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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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嘘つきの祈り

 旅路の途中で、廃墟の神殿を見つけた。


 街道から外れた丘の斜面に、崩れかけた石の建物が佇んでいた。既に放棄された小さな神殿。聖火は消え、神官もいない。屋根の半分が崩落し、壁の亀裂から蔦が這い込んでいる。入口の石柱は片方が倒れ、もう片方だけが斜めに空を支えていた。かつては巡礼路の休憩所だったのかもしれない。今は獣の寝床にすらならない廃墟だった。


 だが壁画だけが残っていた。


 善悪の分離を描いた古代の絵──光の神と闇の神が向かい合い、その間に七つの炎が灯されている。色褪せているが、かつての鮮やかさが窺える。青と金で描かれた光の神は穏やかな表情をしており、赤と黒で描かれた闇の神は牙を剥いている。その二神の間に、七つの炎が等間隔に並んでいた。聖火だ。善悪の境界を照らす七つの炎。


 キアンが壁画を真実視で見つめた。


 色がなかった。嘘の赤も、真実の白もない。描いた者の意図は千年以上前に消えている。絵具の下に込められた信仰も、祈りも、時間の中で蒸発していた。真実視は生きた言葉にしか反応しない。死んだ言葉──時間に風化された言葉には、色が宿らない。


 静かな発見だった。嘘にも寿命がある。真実にも。千年経てば、どちらも等しく消える。善悪の分離を描いた壁画は、善でも悪でもない──ただの顔料の痕跡になっていた。


 アタルが壁画の前に立ち、長く見つめていた。老人の背中が、いつもより小さく見えた。何かを思い出しているような沈黙だった。だが振り返ったときの表情は穏やかで、キアンの真実視にも色は映らなかった。


「見回りをしてくる。少し休んでおれ」


 アタルがそう言って、廃墟の外に出ていった。アナヒドは入口近くの石柱に寄りかかり、銀壺を膝に抱えて目を閉じていた。疲弊が溜まっている。共感力がキアンの不安と荒野の寂寥を受信し続けて、消耗しているのだ。


 キアンは一人で、廃墟の奥に入った。


 崩れかけた祭壇があった。石を積み上げた簡素な台で、頂に火皿が載っている。火皿は空だった。かつてここに聖火が灯されていた。今は灰すら残っていない。空の火皿が、口を開けた死者のように天井を向いている。


 壁画の神々だけが見守っていた。色褪せた善と悪。もう善悪の区別すらつかないほど劣化した絵。光は天井の穴から差し込み、埃が柱のように浮かんでいた。崩落した天井から入る光が、祭壇の上に四角い明るみを落としている。その明るみの中で、埃が金色に舞っていた。


 祈ろうとした。


 なぜかはわからない。衝動だった。何に祈るのかもわからない。聖火は消えた。善悪の神に祈る意味があるのか。神殿を追放された異端者が、廃墟の神殿で膝を折る滑稽さを自覚していた。だがそれでも──祈りたいという衝動があった。嘘で鎧った自分の奥底から、何かが這い出そうとしていた。


 祈りとは何なのか。善行の見返りを求める取引か。それとも──もっと根源的な、何かへの渇望か。キアンは知らなかった。出身神殿で祈りを教わったことはあるが、あれは形式だった。決まった言葉を決まった姿勢で唱える──嘘に近い祈り。形式の中に魂がない祈り。今、キアンの中にあるのは、形式なき衝動だった。


 石の祭壇の前に膝をついた。冷たい石が膝に当たった。手を合わせようとして、やめた。手を合わせる作法はどの神への祈りだったか。わからない。何もわからないまま、ただ頭を垂れた。


 キアンは嗄れた声で呟いた。


「……俺は嘘つきだ。だから祈りも嘘になるかもしれない。でも──」


 喉が灼けなかった。


 キアンは目を見開いた。灼けない。「俺は嘘つきだ」──真実。「祈りも嘘になるかもしれない」──真実。自分が嘘つきであることを認め、祈りすら嘘になる可能性を恐れること。そのすべてが──真実だった。


 嘘つきが祈ること。矛盾しているはずだった。嘘で鎧った人間が、嘘を剥いで祈ること。だが矛盾ごと真実だった。嘘つきであることを自覚しながら祈る。その自覚が、祈りを真実にしている。嘘つきの自己認識が、逆説的に祈りの純度を保っている。


 言葉が途切れた。「でも──」の先が出てこなかった。でも何だ。でも祈りたい。でも救われたい。でも──何かを信じたい。嘘つきの自分が、何かを信じたいと思っている。それが何なのかはわからない。善悪の神か。消えた聖火か。それとも──もっと漠然とした、世界の根底にある何かか。


 言葉にならなかった。だが言葉にならないまま、頭を垂れ続けた。廃墟の沈黙が、キアンの沈黙を包んでいた。崩れた天井から差し込む光の中で、嘘つきの少年が初めて──嘘をつかずに何かと向き合っていた。


 柱の陰に、気配があった。


 アナヒドだった。入口で休んでいたはずのアナヒドが、いつの間にか奥まで来ていた。柱の陰に身を寄せ、キアンの祈りを聞いていた。


 アナヒドは音を立てずに後退った。柱の陰から出口に戻り、元の場所で銀壺を膝に抱えた。目を閉じた。


 しばらくして、キアンが神殿を出た。


 アナヒドが普通の顔で待っていた。目元が少しだけ赤い気もしたが、荒野の乾いた風のせいだろうと、キアンは思うことにした。


「お参りですか?」


 アナヒドが微笑んだ。穏やかな声だった。


「……別に」


 喉が灼けた。嘘だ。祈っていた。初めて本気で祈っていた。


 二人とも気づいていた。キアンは自分が祈ったことを隠し、アナヒドはそれを見たことを隠している。二重の嘘が、二人の間に透明な膜を張っていた。だがその膜は冷たくない。温かい。触れないことで守られるものがある。暴かないことで保たれる尊厳がある。


 嘘つきのキアンが、初めて──嘘を暴かないことを選んだ。アナヒドの目元の赤みに気づいていた。共感力で何かを受信したことも察していた。だがそれを指摘しなかった。優しい沈黙を選んだ。


 アタルが見回りから戻ってきた。老人はキアンとアナヒドの間の空気を一瞥し、何も言わなかった。老人の沈黙は──いつもの透明な空白だった。


 三人が歩き出した。廃墟の神殿が背後に遠ざかっていく。崩れかけた石柱が、傾いだまま空を支え続けている。


 キアンは振り返らなかった。だが喉の奥に、祈りの残響が灼けずに残っていた。嘘つきの祈り。矛盾した祈り。だが──確かに本物だった。


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