城壁の裏
城壁の門をくぐると、乾いた土と香の匂いが混じった空気が迎えた。
香は白檀に似ているが、もっと重い。聖火の炎に焚かれる香だ。火壇の煙に乗って街全体を覆い、壁や天井や衣服の繊維の一本一本にまで染み込んでいる。住民たちはこの匂いの中に生まれ、育ち、死んでいく。信仰が空気になった場所だった。
ヴァラは聖火を中心に造られていた。城壁の内側に放射状に街路が伸び、中央の火壇から立ち昇る煙が空に細い柱を描いている。火壇に近い場所ほど建物が立派で、遠ざかるにつれて小さく粗末になる。聖火からの距離がそのまま地位と信仰心の尺度になっている。市場の喧騒、子どもたちの声、鍛冶の槌音。日常の音が城壁の中に籠もり、石壁に反響して独特の残響を作っていた。
表向きは平穏だった。
だがキアンの真実視が微かに反応した。街全体にうっすらと灰色の霧が漂っている。個々の人間の嘘ではない。街そのものを覆う、自覚されていない嘘の蓄積。まるで空気に溶けた埃のように、視界の端にちらつく灰色。一人ひとりの住民を視ればおそらく明瞭になるが、焦点を絞らなくても全体がぼんやりと曇っている。
聖火が弱まることで、嘘の浄化が追いつかなくなっているのだとキアンは直感した。火壇の炎は燃えている。だが勢いが弱い。かつてはもっと高く、もっと明るく燃えていたはずだ。炎の先端が風に揺られ、時折ちらちらと不安定に明滅する。聖火が健全であれば、嘘の蓄積は浄化されるのだろう。だが浄化の力が衰えれば、嘘は澱のように街に沈んでいく。
三人は宿を取った。
小さな部屋に荷を下ろすと、アタルがすぐに修練を再開した。狭い部屋の中央に座り、キアンを正面に据える。窓から差し込む西日が老人の白髪を赤く染め、壁に長い影を落としていた。
「目を閉じるのではない。視たうえで手放すのじゃ」
キアンは床に座り、意識を集中した。真実視を意図的に発動する──ここまではできる。街道での修練の成果だ。問題は停止だった。力を起動させたあと、それを自分の意志で止められない。
視る。
壁の向こうの宿主の声が色を帯びる。「今夜は良い部屋が空いております」──薄い灰色。実際には一番安い部屋を割り当てた。小さな嘘。日常の営み。客を不快にさせないための配慮であり、悪意はない。宿主の声は穏やかで、客に対する誠意はある。だがその誠意の下に薄い膜のような嘘が敷かれている。
手放す。
色を消そうとした。だが視界から色が消えるどころか、逆に鮮烈になった。停止しようとする意識が力を刺激し、色彩が膨れ上がる。蛇口を閉めようとして、逆に捻ってしまったように。宿主だけでなく、隣室の旅人の声、路地を歩く住民の呟き、すべてが色の洪水として押し寄せてくる。灰色と黒と白が混じり合い、視界を塗りつぶそうとする。
キアンは額を押さえ、歯を食いしばった。こめかみが脈打つように痛む。目の奥が圧迫され、頭蓋の内側から何かが膨張しているような感覚。
「力が意識に逆流している。焦れば焦るほど深みにはまる」
アタルの声が波の向こうから聞こえた。遠いが、明瞭だった。嵐の中に灯る焚き火のような声。
「今日はここまでじゃ」
キアンが荒い息をつくと、横からそっと水が差し出された。
アナヒドだった。
陶器の杯に注がれた水。銀の水瓶から注いだものではなく、宿の井戸水だった。だが彼女の手から渡されたそれは、不思議に冷たく、喉を通るときに痛みが和らいだ。ただの水のはずなのに、身体の内側に染み渡る冷たさが、真実視の暴走で灼けた神経を鎮めていく。水が舌の上を転がり、喉を通り、胸の奥に落ちていく。その一口ごとに、視界の色が少しずつ退いた。
