でもなく──無色。色がないのではなく、色を遮断している。キアンはそれを老練な制御だと解釈していた。長年の修行で、内面を隠す術を身につけたのだろうと。マギの中にはそうした技術を持つ者がいると聞いたことがある。だがアタルの遮断は、マギの技術とは質が違う気がした。もっと根源的な──存在そのものが違うような。


 覚醒が定着していた。第二段階の真実視は、もう消えない。目を閉じても、瞼の裏に色の残像が揺れている。起きている限り、人の内面が色として流れ込む。これが新しい日常だ。


 新しいヴァラの市場を歩いた。


 色の洪水が押し寄せた。


 人混みに入った瞬間、数百人の内面の嘘が一斉に視界に流れ込む。商人の自己欺瞞が灰色に揺れ、「俺の品は最高だ」と自分に言い聞かせている。買い物客の見栄が薄い黒に滲み、必要ないものを「必要だ」と嘘をつく。子どもの無邪気な嘘が薄桃色に弾け、「お腹すいてない」と言いながら菓子を見つめている。老人の希望的観測が灰白色に漂い、「来年の春にはきっと良くなる」と自分を慰めている。母親の不安が濃い灰色に沈み、笑顔の下で子どもの将来を案じている。


 色が重なり合い、混じり合い、視界を暴風のように叩く。一人ひとりの色は薄いが、百人分が重なれば津波になる。色の津波が目から流れ込み、頭蓋の内側を満たしていく。圧迫感。頭痛。吐き気。


 キアンは壁に手をつき、呼吸を整えた。煉瓦の壁がざらざらと手のひらに食い込み、その感触が現実を繋ぎ止める。「一つの嘘を選んで視ろ」──アタルの教えを思い出す。焦点を絞る。目の前の果物売りの女に意識を集中する。彼女の灰色だけを視る。他の色は視野の端に退かせる。一人。一つの嘘。それだけに焦点を合わせる。


 「この桃は今朝採れたものですよ」──灰色。昨日の売れ残りだ。嘘だが悪意はない。商売の常套句。


 辛うじて嵐を乗り切った。だが頭が重く、こめかみが脈打つように痛んだ。修練の成果で焦点制御はできるようになったが、人数が多すぎる環境では制御に大きなエネルギーを消耗する。体力が削られる。市場を十分歩いただけで、半日歩いたような疲労が全身に溜まっていた。


 宿に戻り、一人になった。


 市場を抜けた後も、視界から色が完全に消えなかった。壁の向こうの人間の存在が、うっすらと灰色の気配として残っている。薄い靄のような灰色が、空気中に漂っている。目を閉じても、色の残滓が瞼の裏に揺れている。完全な無色は、もう手に入らない。


 これが「本格化」の意味だとキアンは理解した。


 もう元の世界には戻れない。以前のように、人の言葉だけを聞いて、表情だけを見て、それで済む世界はもう存在しない。嘘が常に視える世界。嘘に包まれた世界。人間が自分自身にすら隠している本音が、色として浮かび上がる世界。それがキアンの新しい現実だった。選んだわけではない。拒否する権利もなかった。力は勝手に成長し、代償は勝手に進行する。キアンにできることは、その中で溺れないように泳ぎ続けることだけだ。


 不可逆の変化。


 キアンは寝台に横たわり、目を閉じた。薄い毛布を頭まで引き上げ、光を遮断する。だが光を遮っても色は消えない。真実視は光に依存しない。闇の中でも、人の嘘は色として視える。


 目を閉じても──色が残像のように揺れていた。もう逃げ場がない。この世界のどこにも。


 砂漠の風が窓の外で唸っている。砂粒が窓枠に当たり、かさかさと音を立てた。その音だけが、色を持たない純粋な物理現象だった。風の音には嘘がない。砂の音には虚偽がない。キアンはその音に耳を傾け、嘘のない音だけで自分を満たそうとした。だが壁の向こうから、灰色の靄は絶えず滲み続けていた。


 どれくらい横になっていたか。宿の廊下を歩く足音が聞こえ、その足音に灰色が纏わりついていた。足音の主が何を考えているかはわからない。だが嘘をつきながら歩いていることだけはわかる。自分に嘘をつきながら。「今日も一日うまくいった」とか「明日はきっと良い日だ」とか。そういう小さな自己欺瞞を纏いながら、人は一日を終える。


 キアンもかつてはそうだった。「明日はもっとうまく嘘がつける」「いつか孤児院を出られる」「誰かが自分を見つけてくれる」──嘘と希望の区別がつかなかった頃。嘘が希望の形をしていた頃。今はその嘘が灰色に視える。希望と嘘の境界線を、真実視は容赦なく引く。


 扉が叩かれた。


 アナヒドの声が聞こえた。「夕食の準備ができています」。穏やかな声。その声に嘘の色はなかった。白い光が扉の向こうから漏れてくるように感じた。彼女の言葉は真実だ。夕食があり、三人が食卓を囲む。それだけの事実。


 キアンは寝台から身を起こした。毛布を畳み、手のひらで顔を擦った。目の奥が痛い。こめかみが重い。だが腹は減っている。腹が減ることは嘘ではない。身体の要求は常に真実だ。喉の渇き、空腹、眠気。身体は嘘をつかない。嘘をつくのは心だけだ。


 扉を開けると、廊下の灯火がキアンの目を刺した。壁に掛けられた油灯の光が廊下を照らし、その光の中にアナヒドが立っていた。三つ編みの端が肩に垂れ、深い青の瞳がキアンを見上げている。彼女の周囲に──白い光と、微かな灰色の層。笑顔の下の、押し込められた何か。


 キアンは彼女の灰色を視ないことにした。焦点を外す。技術として、意識的に視ないことを選ぶ。視ることも選択なら、視ないことも選択だ。アタルの教えの応用。


「行くか」


 嗄れた声で言った。喉が灼けない。行くという意志は真実だ。


 アナヒドが微笑み、先を歩いた。キアンはその背中を見ながら廊下を歩いた。背中には嘘の色がなかった。歩く姿は純粋に白かった。前を歩く背中を追いかけることは、嘘ではなかった。


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