嘘の温度
ヴァラを出発し、次の聖火の街へ向かった。
朝の空気は冷たく乾いていた。砂漠の夜の冷気がまだ大地に残り、息が白く凍る。足元の砂利が霜を纏い、踏むたびにぱりぱりと小さな音を立てた。太陽が東の地平線から顔を出し、砂漠の大地を金色に染めていく。影が長く伸び、三人のシルエットが街道に平行に走っていた。乾いた風が砂を巻き上げ、外套の裾を揺らす。空は底の見えない青で、雲一つない。
キアンはアタルの教えに従い、「視る範囲を絞る」練習を続けていた。街道を歩く旅人とすれ違うたびに内面の嘘が視えてしまうが、焦点を意識的に絞ることで、圧倒されることは減ってきた。一人の嘘だけを選んで視る。他の色は視野の端に退かせる。完璧ではないが、少しずつ精度が上がっている。三日前には門をくぐるだけで暴走していた力が、今は旅人とすれ違う程度なら制御できる。
少しずつ適応が進んでいる。だが完全な制御には程遠い。ふとした瞬間に焦点が外れ、周囲の色が一斉に押し寄せてくる。意識が揺らいだ隙を力が突いてくる。そのたびにキアンは歯を食いしばり、意識を引き戻す。額に汗が浮かび、こめかみが脈打つ。修練は身体を削る。眠りが浅いことも相まって、目の下の隈が日に日に濃くなっていた。
道中、足を挫いた旅人に出会った。
四十過ぎの男が街道の脇に座り込み、腫れた足首を押さえている。顔が痛みに歪み、額に脂汗が浮かんでいた。日に灼けた顔に皺が深く刻まれ、旅慣れた風体だった。荷物が傍らに散らばり、駱駝が主人を心配するように鼻を鳴らしている。砂利の上に駱駝の蹄の跡が深く刻まれ、重い荷を運んできたことがわかった。
アナヒドが駆け寄り、水の力で治癒を施した。銀の水瓶から掌に水を掬い、腫れた足首に当てる。淡い青白い光が水面に浮かび、足首を包んだ。光が足首の腫れに染み込むように広がり、男の表情から痛みの鋭さが少しずつ引いていく。男は痛みに顔を歪めながらも、歯を食いしばって言った。
「大丈夫だ。妻子が待っているんでな、休んでなどいられん」
キアンの真実視がその言葉を視た。
黒い染み。嘘だ。大丈夫ではない。痛みに耐えかねている。足首は腫れ上がり、歩けるような状態ではない。本当は座り込んで休みたい。本当は助けを求めたい。
だが──その黒い染みの中に、微かな光が含まれていた。
初めて視る色だった。暗い嘘の内部に、小さな白い粒のような光。心配をかけまいとする気遣いが白く光り、旅人を助けてくれている巫女に余計な負担をかけたくないという配慮が淡い銀色に輝いている。妻子が待つ家に早く帰りたいという焦りが、微かに温かい色を帯びていた。弱さを見せたくないという矜持。嘘の動機そのものが、善意に満ちている。黒い外殻の内側に、白い核がある。蠣の殻の中に真珠が眠るように。
「善意の嘘」──キアンは初めて、嘘を色として「読んだ」。
嘘の色は一様ではなかった。悪意の嘘は純粋に黒い。利己的で、他者を傷つけるためにつく嘘。自己欺瞞は灰色。自分自身を守るために自分に対してつく嘘。そして善意の嘘は、暗いが内部に光を含んでいる。色の構造に層がある。外殻と中核がある。嘘は単純な黒ではなく、内部に複雑な構造を持っている。アシャの教えでは嘘は一律に穢れだとされるが、真実視で視る嘘は──一律ではない。
アナヒドの治癒が終わり、男は礼を言って立ち上がった。足首はまだ完全ではないが、歩ける程度には回復していた。男は駱駝の手綱を取り、ゆっくりと街道を歩き始めた。妻子のもとへ。その背中に、善意の嘘の残像を視た。
夜になった。
野営の焚き火が荒野の暗闇に揺れている。星が散りばめられた空の下、焚き火の煙が細い柱となって昇っていく。火の粉が散り、星と見分けがつかない。アタルが少し離れた場所で眠り、低く規則的な寝息を立てている。キアンとアナヒドが焚き火を挟んで座っていた。炎が二人の顔を交互に照らし、影を揺らしている。焚き火の匂い──焦げた木と灰と乾いた草の匂いが、夜の冷気に混じっていた。
キアンが嗄れた声で問うた。
「おまえは……嘘をつくか?」
唐突な問いだった。だが焚き火の前の沈黙が、言葉を促した。炎の音と虫の声だけが夜を満たし、その静寂がキアンの口から問いを引き出した。昼間見た善意の嘘が、まだ脳裏に残っていた。
アナヒドは少し考えてから答えた。深い青の瞳が炎を映し、ゆっくりと瞬きをした。三つ編みの端が肩から滑り落ち、胸の前に垂れた。
「痛みを感じていないふりをすることは、あります」
キアンの真実視がその言葉を視た。白く輝いている。真実だ。嘘の色が一切ない。
痛みを感じていないふり。共感力で他者の苦痛が流れ込む彼女にとって、「痛くない」と装うことは日常的な嘘だろう。巫女として、治癒者として、自分の痛みを表に出さない。患者が苦しんでいるときに、自分も苦しいとは言えない。だから痛みを隠す。毎日、何度も。笑顔の下に。穏やかな声の下に。
それは善意の嘘なのだろうか。それとも自己欺瞞なのだろうか。あの旅人の「大丈夫だ」と同じ構造ではないか。外殻は嘘だが、中核は──何だろう。慈悲か。義務か。それとも、痛みを見せることへの恐怖か。
キアンは黙った。嘘つきの自分が、痛みを隠す巫女と焚き火を囲んでいる。キアンは嘘で身を守り、アナヒドは痛みを隠すことで身を守っている。方法は違うが、何かから自分を守っている構造は同じだった。嘘という鎧を纏い、本当の自分を隠している。
焚き火の炎が二人の顔を交互に照らし、影を揺らした。薪がぱちりと爆ぜ、火の粉が散った。
長い沈黙の後、アナヒドが小さく言った。
「あなたの嘘も──痛みを隠すためのものでしょう」
キアンは答えなかった。答えれば嘘になるか、真実になるか、どちらにしても何かが壊れる気がした。だがアナヒドの言葉は白く輝いていた。真実だ。彼女はキアンの嘘の構造を、言葉ではなく共感で理解していた。
焚き火の向こうで、アタルが聖火の灰を指先で転がしていた。眠っていたはずの老人の手が、無意識のように動いている。灰が微かに赤く光っている。まるで火種が残っているかのように。老人の指先が灰に触れるたびに、赤い光が強くなり、弱くなる。脈打つように。炎の記憶を宿した灰。
キアンはその光を見つめた。灰の中の火種。消えたはずの火の、最後の残り火。
それが何を意味するのか、まだわからなかった。だが灰の赤い光は、焚き火の炎よりも静かで、焚き火の炎よりも深かった。消えたあとにも残る温もり。失ったあとにも消えない記憶。それは聖火の灰だけでなく、キアンとアナヒドの間に流れた沈黙にも似ていた。言葉にならなかったものが、夜の空気に溶けて漂っている。嘘でも真実でもない、名前のつかない何かが。




