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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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嘘の手触り

 追手を退けた後、三人は都市から離れた農村部を進んだ。


 街道の両側に畑が広がっていた。麦穂が風に揺れ、黄金色の穂先が午後の陽光を受けて乾いた音を立てている。遠くで農夫が鋤を振るい、その傍で子供たちが畝の間を走り回っていた。空は高く、雲は白く、風は穏やかに土の匂いを運んでくる。都市の圧迫感と腐敗の色彩から離れ、キアンの真実視にも束の間の休息が訪れていた。


 赤の密度が違う。都市では視界全体が灼ける赤に覆われていた。ここでは赤は点在するだけだ。人が少なく、嘘も少ない。畑の間を吹き抜ける風に嘘の匂いはなく、麦穂の揺れに虚偽の色は混じらない。ただ人間が暮らしている。ただ畑を耕し、家族と過ごし、日々を繋いでいる。


 農民たちの嘘は小さかった。豊作を少し誇張する男の声は淡い赤。隣人の畑が自分より出来がいいことへの嫉妬を隠す女の表情にも、灼けるほどの赤はなかった。妻に「今年は大丈夫だ」と言いながら、内心では干ばつの不安を抱えている農夫の言葉は──温かい赤だった。灼ける赤ではない。痛みを含んでいるが、それは誰かを守ろうとする痛みだ。


 キアンはもう暴露しなかった。見ているだけ。穏やかな風景の中で「保留」の技術を実践した。視えている。でも暴かない。ただ視ている。都市であの神官長の腐敗を叫んだときの衝動は、今は凪いでいた。怒りで真実を語るなとアタルは言った。あのときは聞けなかった。だが今、この農村の小さな嘘を視ながら、暴く必要のない嘘があることを身体で理解していた。


 道端で、母親が幼い子供の手を引いていた。子供が転んで膝を擦りむき、泣いている。母親が「痛くない、痛くない」と言いながら傷口に布を当てた。その言葉は赤かった──嘘だ。痛いに決まっている。だがその赤は温かかった。微かに光を含んだ赤。子供の涙を止めるための嘘。子供はやがて泣き止み、母親の手を握って歩き出した。嘘が子供を救った。真実──「痛いよ、血が出ているよ」──は子供をもっと泣かせただろう。


 あの母親の嘘と、神官長の嘘は、同じ「嘘」だ。真実視はどちらも赤く灼く。だが──同じではない。色の温度が違う。質が違う。重さが違う。


 歩きながら、キアンは独自に「嘘の分類」を始めた。


 搾取の嘘──都市の神官長のような、弱者から奪うための嘘。灼ける赤。黒に近い。あの赤は喉を灼くだけでなく、視ているだけで目の奥が痛んだ。


 保身の嘘──自分を守るための嘘。暗い赤。痛みを含んでいる。火神殿を追われる前、キアン自身がつき続けた嘘の色と似ていた。


 優しい嘘──あの母親のような、誰かを守るための嘘。温かい赤。微かな光を含む。赤なのに、白に近い温度がある。


 虚栄の嘘──自分を大きく見せるための嘘。淡い赤。害は少ない。市場の呼び込みや行商人の口上に多い色だ。


 恐怖の嘘──恐怖を隠すための嘘。灰色に近い赤。震えている。聖火消滅の噂を聞いた人々が「大丈夫だ」と呟くときの色。


 赤にも濃淡がある。温度がある。質感がある。嘘のグラデーションが視えるようになっていた。すべての嘘を等しく「悪」と断じるのは乱暴だった。都市であの神官長を糾弾したとき、キアンはすべての赤を同じ「悪」として灼いた。だがそれは正しかったのか。搾取の嘘と、恐怖の嘘を、同じ赤として裁くべきなのか。


 アナヒドが隣を歩いていた。キアンの視線が農村の風景を追っていることに気づいたのか、穏やかな声で言った。


「静かな場所ですね」


「ああ」


 嗄れた声で答えた。喉は灼けない。静かだという認識は事実だった。アナヒドの声は白かった。いつも白い。彼女の言葉に赤が混じることは稀だった。共感力が嘘を許さないのか、それとも彼女自身の性質なのか──キアンにはわからなかった。ただ、その白さが休息だった。赤い色彩の洪水の中で、アナヒドの白は岸辺のようなものだ。


 夕暮れが近づき、三人は農村の外れで野営の支度を始めた。焚き火が揺れ、乾いた枝が爆ぜる音が夜の静寂に溶けていく。アタルが火を見つめている。老人の顔に揺れる炎の光が、深い皺の影を濃くしていた。


 アタルが微笑んだ。キアンの変化を見抜いたのだろう。いつものことだ。この老人は、キアンの内側で起きていることを、言葉にする前に気づく。


「嘘を分類できるようになったか」


「……まだ荒いけど」


 キアンは焚き火の炎を見つめたまま答えた。荒い。自覚はある。五つに分けたが、重なる嘘もある。保身と恐怖が混在する嘘。優しさと虚栄が入り混じる嘘。一つの嘘に複数の色が重なる場合、どう分類すればいいのかわからない。


「それが真実視の次の段階への入口じゃ。嘘を視るだけでなく、嘘を理解する」


 アタルの声に色はなかった。いつもの透明な空白。この老人の言葉を真実視で視ても、赤は見えない。白でもない。ただ透明だ。嘘ではなく、真実とも違う。アタルの言葉はいつもそうだった。色のない場所にいる。


「理解して、どうするんだ」


「それは、おまえが決めることじゃ」


 答えを与えない。いつもそうだ。問いを投げかけ、考えさせ、自分で辿り着くよう仕向ける。キアンは以前ならその回りくどさに苛立っただろう。だが今は──苛立ちよりも、考えることへの手応えがあった。嘘を理解して、どうするのか。暴くのか。黙るのか。それとも、もう一つ別の選択があるのか。都市では暴いた。結果は追放と追跡だった。だが暴かなければ、搾取は続いていた。暴くか黙るかの二択しかないのか。第三の道があるとすれば──それはまだ、キアンには見えていなかった。


 焚き火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がり、星に混じって消えていく。アナヒドはすでに毛布に包まって横になっていたが、まだ眠ってはいないようだった。呼吸が浅い。共感力で都市の喧噪を受け続けた疲弊が、まだ抜けきっていないのだろう。


 農村を離れる翌朝、キアンは振り返った。


 朝靄の中に、農村の低い家屋の輪郭が霞んでいる。煙突から朝餉の煙が立ち上り、どこかで鶏が鳴いている。畑の畝に朝露が光り、農夫がもう鋤を手に出ていた。あの農村の嘘は温かい色が多かった。嘘にも温度がある。灼ける嘘と、温かい嘘と、冷たい嘘がある。赤という一つの色の中に、人間の営みのすべてが映っていた。あの母親の嘘は温かかった。あの農夫の嘘も温かかった。都市の神官長の嘘は灼けていた。同じ赤でも、まるで違うものだ。


 真実視は、嘘を裁く目ではなく──嘘を理解する目になれるのかもしれない。


 まだわからない。だがその可能性が、嗄れた喉の奥で微かに温かかった。


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