荒野の声
街道が聖火の光の薄い地帯に差しかかった。
空気が変わった。乾燥した砂漠の風に、甘く腐った匂いが混じり始める。果実が熟しすぎて崩れるときの匂い。甘いが不快な、生命が過剰に溢れて腐敗に転じる匂い。道端の草が不自然な色をしていた。緑が濃すぎる。生命力が過剰で、茎が太く伸び、葉が異様に大きい。だが根元には既に枯れた葉が積もっている。成長と腐敗が同時に進行していた。遠くに虚偽の荒野──虚偽の荒野の境界が霞んで見えた。灰褐色の大地が地平線まで続き、その上に紫がかった靄が漂っている。靄は動いていた。風に流されているのではなく、自ら蠢いているように。
キアンの真実視が不安定になった。
色が歪んでいる。白であるはずの真実が灰色がかり、黒であるはずの嘘が紫を帯びる。色の境界が曖昧になり、白と黒の間のグラデーションが崩れている。虚偽の影響で、真偽の判別が難しくなっていた。信頼していた知覚が揺らぐ。自分の目が正しいのかどうか、確信が持てない。これまで「嘘」と判断していたものが本当に嘘なのか。「真実」と見えていたものが本当に真実なのか。判定の基準そのものが歪んでいる。
「真実視が──おかしい」
キアンが呟くと、アタルが頷いた。老人の歩みに揺るぎはなかったが、周囲を警戒する視線が鋭くなっていた。
「ドゥルジの影響圏じゃ。真偽の境界そのものが歪む領域。おまえの目も影響を受ける」
不安が胸の底で蠢いた。力が歪むなら、何を信じればいい。真実視は唯一の武器だった。嘘が視えることは苦痛だったが、同時に世界を理解するための道具でもあった。その道具が壊れかけている。
荒野の風が吹いた。乾いた砂粒を巻き上げ、三人の外套を揺らす。砂が顔に当たり、目を細める。風の音に混じって、かすかな声がキアンにだけ聴こえた。
「お前は嘘つきだ」
囁き声だった。風の中に溶けた、甘い声。砂糖を溶かした水のような、とろりとした甘さ。男とも女ともつかない声。耳の奥に直接響くような、不快な親密さがあった。
「嘘つきが真実を視ることに、何の意味がある?」
キアンは足を止めた。声の出所を探る。だが風の音に紛れて、方角がわからない。前からか。後ろからか。右か左か。あるいは──内側からか。自分の頭の中から聞こえている可能性を、否定できなかった。
ドゥルジの穢れだった。荒野の空気に溶けた穢れが、キアンの自己疑念に作用している。心の中の弱い部分を探り当て、増幅する。嘘つきが真実を視る矛盾。力を持つ資格がないという恐怖。自分は嘘で出来ているのに、真実を視る力を与えられた。その矛盾が、ドゥルジの穢れの餌になっている。
動揺を隠そうとした。「気のせいだ」と言おうとして──喉が灼けた。嘘だから。気のせいではない。確かに声が聴こえた。確かに動揺している。嘘をつけば灼ける。認めるしかない。だが認めれば弱さを晒すことになる。
アナヒドが何も言わずに隣を歩く距離を縮めた。半歩分。肩が触れそうな近さ。共感力でキアンの動揺を感じ取ったのだろう。言葉ではなく、距離で支える。声をかけるのではなく、傍にいることで安心を伝える。巫女としての訓練が、こうした場面で自然に発揮される。彼女の体温が微かに伝わってきた。砂漠の乾いた空気の中で、人の温もりだけが確かなものだった。
夜になった。
野営地で焚き火を囲む。荒野の闇は深く、焚き火の光が届かない場所から、穢れの気配が押し寄せてくる。光の境界線の外側に、紫がかった靄が蠢いている。獣の目のような赤い光が、一瞬だけ闇の中に浮かんで消えた。ダエーワの気配か。あるいはただの幻覚か。ドゥルジの影響圏では、知覚の信頼性が低い。
アタルが掌を開いた。
聖火の灰の中に残る火種が、老人の手の上で小さな炎となって灯った。橙色の温かく澄んだ光。焚き火とは質の異なる、清浄な炎。焚き火の光が物理的な明るさであるのに対し、聖火の欠片の光は──魂に触れるような温もりがあった。光が広がると、穢れの気配が後退し、空気が澄んだ。紫がかった靄が炎の光に怯えたように退き、焚き火の周囲に清浄な空間が生まれた。
「なぜ爺さんは聖火を扱えるんだ?」
キアンが問うた。嗄れた声で、だが核心を突く問いだった。聖火はマギが管理するものだ。一般人が触れることはできない。ましてや掌の上で炎を灯すなど、聖火の担い手でなければ不可能なはずだ。
アタルは掌の炎を見つめながら、穏やかに答えた。
「長く聖火を守ってきたからのう」
キアンの真実視がその答えを視た。嘘ではない。だが──全てでもない。白い光の中に、何かが隠されている。語られていない真実の層が、光の奥に沈んでいる。嘘はついていない。だが全てを語ってもいない。省略された真実。それは嘘とは異なるが、完全な真実でもない。
キアンは問いを重ねなかった。アタルへの信頼が、追及を止めた。この老人は秘密を持っている。だがその秘密がキアンを害するものではないと、直感が告げていた。
だが火種を見つめるキアンの目に、アタルの手が映った。聖火の炎に触れているのに、火傷の痕がない。肌は赤く照らされているだけで、熱に苦しむ様子もない。普通の人間が炎に手を近づければ、本能的に引くはずだ。だがアタルは炎を掌に載せて、まるで子猫を撫でるように穏やかだった。炎が老人の指の間を縫って踊り、掌の皺の上を滑るように流れている。人間が火と戯れるとき、そこには必ず緊張がある。だがアタルにはそれがない。炎との間に、恐怖も距離も存在しない。
一瞬の違和感。
人間の手は、炎に触れれば灼ける。
キアンはその違和感を飲み込み、目を閉じた。闇の中に、アタルの掌の炎の残像が浮かんでいた。橙色の清浄な光。それは焚き火の光よりも古く、焚き火の光よりも深く、何千年も燃え続けてきた炎の末裔のようだった。
眠りに落ちる前に、もう一度あの甘い声が聴こえた気がした。「嘘つき」と呼ぶ声。だが今度はアナヒドの体温とアタルの炎の温もりが、声を遠くに押しやった。穢れの声は弱い感情の隙間を狙う。だが隙間を埋めるものがあれば、声は遠ざかる。
傍にいることの意味を、キアンは言語化できなかった。だが身体が知っていた。一人でいれば声は近づく。二人の傍にいれば声は遠ざかる。それは理屈ではなく、肌が覚えた事実だった。
荒野の風が砂を巻き上げ、焚き火の炎を揺らした。聖火の欠片の光が一瞬だけ強くなり、闇を押し返した。穢れの靄が後退し、星が一つ、雲間に覗いた。キアンはその星を見つめながら、浅い眠りに落ちていった。夢の中でも色が視えるだろう。だが今夜は、アタルの炎の橙色が夢の中にまで染み込んでくれるかもしれなかった。




