祈りの色
聖火消滅から一夜。
火壇の前に供物が山と積まれていた。乾燥果実、穀物、花、香。住民たちが次々と捧げ物を持って訪れ、跪いて祈る。花の匂いと香の匂いが混じり合い、火壇の周囲に甘く重い空気を作っていた。乾燥した果実の皮が割れ、穀物の粒が地面にこぼれ、それを鳩がついばんでいる。祈りの声が途切れることなく、火壇の周囲を満たしていた。昼夜を問わず、誰かがここで祈っている。祈ることしかできないからだ。
キアンの目には、祈りの言葉が色を帯びて視えた。
灰色が増えていた。昨日までは白く輝いていた祈りの中に、疑念の色が濃く滲んでいる。「善神は本当に守ってくれるのか」──その問いが、祈りの裏側に張りついている。声に出さない疑念。認めたくない不信。聖火が三つ消えた事実が、信仰の土台を揺るがしていた。白い祈りの衣を纏った人々の口から出る言葉は同じだ。三千年前から変わらない祈祷句。だがその言葉を発する心が変わっている。同じ言葉が、昨日と今日で色が違う。
だが灰色の中にも、白く輝く祈りは残っていた。
幼い子どもが母親の手を握り、目を閉じて祈っている。小さな手が母親の指に絡まり、唇が祈祷句の形を作る。その祈りは純粋に白い。まだ疑うことを知らない、裸の信仰。聖火が消えたことの意味を理解していないからこそ、疑念が入り込む余地がない。キアンはその白さを眩しく感じた。かつて自分にもこんな時代があったのだろうか。疑わずに信じることができた時代が。思い出せなかった。
アタルがキアンを街の外に連れ出した。
砂漠の静寂。人の気配がない。キアンの真実視が静まり、色の洪水から解放される。乾いた風だけが吹き、足元の砂が風紋を描いている。砂の粒が風に磨かれてきらきらと光り、地面に微細な模様を刻んでいく。砂漠の風紋は嘘をつかない。風の通り道を正直に記録する。
「修練の続きじゃ」
アタルが大きな岩に腰を下ろし、キアンを見上げた。岩の表面が日光を吸って熱く、老人の白衣の裾が地面に広がっている。
「昨日の暴走で気づいたことがあるはずじゃ」
キアンは頷いた。聖火が消えた瞬間、真実視が連動して暴走した。偶然ではない。聖火と真実視の間に、何らかの構造的な繋がりがある。聖火が揺らげば真実視も揺らぐ。消えれば暴走する。真実を照らす炎と、真実を視る目。根が同じなのかもしれない。
「視たものを裁くな。ただ受け止めろ」
アタルの声は穏やかだった。砂漠の風に乗って、乾いた空気に溶けていく。日差しが眩しく、老人の顔が影になっている。
「嘘が視えるのに裁くなってのは無理だろ」
キアンは反射的に返した。喉が灼けない。本音だったからだ。嘘を視れば「こいつは嘘つきだ」と思う。それは反射であり、判断であり、裁きだ。視ることと裁くことは、キアンの中ではほぼ同義だった。
アタルが微笑んだ。皺の深い顔に、炉火のような温かさが浮かぶ。
「嘘を視て裁くのは簡単じゃ。嘘を視て、それでも相手を理解しようとすること──それが難しい」
キアンは黙った。理解。嘘を視て、相手を理解する。言葉としては簡単だが、実感が伴わない。嘘を視れば、反射的に「こいつは嘘をついている」と判断する。それが裁きでなくて何だというのか。嘘は悪であり、悪を見つけたら断じる。真理の教えはそう説いている。
「裁きと理解の違いはな、キアン」
アタルが灰色の空を見上げた。太陽が薄い雲に隠れ、砂漠の光が白く均一に広がっている。
「裁きは嘘を暴いて終わる。理解は、なぜ嘘をついたのかを問う」
なぜ嘘をつくのか。あのマギは、なぜ「聖火は戻る」と嘘をついたのか。答えは知っている。人々を恐慌から守るためだ。嘘が必要だったからだ。マギの立場に立てば、嘘は義務ですらあった。
それは裁くべき嘘なのか。
キアンは答えを出せなかった。砂漠の風が吹き、砂粒が頬を掠めた。
街に戻ると、アナヒドが子どもたちに囲まれていた。
火壇の近くの広場で、銀の水瓶から少量の水を掌に載せ、浄化の光を見せている。水が淡い青白い光を帯び、子どもたちが歓声を上げた。「もう一回!」「きれい!」。小さな手が伸び、光る水に触れようとする。アナヒドが微笑み、もう一度水を掌に掬う。三つ編みの端が肩で揺れ、深い青の瞳が優しく細まっている。
穏やかな光景だった。聖火消滅の不安の中で、この一角だけが温かい。子どもたちの笑い声が、火壇の前の重い空気を薄めている。アナヒドの周囲だけが、別の空気で満たされていた。
キアンは立ち止まり、アナヒドを見た。真実視が発動する。
笑顔に嘘の色はなかった。白く、穏やかな光。子どもたちへの慈しみは真実だ。
だが──内側に、微かな灰色の影がある。
笑顔の奥に、自分の感情を押し込めている層。抑え込まれた何か。灰色の曇りは薄いが確かにそこにあり、笑顔の下で静かに沈んでいた。何を抑え込んでいるのか、真実視でも正確にはわからない。痛みか。恐怖か。それとも別の何かか。
キアンはそれに気づいた。だが口には出さなかった。
言うべきではない。直感がそう告げた。アナヒドが自分の内側に抱えているものは、キアンが暴くべきものではない。裁くな、受け止めろ。アタルの言葉が脳裏をよぎった。つい先ほど聞いたばかりの言葉が、早くも実践を求めている。
翌朝、街を去る準備を整えた。
火壇の前に立つマギが、三人に声をかけた。疲労の色が濃い顔に、それでも穏やかな笑みを浮かべて。目の下の隈が昨日より深く、声に張りがない。だが笑みは本物だった。少なくとも、三人への感謝は本物だった。
「次の聖火の街まで三日の道のりです。だが……途中の村で、子どもが行方不明になっていると聞きました。もしお力があるなら」
キアンはマギの言葉を視た。嘘はなかった。白い光。真摯な頼み。
キアンは一瞬だけ躊躇った。聖火の街を目指すのが本来の目的だ。寄り道をしている場合なのか。だが母親の泣き崩れた姿が脳裏をよぎった。あの灰色の曇りに覆われた街で、供物を積み上げる住民たちの姿が。子どもの白い祈りが。嘘をつかなければならないマギの黒い染みが。
裁くのではなく、理解する。アタルはそう言った。だが理解したうえで何もしないことと、理解したうえで手を差し伸べることは、同じ理解の上に立つ別の選択だ。
三人は顔を見合わせ、頷いた。アナヒドの深い青の瞳に迷いはなかった。アタルの赤みがかった瞳にも。キアンは嗄れかけた声で「行こう」とだけ言った。喉が灼けなかった。本心だったから。
城壁の門を出ると、朝の風が砂塵を巻き上げた。街道の先に、荒野の茶褐色の大地が広がっている。子どもが消えた村は、この街道から半日ほど外れた場所にある。聖火の光が薄い辺境だとマギは言った。その言葉に嘘はなかった。そして嘘がないことが、かえって不安を募らせた。




