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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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声が嗄れる

 旅が進むにつれ、代償が進行していた。


 嘘をついた時だけではなくなっていた。社交辞令──「ありがとう」「おはよう」のような形式的な言葉──でも、喉に微かな灼熱感が走る。完全な嘘ではないが、完全な真実でもない。形式的な挨拶に含まれる僅かな虚礼が、代償の引き金を引く。朝、アナヒドに「おはよう」と言おうとした。口を開き、最初の一音が出た瞬間、喉の奥にちりちりとした熱が走った。おはよう──本当に良い朝だと思っているか。思っていない。眠れなかった。真実視が夢の中まで追いかけてきて、夢の中の人物の嘘まで赤く灼けていた。良い朝ではない。だから「おはよう」は嘘を含んでいる。形式的な嘘。社会を滑らかに回すための、誰も傷つかない嘘。それすら喉を灼く。


 嘘と社交辞令の境界が曖昧になり、キアンはどの言葉を口にするのも億劫になった。一言を発する前に、立ち止まる。この言葉に嘘はないか。形式的な虚礼はないか。灼けないか。思考が言葉を検閲し、検閲を通過した言葉だけが口から出る。以前は饒舌だった。嘘と冗談と皮肉で場を回し、人の輪に入り込むことが得意だった。言葉の洪水で空間を支配していた。今は一言を発するのに考え込む。沈黙が増えた。以前のキアンを知る者がいれば、別人だと思うだろう。


 寡黙になっていく自分を、キアンは奇妙に思った。嘘つきが無口になる。言葉の洪水で生きてきた少年が、言葉を恐れるようになる。言葉を発するたびに灼熱感のリスクがあるから、発さないほうが安全だ。黙っていれば灼けない。黙っていれば嘘もつかない。だが黙っていれば──何も伝えられない。感謝も、心配も、皮肉も、冗談も。嘘つきから嘘を奪うだけでは足りないかのように、代償は言葉そのものを奪おうとしていた。


 声も変わり始めていた。


 以前の滑らかで弁の立つ話し方と比べると、やや粗い。声帯が灼熱の繰り返しで傷んでいるのか、高い声が出にくくなり、低い囁きのような声質が増えている。声の輪郭がぼやけ、子音が潰れる。特に「さ行」と「は行」が嗄れやすい。以前は声だけで人を操れた。声色を変え、抑揚を使い、嘘に説得力を与えることができた。今はその精密な道具が錆びつつある。


 キアン自身は気づいていた。朝、水袋の水で喉を潤すとき、水が沁みる。冷たい水が喉を通る瞬間、薄くなった粘膜が悲鳴を上げる。灼熱の繰り返しが粘膜を傷め、再生が追いつかない。夜中に咳き込むことが増えた。乾いた咳が暗闇に響き、喉の奥が引き攣る。咳の後、口の中に微かな血の味が残ることがある。気のせいだと思いたいが──気のせいだと思うこと自体が嘘だ。喉が灼ける。もはや自分を騙すことすらできない。


 声が嗄れていくことの恐怖は、痛みとは別の場所にあった。痛みは耐えられる。灼熱感にも慣れてきた。だが声が変わっていくことは──自分が自分でなくなっていくような感覚だった。


 アタルも気づいていた。キアンが話すたびに、老人の目が微かに細まる。声の嗄れを聴き取っている。だが口にしない。


 アナヒドも気づいていた。治癒の頻度が増えている。エワルの水を喉に当てる回数が、旅の初めと比べて倍になっている。だが何も言わない。


 三人とも口にしなかった。その沈黙が、逆に不安を増幅した。知っていて言わない。三人全員が知っていて、三人全員が黙っている。キアンの声が嗄れていることを。代償が進行していることを。不可逆であることを。この沈黙は優しさなのか、臆病なのか。優しい嘘の亜種なのか。「気づいていないふり」は嘘ではないのか。アナヒドがキアンに水を差し出す回数が増えた。以前は求められてから渡していたのに、今は自発的に差し出す。それは「気づいている」証拠だ。アタルがキアンに話しかける頻度が僅かに減った。声を使わせまいとしているのか。それもまた「気づいている」証拠だ。キアンの真実視は、三人の沈黙の中に微かな赤の揺らぎを視ていた。「気づいていないふり」という嘘。だが追及しなかった。ここでも「保留」の技術が働いた。三人の沈黙は、形を変えた思いやりだった。不器用で、脆い、嘘に似た優しさ。


 夜、一人で喉を押さえた。焚き火の灰が風に舞い、星空の下で砂の冷たさが膝裏に染みる。


 挨拶も世辞も気遣いも──すべてに多少の嘘が混じる。人間は完全な真実だけでは社会生活を送れない。「元気?」「元気だよ」。その「元気だよ」に含まれる僅かな誇張が、喉を灼く。「ありがとう」。本当に感謝しているか。半分は社交辞令だ。半分の社交辞令が、半分の灼熱感を生む。完全な真実だけで構成された言葉は──ほとんどない。人間の言葉は、嘘と真実の合金でできている。合金のどこかに含まれる嘘の成分が、喉を灼く。


 嘘なしには生きられないのに、嘘をつくたびに声を失っていく。逃れようのない構造だった。罠のように精密な構造。嘘をつかなければ社会から切り離される。嘘をつけば声を失う。社会に留まるか、声を守るか。二者択一。だが社会に留まらなくても──嘘は自分自身の中にもある。自分に向けた嘘。「大丈夫だ」「平気だ」「怖くない」。自分を支えるための嘘。それすらも喉を灼く。自分への嘘も許されないなら、キアンはどうやって自分を保てばいいのか。


 喉を押さえる手が冷えていた。夜風が指の間を通り抜け、砂粒が指の腹に貼りついた。遠くで獣の遠吠えが聞こえる。長く、低く、荒野の闇に溶けていく声。あの獣は嘘をつかない。獣に嘘はない。嘘は人間だけのものだ。人間だけが嘘をつき、人間だけが嘘で苦しむ。真実視は人間の嘘を視る力だ。獣には効かない。自然には効かない。嘘は人間の病だ。そしてキアンは、その病を視る目を持ち、その病に灼かれる喉を持っている。


 焚き火の番をしているアタルが、眠れないキアンに問いかけた。老人の声は穏やかだが、どこか重い。焚き火の炎がアタルの顔を照らし、深い皺の影が揺れていた。


「声が嗄れてきておるな」


「……気のせいだ」


 喉が灼けた。声が嗄れて、最後の一音が掠れた。


 二人とも苦笑した。嘘だとわかっている。キアンの声が嗄れていることは、嘘ではないから。「気のせいだ」は嘘だ。だがこの嘘は──互いに承知の上の嘘だ。暴く必要もない。師弟の間に、苦い共犯関係のような親密さが流れた。キアンの苦笑は嗄れた息のような音になり、アタルの苦笑は焚き火の爆ぜる音に紛れた。二人の間に横たわる沈黙が、不安の沈黙から──少しだけ違うものに変わった気がした。苦笑が共有されたから。嘘を承知で交わす軽口が、互いの痛みへの理解の証になっている。夜風が焚き火の煙を横に流し、星空が白く瞬いている。明日の朝もキアンは「おはよう」を言えないだろう。だが──苦笑は共有できる。嘘を含まない苦笑は、喉を灼かない。それだけで、十分だった。


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