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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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師の技

 アタルが実践的な修練を課した。


 旅先で出会う人々の嘘を「視る」だけでなく、「嘘の奥にある動機」を推測する訓練。街道の茶屋で休憩する旅人たちを、キアンは焚き火の白を基準にして観察した。焦点化の技術で一人ずつに意識を向ける。茶屋の軒先には干し肉と乾燥果実がぶら下がり、土の壁に染みついた油と香辛料の匂いが鼻をつく。旅人たちが木の卓を囲み、茶を啜りながら話し込んでいた。


 商人が旅の苦労を誇張している──虚栄。赤の中に淡い光が混じっている。灼ける赤ではない。温かくもないが、冷たくもない。ただ自分を大きく見せたいだけの、害のない嘘。「盗賊に三度も襲われてな」と身振り手振りで語る声は赤いが、その赤の底には孤独がある。旅の話を聞いてもらいたいだけだ。注目されたいだけだ。嘘の動機は──虚栄ではなく、寂しさだった。


 若い男が恋人への贈り物の値段を安く言っている──見栄。赤いが温かい。贈り物は指輪だった。「市場で安く手に入れた」と友人に笑って言うが、実際には三月分の稼ぎを注ぎ込んでいる。嘘の動機は──照れだった。愛情を直接語れないから、嘘で包む。


 老人が自分の病状を軽く語っている──恐怖。赤の底に暗い影がある。「大したことはない、咳が出るだけだ」と言う声が震えている。赤の奥にあるのは死への恐怖だった。恐怖を認めれば崩れる。だから嘘で壁を作り、恐怖を外に出さない。あの母親と同じ構造だ。恐怖を和らげるための嘘。


「嘘には理由がある」とアタルは言った。杖を膝に渡し、背筋を伸ばして座る老人の姿は、茶屋の雑然とした雰囲気の中で異質なほど静謐だった。「恐怖、虚栄、優しさ、自己防衛。嘘を視るだけでなく、なぜ嘘をつくのかを理解する。それが真実視の本質に近い使い方じゃ」


 嘘を裁くのではなく、理解する。キアンにとってまったく新しい感覚だった。嘘つきとして相手の嘘を見抜いてきた。だが見抜いた上で「理解する」ことはなかった。見抜いて利用するか、見抜いて避けるか。そのどちらかだった。嘘は道具だった。利用するための素材であり、自分を守るための材料。相手の嘘を見抜けば、そこに付け込める。ダルシュが食事を独り占めしている嘘を見抜き、別の嘘で対抗した。神官たちの偽善を見抜き、黙っていることで立場を守った。嘘を見抜く力は常に「自分のため」に使ってきた。それが孤児院で生き延びるための技術だった。だが「理解する」は違う。自分のためではなく、相手を知るために嘘を視る。なぜ嘘をつくのかを考えることだ。寂しいから。照れているから。怖いから。嘘の向こうに人間がいる。嘘を透かして人間を視る。それが真実視の本質だとアタルは言う。商人の虚栄の裏にある寂しさを知ったとき、キアンの胸に微かな痛みが走った。嘘を視ているのに、嘘の向こうに──共感のようなものが芽生えかけていた。


 修練の合間、アタルが珍しく自分のことを語った。焚き火の傍で、老人の声がいつもより低くなった。遠い記憶を辿るような、ゆっくりとした語調。


「わしも若い頃は……いや、長い話じゃ」


 途中で言葉を切った。「若い頃」という言葉が口から出た瞬間、アタルの表情に微かな戸惑いが走った。言うべきではなかったことを言ってしまった、という顔だ。老いた手が杖を握り直し、視線が焚き火に戻る。キアンは真実視でアタルの言葉を視ようとしたが──やはり色が視えなかった。赤くも白くもない。空白。嘘をついているのか、それとも嘘でも真実でもない何かを語っているのか。この老人の言葉だけが、真実視の網をすり抜ける。「若い頃」とアタルは言った。だがこの老人の「若い頃」は、いつのことだ。十年前か。二十年前か。それとも──もっと遠い、人間の寿命では測れない時間の彼方か。問い詰めたい衝動を、キアンは飲み込んだ。今はまだ。


 夜、星空を見上げて修練をした。荒野の夜空は圧倒的だった。星の光が降り注ぎ、天の河が白い帯となって頭上を横切っている。砂漠の乾いた空気が星の光を通し、一つ一つの星が硬質な輝きを放っていた。自然の「白」の中に意識を浸す技術。星の光は白い。風は白い。砂は白い。すべてが真実の色で澄んでいる。嘘のない世界。人間がいない世界の清澄さ。


 その白の中に沈む。沈む。沈む。呼吸を整え、意識の焦点を自分の内側から外側へ──星空の白へと移していく。砂漠の砂が冷たく指の間に流れ、岩の表面が夜露で微かに湿っている。風が肌を撫で、乾いた空気が鼻孔の奥まで届く。五感のすべてを自然に委ね、人間の嘘の色彩を背景に退かせる。赤い色彩が薄れていく。遠ざかっていく。茶屋の商人の赤。老人の赤。若い男の赤。アナヒドの微かな曖昧な色。アタルの空白。すべてが遠ざかり、薄れ、消えかかる。まだ完全には消えない。視界の隅に赤の残滓が揺れている。だが中心は白い。白い光だけが意識を満たしている。


 数分間だけ、嘘の色が消えた視界を得た。


 世界が──澄んでいた。赤い色彩が消え、ただ白い光だけが視界を満たしている。星の光と風の音と、焚き火の温もりだけの世界。嘘のない世界は、こんなにも静かで、こんなにも美しい。耳に届くのは風の音と虫の声だけだ。色彩の洪水がない。判断の必要がない。ただ──在る。世界がただそこに在る。


 涙が出そうになった。なぜだかわからない。目の奥がじんと熱くなり、睫毛が湿った。拭いたくない。この感覚を壊したくない。ただ、この清澄さに飢えていたのだと気づいた。嘘の色彩に塗りつぶされた日常の中で、白だけの世界がこれほど渇望されていたのだと。嘘つきの少年が──嘘のない世界を、こんなにも求めていた。皮肉だ。嘘で生き延びてきた少年が、嘘のない世界に涙する。だがこの涙は──嘘ではなかった。


 アタルが呟いた。


「いつか、選べるようになる」


 選べるようになる。視るか視ないかを、自分の意志で。だがキアンにはまだ信じられなかった。力は勝手に発動し、勝手に世界を赤と白に塗り分ける。それを止める手段はない。今夜の数分間は例外だ。星空の白に意識を委ね、人間の嘘から離れることで辛うじて実現した一時的な遮断。人間のいる場所では不可能だ。街にいれば嘘の色彩が四方から押し寄せ、遮断どころではない。だがこの数分間の清澄さは──確かに、未来の断片だった。いつか選べるようになる。そう信じたい。信じたいと思ったこと自体が、喉を灼かなかった。嘘ではないから。


 星空が白く輝いている。焚き火の灰が風に舞い、闇の中で一瞬だけ赤く光る。アタルの横顔が炎に照らされ、深い皺の一本一本が影を落としていた。あの老人は何を思ってこの星空を見ているのだろう。三千年の炎を知る者は、星の光をどう視るのだろう。キアンは目を閉じた。まだ清澄さの残滓が瞼の裏に揺らいでいた。いつか、あの白だけの世界に。


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