アナヒドは何も言わなかった。ただ水を差し出し、キアンが飲むのを見届けてから、静かに自分の荷物の整理に戻った。背を向けた彼女の肩甲骨が、薄い衣の下で微かに動いている。何事もなかったように。だが彼女の足音には、修練中からこの部屋にいた気配があった。最初から見守っていたのだ。
夕刻になった。
三人は火壇の前に足を運んだ。夕暮れの祈りの時間で、住民たちが火壇を囲んでいる。白い祈りの衣を纏った人々が、聖火に向かって手を合わせ、古い祈祷句を唱える。低い声と高い声が重なり合い、祈りの合唱が火壇の周囲を満たしていた。聖火の炎が祈りに呼応するように揺れ、橙色の光が人々の顔を照らす。夕暮れの空は赤紫に染まり、火壇の煙が空の色と溶け合っていた。
キアンの真実視が祈りの言葉を視た。
白い光が浮かぶ。純粋な信仰の色だった。神を信じ、聖火の加護を願う真摯な祈り。灼けるような白が火壇の周囲を満たし、キアンは思わず目を細めた。眩しかった。嘘にまみれた日常の中で、祈りの白さは際立っていた。
だが同時に、灰色の曇りも視えた。
祈りの奥に、薄い灰色の層がある。「善神は必ず守ってくださる」──その言葉の半分は信仰で、半分は自己説得だった。本当に守ってくれるのかという疑念を、祈りの言葉で覆い隠している。信じたいから信じる。信じなければ不安に潰される。祈りが祈りを補強し、言葉が言葉を塗り重ね、白い信仰の下に灰色の不安が沈んでいる。
白と灰色が入り混じっている。純粋な信仰と自己欺瞞が、同じ祈りの中に共存していた。
キアンは言葉を失った。
嘘ではない。だが完全な真実でもない。信仰とはそういうものなのかもしれない。白と灰色の間にある、名前のつかない領域。善悪二元論は白と黒を分ける。だが人間の心は、白と黒の間に無数の灰色を持っている。
祈りが終わり、人々が散っていく中で、一人の老女がキアンのほうを振り返った。
皺の深い顔。白い祈りの衣。老女の目がキアンの琥珀色の瞳を捉え、一瞬動きが止まった。瞳の中に何かを見たのだろう。日常では見ることのないものを。
「あなたの目……」
老女の声が震えた。乾いた唇が微かに開き、恐怖と畏怖が入り混じった表情がそこにあった。
「何かが見えている」
キアンは反射的に視線を逸らした。だが老女は怯えた表情のまま、足早に去っていった。振り返りながら、何度もキアンの目を確認するように。彼女の足取りは祈りの余韻を纏っているはずなのに、逃げるように速かった。
アナヒドが隣で息を呑む気配がした。アタルは黙って火壇の炎を見つめていた。老人の表情に、驚きの色はなかった。
キアンは自分の目に手を当てた。琥珀色の虹彩の縁に、真実視の発動を示す金色の輪が──いつの間にか、うっすらと光り始めているのだろうか。見えないものが見えている目。それが外から見ても、わかるようになり始めている。
力が、外から見えるようになり始めている。
宿への帰り道、キアンは自分の手のひらを見つめた。琥珀色の瞳の中に何が映っているのか、自分では確かめようがない。だが老女の怯えた顔が、まだ網膜に焼きついていた。あの表情は、キアンが孤児院で見慣れたものとは質が違った。孤児院での視線は蔑みだった。忌避だった。だが老女の目にあったのは──畏怖だ。人間に向ける目ではなかった。
アタルが前を歩いている。アナヒドが半歩後ろにいる。キアンはその二人の背中を見ながら、宿の薄暗い廊下を歩いた。香の匂いが壁に染みつき、足元の石畳に火壇の光が届いていた。




