不死の終わり
巡礼路に戻った三人は、不死の火の消滅が公式に確認されたという知らせを受けた。
巡礼路の宿場町に入った瞬間、空気が違った。人が多すぎる。普段は旅人がまばらに行き交う程度の小さな宿場だが、今は人で溢れていた。路上に座り込む者、荷物を抱えて右往左往する者、神殿の前で祈りを叫ぶ者。キアンの真実視が赤い色彩の洪水を視た。恐怖が嘘を増殖させている。「大丈夫だ」「神殿が守ってくれる」「聖火は戻る」──すべてが赤く灼けていた。誰もが嘘をつき、誰もがその嘘にすがっている。
各地の神殿がパニックに陥り、巡礼路は混乱していた。旅人が押し合い、怒鳴り合い、泣き叫ぶ者もいる。聖火消滅の噂は尾鰭がつき、終末の予言として広がっていた。世界が終わる。善悪の秩序が崩壊する。ダエーワが攻めてくる。噂は噂を呼び、恐怖が恐怖を増幅させていた。
キアンは帽子を深く被り、顔を隠した。追放令が出ている身だ。混乱の中で異端者だと気づかれれば、恐怖の捌け口にされかねない。人々は恐怖の矛先を求めている。異端者は格好の標的だった。
混乱の中を三人は進んだ。アタルが先頭に立ち、人混みを避けて裏道を選んだ。老人は混乱の中でも動揺を見せなかった。予期していたかのような落ち着きだった。キアンの真実視がアタルの背中を視た。色がない。いつもの透明な空白。だがその空白が──今は冷たく見えた。知っていて動揺しない。それは強さなのか、あるいは──感情がないのか。
宿場町の外れで、不死の火が消えた地域からの避難民と出会った。
一家だった。老人を荷車に乗せ、子どもの手を引く中年の男女。荷物は最低限の衣類と食料だけ。顔には疲弊と恐怖が刻まれている。子どもは泣き疲れて眠っており、男の腕に抱かれてぐったりとしていた。
荷車の上の老人が──異様だった。
皺が深い。髪が白い。手が震えている。それだけなら普通の老人だ。だが家族の証言が、その老人の異様さを浮き彫りにした。
「父は先月まで……まだ壮年でした」
男が嗄れた声で言った。目が虚ろだった。
「不死の火が消えた日から、一晩で十年分の老いが来ました。翌朝起きたら、髪が白くなっていた。その次の日には腰が曲がった。今はもう……自分で歩くこともできません」
キアンの真実視が証言を判定した。
白──真実。嘘ではない。一切の赤みがない純粋な白。この男は嘘をついていない。恐怖に震えながらも、見たままの事実を語っている。
聖火の消滅は比喩ではなかった。物理的に世界を変えている。不死の火が保証していた「不老」が消え、抑えられていた老いが一気に押し寄せた。聖火と世界は直接的に結びついていた。炎が消えれば、その炎が維持していた恩恵も消える。善思の火が消えたとき──キアンの出身神殿で何が失われたのか。善なる思考の守護が消えたとすれば、人々は善を思うことが難しくなっているのか。気づかないほど緩やかに、しかし確実に。
荷車の老人がキアンを見上げた。濁った目だった。先月まで壮年だった者の目ではない。何十年分もの時間を一度に背負った目だった。老人は何か言おうとしたが、声が出なかった。唇が震えただけだった。
アナヒドが銀壺から水を注ぎ、老人に差し出した。
「少しでも楽になりますように」
白──真実。アナヒドの言葉に嘘はなかった。だが老人の手は震えすぎて器を持てず、アナヒドが口元まで運んで飲ませた。水が老人の干からびた唇を濡らした。老人の目から涙が一筋流れた。感謝の涙か、絶望の涙か。おそらく両方だった。
キアンは目を逸らした。逸らさずにいられなかった。真実視が白を映している。この老いは本物だ。この苦痛は本物だ。嘘ではない。嘘であってほしかった。嘘なら暴いて終わりにできる。だが真実は暴けない。真実はただそこにある。
避難民の一家が去った後、キアンはしばらくその場に立ち尽くしていた。荷車の軋む音が遠ざかり、砂塵に紛れて消えていく。先月まで壮年だった男が、一晩で老人になる。聖火が消えただけで。炎が一つ消えただけで、人間の時間が狂う。世界は──そこまで聖火に依存していたのか。
巡礼路の休憩地に三人は腰を下ろした。石造りの東屋の下に日陰があり、乾いた風が吹き抜けていた。キアンは石の床に座り、膝を抱えた。
「全部消えたら世界はどうなる」
改めて問うた。前にも同じことを問うた。アタルは答えなかった。だが今度は──答えが必要だった。不死の火の消滅が物理的な影響を持つことを、キアンは自分の目で確認した。善思の火と不死の火が消えた。残りの聖火が消えたら、世界はどうなるのか。
アタルが目を閉じた。長い沈黙があった。風が吹き、東屋の柱を鳴らした。
「聖火はこの世界の善悪の境界を維持しておる。全て消えれば──善と悪の区別がなくなる」
キアンの真実視がアタルの言葉を判定した。白に近い。だが完全な白ではない。真実だが、全部ではない。省略された部分がある。善悪の区別がなくなる──それは事実だろう。だがその先に何が起きるのか。アタルは省いている。
「善と悪の区別がなくなるって……」
「それが終わりか、始まりかは──わしにもわからん」
キアンの真実視が、その言葉を判定しようとした。だが色が視えなかった。嘘なのか本当なのか。本当にわからないのか、言えないだけなのか。アタルの言葉はいつも、真実視の判定を擦り抜ける。嘘でも真実でもない空白の中に、老人は言葉を置く。
アナヒドが水を飲み、静かに言った。
「善と悪の区別がなくなっても……人は人でいられるのでしょうか」
白──真実の問い。アナヒドの声には震えがあった。巫女としての信仰の根幹に関わる問いだ。善悪の秩序が消えれば、巫女という存在の意味も消える。アナヒドは自分の存在の基盤が揺らいでいることを、正面から見つめていた。
アタルは答えなかった。答えないことが答えになるのだと、キアンはもう知っていた。
三人が巡礼路を進んだ。日が傾き、影が長く伸びていた。遠くの空に、三つ目の聖火がある方角を見据えた。
まだ燃えている。微かに──だが確かに。白い光が地平線の彼方に揺らいでいた。
まだ。
だが「まだ」という言葉が、いつまで使えるのか。キアンにはわからなかった。




