消えゆく声
キアンの声の嗄れが顕著になっていた。
朝、目を覚ましたとき、最初に気づくのは喉の奥の乾きだった。水を飲んでも潤わない。砂を噛んでいるような感覚が、嚥下のたびに喉の内壁を擦る。声を出そうとすると、以前は嗄れながらも通っていた音が、今は擦り切れた布のようにかすれて途切れる。
普通の声量で話すことが困難になりつつあった。囁きに近い声でしか話せない時間が増え、以前の滑らかで弁の立つ話し方は完全に失われていた。言葉を発するたびに喉の奥が引っかかるような違和感がある。引っかかるだけではない。灼ける。嘘を含まない言葉でも、声を出すこと自体が喉に負荷をかけるようになっていた。
嘘つきの少年から声が奪われていく。かつては言葉の洪水で生きていた。口先ひとつで大人を騙し、子供を慰め、敵を惑わせた。言葉はキアンの最強の武器であり、最後の砦であり、唯一の持ち物だった。それが消えていく。一日ごとに。一言ごとに。
アナヒドがエワルから水を汲み、キアンの喉に注いだ。銀色の水が喉を通るとき、冷たさが灼熱感を押し戻す。焼けた鉄に水をかけたときのような──一瞬の安堵。だがその安堵は長くは続かなかった。水の冷たさが一時的に灼熱感を和らげても、数刻で痛みが戻る。以前は半日保った効果が、今は数刻。代償の進行が、治癒の力を上回り始めていた。
アナヒドの表情に焦りが浮かんだ。眉根が寄り、唇が薄く引き結ばれている。共感力がキアンの喉の灼熱を感じ取っているのだろう。彼女の手が僅かに震えていた。
「もう少し深く……」
水をより多く使い、より長く治癒を施す。銀壺を傾け、聖水を惜しみなく注ぐ。だが効果は同じだった。代償は力の本質だ。アシャ・サイトに刻まれた対価であり、外からの治癒では根本を変えられない。水は傷を癒すが、代償は傷ではない。力そのものの一部だ。治癒するということは、力そのものを否定するということであり、それは不可能だった。
アナヒドがエワルの蓋を閉じたとき、銀壺の中の水位がまた少し下がっているのが見えた。力を使うたびに減っていく聖水。アナヒドはそれに気づいていたはずだが、何も言わなかった。キアンも問わなかった。問う声が出なかった。
「大丈夫──」
キアンが言いかけた。喉が灼けた。鋭い灼熱が喉の奥から這い上がり、声帯を焦がすように走った。言葉が途切れる。もう「大丈夫」すら言えなかった。大丈夫ではないからだ。喉が灼ける。それは嘘だと身体が告発する。嘘を含む言葉を発しようとすると灼ける──その代償が、社交辞令の域にまで侵食していた。
アナヒドが目を伏せた。白い──いや、白ではなかった。彼女の沈黙に色はなかったが、その表情には言葉にならない何かが溜まっていた。キアンの嗄れた呼吸音だけが、二人の間に満ちた。
アタルは少し離れた場所で焚き火の残りを片づけていた。老人は何も言わなかった。だがキアンの方を一度だけ見た。その眼差しには──温もりと、静かな悲嘆が同居していた。
昼間、街道の茶屋で休んだとき、茶屋の主人が「お客さん、声の具合が悪いなら蜂蜜湯がいいよ」と勧めてきた。白──善意だった。嘘はない。キアンは頷いた。蜂蜜湯を飲んだ。温かく、甘く、喉を滑り落ちていった。一瞬だけ楽になった。だが蜂蜜湯が胃に届く頃には、灼熱感が戻っていた。外からの治療では届かない場所が灼けている。声帯の奥、喉の芯、言葉が生まれる場所そのものが代償に侵されている。
茶屋を出るとき、主人に「ありがとう」と言おうとした。声がかすれて音にならなかった。代わりに頭を下げた。頭を下げることに嘘は含まれない。だが「ありがとう」を声にできないもどかしさが、胸の底に澱のように溜まった。
夜、一人で考えた。
焚き火の前で膝を抱え、星空を見上げながら。「大丈夫」の代わりに何と言えばいいのか。嘘を含まない言い換え。嘘を含まない言葉だけで、日常の会話を成り立たせる方法。
「まだ動ける」
囁いた。喉は灼けなかった。事実だった。動ける。まだ。足は動く。目は視える。声は──かすれているが、完全には消えていない。まだ。
「平気だ」
試した。灼けた。平気ではないからだ。喉の奥で火が弾け、声が途切れた。咳き込む。平気という言葉には、痛みがないという意味が含まれている。痛みはある。常にある。だから平気は嘘だ。
「心配するな」
灼けた。心配する理由がある。喉の痛み。声の喪失。代償の進行。心配しないでいられる状況ではない。だから「心配するな」は嘘だ。
嘘つきだった少年が、言葉を選ぶ人間になっていく。以前は言葉の洪水で生きていた。口を開けば嘘と真実が混然と流れ出し、どちらがどちらか自分でもわからなくなるほどの濁流だった。今は一言一言を秤にかけ、嘘が含まれていないかを確認してから口にする。言葉を発するまでの間が、以前の十倍になっていた。
皮肉だった。嘘つきが、世界で最も正直な人間になっていく。嘘をつけないから正直なのではない。嘘をつくと灼けるから、正直であることを強制されている。それは美徳ではない。代償だ。だが──不思議なことに、言葉を選ぶようになってから、口にする言葉の一つ一つが重くなった。以前の軽い嘘の洪水より、今の重い真実の一滴のほうが、相手に届いているような気がした。
アナヒドが毛布の中から半身を起こし、キアンの方を見ていた。声はかけなかった。ただ見ていた。彼女の目が青く、焚き火の光を映して水面のように揺れていた。何か言いたそうにしていたが、キアンが言葉を選ぶのと同じように、アナヒドもまた言葉を選んでいるようだった。
やがてアナヒドは何も言わず、横になった。
夜空を見上げた。星は白い。嘘のない光。声が消えていく。一日ごとに、確実に。嘘つきから声を奪うのは──皮肉なのか、必然なのか。
嘘で生きてきた者から嘘を奪い、嘘をつく道具である声を奪う。残酷なほど整合性の取れた代償だった。真実を視る力を得た代わりに、嘘をつく力を失う。それは等価交換なのか、それとも──罰なのか。
焚き火が燃え尽きかけていた。残り火が赤く、弱く、脈打つように明滅している。キアンは嗄れた息を吐き、喉を押さえた。首筋に走る火傷痕に似た瘢痕が、指先に触れた。以前はなかった痕だ。代償が身体に刻まれ始めている。声だけではない。やがてこの痕は顎まで這い上がるのだろう。そうなったとき、自分に何が残るのか。
星だけが白く、黙って光っていた。




